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149話 目覚めの森で

 

 閉ざした瞼のむこうがわで、ちらちらと暖かな木漏れ日が輝いている。


 お朧げに目覚め、ブレスは幾度か目を瞬いた。

 長い悪夢を見ていた気がした。

 死と苦しみと憎しみに満ちたひどい夢だ。


 隆起した木の根元に横たわり、頬を撫でる風の心地よさを感じているうちに、見ていた夢のことはどうでも良くなっていった。


 ここはこんなにも静かで清らかだ。

 猥雑な物事は何も起こらない。

 鳥や獣や木々は穢れない。


 そよ風と木々の子守唄に誘われるまま、再び目を閉じて眠りに落ちていく。

 ずっとここにいよう。


(……ここ?)


 ここはどこだ?

 気泡のように浮かび上がった疑問が、凪いだ水面に波紋を生んだ。

 再び目を開ける。ぼやけた視界が次第に鮮明になっていく。


 そこは原生林だった。精霊の統べる、獣と木々と妖精と夜の生き物のための森だ。

 夢の中で来たことがある。

 母ルシアナが、夢を訪ねてやってきた時に。


 また夢を見ているのだろうか。

 起き上がり、立ち上がり、視界が眩んで木に手のひらをついた。

 体の感覚がある。これは夢ではない。


 なぜこんなところにいるのだろう。

 誰かいないだろうかと口を開くが、なかなか声が出てこない。

 幾度か咳払いを繰り返しているうちに胸から咳が込み上げてきた。


 座り込んで咳き込んでいると、目の前に誰かが立った。

 顔を上げる。


「ひどいあり様だな、ルミナス」


 出来ればなるべく会いたくなかった、紺碧の髪の神がそこに立っていた。


 答えようにも答えられず、せめて彼の足元を汚さないようにじりじりと後ずさるブレスの肩を、ヘリオエッタはおもむろに踏んだ。

 これで彼に踏まれたのは三度目だ。


「おやめ、ください……御御足を、汚してしまいます」


 掠れて聞き苦しい声ながら、途切れ途切れになんとかブレスは言葉を紡いだ。

 ヘリオエッタは取り合わない。相変わらず機嫌の読めない顔だ。


「俺は俺のしたいようにする」


 その言いようを聞いて、ブレスは思い出した。

 この神にはやらせたいようにやらせておくのが、一番被害が出ないのだということを。


 踏まれた肩をそのままぐいと押し倒され、無抵抗に地面に大の字になる。

 顔の横で何かくすぐったいものが動いた。

 ウサギだ。


 ふくふくとした温かい生き物に笑みがうかぶ。

 指先で毛並みを撫でる。

 何か違う。


 いつも懐に抱いていた生き物がいたはずだ。

 思い出さなければという焦燥と、思い出したくないという拒絶が同時に現れて反発しあう。


 ──いいや、忘れられるものか。


 彼女は猫だった。

 真っ黒で艶やかな長毛で、二本の尻尾を持つ、金色の目をした妖精だった。

 いつもブレスを守ってくれた。

 心が折れそうな時は支えてくれた。

 大好きだった。

 その大切な彼女は、いつもと同じようにブレスを守って、消えてしまった。

 名前はミシェリー。


「……っう……く……」


 何もかもを思い出した。

 あれは夢などではなかったということを。


 涙がぼろぼろとこぼれ落ち、大地に吸い込まれて消えていく。

 腕で顔を覆い嗚咽するブレスを、ヘリオエッタは無言のまま裸足で押さえつけている。


「まだ起きるには早い。()()。我らが揃うまで」


 やがて平坦な声でそう言ったヘリオエッタの言霊の力によって、ブレスの意識は奪われた。




 次に目が覚めた時は、真紅の両眼がブレスを覗き込んでいた。

 以前は金色だった、きらきらと煌めくガーネットの眼だ。


「おー、起きたか。おはよ、フィー」

「……マリー様……」

「あ、えっとねえ、今はサハナドールってお呼び」


 唇に人差し指を当ててあたりをきょろきょろと見回し、彼女はちょっと困ったように笑う。


「うちの上のきょうだいは、なんやかんやと煩いからさ」

「……兄君にお会いしました、サハナドール様」

「あーね、うん、あたしも会ったよ。さっき。まあでも大丈夫、兄上は姉様がいる席では大人しいから」


 姉様。春の乙女プライラルムまでもが、この森に?

 いったい何が行われようとしているのだろうか。


 ブレスの不安を感じ取ったサハナドールが、首を傾けて微笑む。

 同じように、ちょっと困った様子で。


「今ね、カナンが冬の眠りから起きるのを待ってるとこなんだ。あいつが起きたら、エッタがライラを呼びにいく。そしたらみんなで、話をしよう」


 いったい何について。

 腐葉土の上から起き上がり、大きな木の根元にもたれて座る。

 呼吸が前回目覚めた時よりも楽になっていた。

 あの勝手気ままな夏の神が、抑えてくれたのだろうか。


「まだあんまり動かない方がいいよ。骨も脆いし、呪いもこびりついてるし」

「……はい」

「元気、ないね」


 苦笑と涙がいっぺんに滲んだ。

 膝に額を押し付けて泣くブレスの頭を、サハナドールは幼子にするように撫でる。


「……ミッチェを、死なせてしまったんです……」

「うん」

「俺が(おご)ったから。俺が背負えば、みんな助かると思って……でも、違ったんです」

「うん」

「解っていたと思っていました、呪いの怖さを。けど結局、上辺しか理解してなかった……っ」

「うん」


 声が歪む。どうして彼女の声は、こんなに優しいのだろう。

 ミシェリーは彼女の猫だったのに。

 サハナドールの大事な妖精だったのに。


「いっぱいお泣き。悲しい分だけお泣き。泣いた分だけ空っぽになるんだよ。空いた隙間に何を満たすかは、お前しだいさ」


 なにもいらない。

 ミシェリーの代わりなんかない。

 ずっと隙間だ。もう埋まらない。


 心の中で叫ぶブレスを、サハナドールはそっと抱きしめてくれた。


 泣きつかれた頃、しばらくして今度はカナンがやってきた。

 白く長い髪を引き摺りながら、淡い金色の目で眠たげにブレスを見下ろした。


「これはまた、厄介な呪いを受けたものだね。君には呪いの収集癖でもあるのか?」


 呆れ切ったその言葉に、ブレスは力無くカナンを見上げた。


 もとを辿ればブレスが死んだせいとは言え、帝都で暴れるだけ暴れて竜を回収するなり眠りこけていた頼りにならない先生だ。


「いま君、何か無礼な事を考えたね。翼が無かろうが、そのくらいわかるのですよ」


 それはブレスの隣で、サハナドールが笑いを堪えているせいでは無かろうか。

 仕方なさそうに首を振り、膝をついたカナンは、そっとブレスの肺の上に掌を置く。


「ああ、サハナが閉じ込めたのか。だが時間が経ち過ぎたね。呪いが癒着してしまっている」


 ふと目を伏せ、カナンは呟く。


「完全には治らないだろう。魂と癒着した呪いは、一度終わらせても息を吹き返す事も多い」


「そうだよねぇ。ミシェリーが護ってたから、春までほっといても大丈夫だって思ってたんだけど、いなくなっちゃったから……ひどくなる前に、その都度カナンが終わらせてくれたらなんとかなる?」


 そうする他ないだろう、とカナンは肩をすくめた。

 治らなくったっていい。

 過ぎった自暴自棄な感情を表に出せないまま、額の目を開いたカナンの指がブレスの肺に沈んでいく。


 癒着した呪いを剥がすのは、激しい痛みを伴うはずだった。

 けれど、以前のような痛みは、もはや感じられなかった。

 痛みはただの痛みだ。失うこととは違う。


 身体のあちこちを掻き回されて気分は悪くなったが、胃に吐くものがなかった。

 ずっと眠らされていたのだっけ。

 熱でぼんやりしていたせいか、あまりよく覚えていない。


 大木にもたれてそれをやり過ごしていると、やがてヘリオエッタが現れた。

 相変わらず機嫌の読めない顔で、けれど暴力的なほどの存在感を放ちながら、大股で歩いてくる。


 彼は大きな獣を先導していた。

 狐だ。

 子馬ほど大きいが、狐は狐。


 真っ白でふかふかな毛並み、大きな耳の先端と目の周りは黄金色で、極上の枕になりそうな尻尾が三本。

 その狐には滝のような金髪を背に流した乙女が横向きに乗っている。


 見た目は十代半ば、その両眼は朝焼けの淡い橙。

 日長石(サンストーン)の目がサハナドールを見、カナンを見、そしてブレスを見た。

 柔らかな甘い目をしていた。


「こんにちは。はじめましてでしょうか? お前がわたしの弟妹たちが揃って目にかけている、あの人の子なのですね。こうしてお会いする日を、楽しみにしていましたよ」


 その言葉で確信した。

 どんなに見た目が幼くとも、彼女こそがサタナキアの第一子、春の乙女プライラルムなのだと。


 この世に現れる神々の四柱すべてを前に、ブレスは姿勢を正そうとした。

 けれどプライラルムは大きな狐に乗ったまま、良いのです、と微笑む。


「そういう作法は、今はいらないの。お前がわたしたちに会いに来たのではなく、わたしたちがお前を呼んだのですもの。言わば、お客様ですね」


 不思議なひとだ、とブレスは思った。

 四神のなかではいちばんか弱そうな姿なのに、プライラルムが話している間はカナンもサハナドールもヘリオエッタも、身じろぎひとつしない。


(まるで……)

「借りてきた猫のよう?」


 くすくすとプライラルムは微笑む。

 いまさら思念を読まれたくらいでは驚かないが、猫という言葉にずきんと胸が痛んだ。

 涙が頬に落ち、ブレスは顔をうつむける。


「きっとお前は、どうして呼ばれたのかと思っていることでしょう」


 大木に寄りかかって腕を組むヘリオエッタの隣に狐を止めて、プライラルムは正面からブレスを見下ろした。


「わたしたちも、滅多にこんなことはしないのですよ。ですけれど、お前にはわたしの下の弟と妹が大きな借りを作ってしまったでしょう」


「借り……?」


 なんの話しだろうかと思った。

 困惑して左右のカナンとサハナドールを見ると、ふたりは居心地が悪そうに視線を逸らした。


「そう、借りです」


 す、と橙の目が細められた。

 彼女は、そうすると狡猾な狐のようだった。

 柔らかく甘い、という印象が塗り替えられる。


「わたしの、可愛くて考え足らずな弟が力の制御を失った時、それを止めたのはお前でした」


 あれは元はと言えばブレスのせいだ。

 そう口を開こうとしたブレスに華奢な人差し指を立てて遮り、プライラルムは続ける。


「わたしの、可愛くて愚かな妹が己の影を受容出来たのは、お前の言葉によって夜の国の初代女帝が助力し、お前が連れてきたあの女の子(め こ)が、妹の影の自我を呼び戻したためでした」


 書の魔女は悪魔の親玉だったのか。

 それはびっくりだ。


 けれどサハナドールが影を受け入れることが出来たのは、書の魔女とエチカのおかげであって、ブレスの力ではない。


 困って左右をチラリと見ると、ふたりは叱られた子供のように、なんとも罰の悪そうな顔で明後日の方向を向いている。

 頼りにならない。


「エッタもですよ」


 プライラルムは狐のような顔のまま、くるりと振り返る。

 他人事だと聞き流していたヘリオエッタは、びくりと肩をはね上げる。


「我らが偉大なる父上の創り給うた大切な海のけものを運ぶ入れ物に、単なる人の子を利用するだなんて、なんと軽はずみな行いでしょう」


 このあたりでようやく気づいた。

 声の調子は穏やかだし、表情も笑ってはいるけれど、プライラルムは怒っているのだ。


 顔にも声にも出さないが、彼女は遠回しにきょうだいたちを責めている。

 にこにこと笑いながら。ちくちくと。


 サハナドールが姉に対して苦手意識や不信感を持っている理由は、これだ。


 ブレスの前では自由気ままにやりたい放題している三柱が、この少女のような長女の前では手も足も口も出せないとは。


 呆気に取られて涙も止まった。

 プライラルムはすごい。

 そして同じくらい怖いひとだ。


「これでお解りかしら? わたしの可愛い弟妹たちが、お前に度重なる借りを作ってしまったということが」


 くるりとブレスを見たプライラルムの顔は、相変わらず狐のようだった。

 この流れで反論は出来ない。いや、してはいけない。


 大人しく従い、首を縦に振ると、細められていた彼女の目がふっと元に戻った。

 心底ほっとした。


「仮初にも神と呼ばれるわたしたちが、人の子に借りを作るわけにはいきません」


 プライラルムは乗っている大きな狐の毛並みを撫でながら、輝く日長石の目でブレスを見つめる。


「ですから、わたしたちは話し合って決めたのです。お前はつらく苦しい経験をし、そして大切なものを失いました。あちらの世界に戻ったところで、その弱った心身で生きることは、大変な苦しみを伴うことでしょう」


 彼女は何を言おうとしているのだろうか。


 困惑し、沈黙を守っている三柱を見回すが、皆ブレスを見つめるばかりで何も言わない。

 プライラルムは告げる。


「わたしたちは借りを返します。お前が望む通りの素晴らしい人生を与えましょう。穏やかで、愛する者があり、尊敬され、豊かで、幸福な一生を。生まれ直すのです。廻り続ける生命の輪のなかからお前の魂を掬いあげ、ほんの少しだけ手を加えて、時と場所を選んで離すだけ。生み出す者であるわたしにとっては、簡単なこと」


「生まれ……直す……?」


「ええ。つらく苦しい今生は終わりにしましょう。何もかもまっさらになった光り輝く生を、生き直すのです」


 春の乙女プライラルムは生み出す者。

 確かに彼女の言う通り、彼女にはそれが出来るだろう。


 ブレスは沈黙した。

 女神の甘言。

 その誘惑に、傷ついた心は容易く揺れた。


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