147話 春が訪れれば
騒動はフェインの執務室で起こっていた。
部屋の前に集った屋敷の住人達が、イルダの姿を見て道を開ける。
「イルダ様……どうか仲裁なさってください」
「何事だ」
「ご当主とレシャ様が言い争いを」
レシャが叔父を相手に反発した?
未だかつてなかった事だ。
眉根を寄せ、下がれと命じて人払いをし、ドアを開ける。
着いてきていたネモはそっと廊下の壁にもたれ掛かった。
「話をうかがっていてもよろしいですか?」
「……構わないが、人目につけばいらぬ疑いをかけられるぞ」
「ご心配には及びません。これがありますので」
と言って男が掲げた手首には、金色の刻印の〈遮断の腕輪〉があった。
オリビアはよほどこの男を信頼していたのだと実感すると同時に、いつから持っていたのだろうかと寒気を覚える。
悪人じみた薄笑いを浮かべるネモを横目に部屋へ入ると、執務机についたフェインの目の前で、ターミガンを相手にレシャが激昂していた。
「イルダ……」
普段よりも幾分か曇った声音で、フェインが呼んだ。
髪を振り乱す勢いで振り向いたレシャの目が、涙を堪えて充血している。
「……いったいこれは何事ですか。オリビア様の寝室前まで届く大声で」
「イルダ、叔父上は非道だ。到底許せない……よくもそんなことを……ッ」
「落ち着けレシャ、まるで話が解らない。叔父上、どういう事です」
淡々と問うイルダに、しかしターミガンは視線を逸らした。
苦々しい顔に罪悪感が滲んでいる。
「お前に知らせるような話ではない」
「……私に話せない? オリビア様の件ですか?」
ターミガンの表情は肯定を示している。
は、と軽蔑するように息を吐いたレシャが、イルダに向けて告げる。
「叔父上はこれ以上殿下の苦痛を長引かせるのは酷だと仰って、楽にしてやるべきなのではないかとフェイン様に申し立てたのだ」
「──……」
楽に。楽にする?
なんだそれは。どういう意味だ。
殴られたような衝撃を受けた。
頭の中が真っ白になった。
身体が理解を拒んでいた。楽にするだと?
「……叔父上……それは、私の主人を、殺……」
殺してしまおうということか。
言いかけて喉が凍った。口にさえしたくなかった。
イルダは愕然とターミガンを見上げる。
目の前の男が突然他人になったような気がした。
心臓が早鐘を打ち、頭に血が上り、そして急激に覚めていった。
この男が主人を害そうと言うのならば、手を出される前に一刻も早く殺さなければ。
「イルダ」
全身から殺気を噴き出すイルダを、フェインの静かな声が呼び戻した。
その声を聞いてイルダは思い出した。
そもそもオリビアは死なない。
(……そうか……叔父もレシャもそれを知らないから……)
それでこの叔父はそんな事を言い出し、それを聞いたレシャが動揺したのだ。
眉間を押さえて深く息を吐き、気を鎮めながらフェインに横目を向ける。
その冷静さから察するに、フェインは彼の体質を知っている──ように見える。
見えるが、確信の持てないうちは断定はしない。
「叔父上、その必要はありません。オリビア様は回復します」
感情を抑えてそう述べたイルダを見下ろし、殺気に身構えていたターミガンは怪訝に眉を寄せた。
以前のイルダであれば確実に爆発していただろう言葉に対し、冷静に答えたことを不審に思ったのだろう。
「しかし、あれから二週間は経とう。一向に快方に向かう兆しもないと聞く。肺の呪いも、魔女が死んだ今となっては返す先もなく、抱えてゆくしかない。既に血を吐くほど悪いのだろう。通常、そこまで病が進めば助かる見込みはない」
ターミガンは淡々と事実を述べる。
話を聞いていたレシャが「だからと言って……!」と顔を歪める。
確かにターミガンの言い分は一般的には正しかった。
戦場でも助からない兵の苦しみを終わらせてやるために、首の後ろに杭を打ち込み頚椎と中枢神経を破壊して、安楽死させることがある。
それは慈悲だ。
死を待つ恐怖から兵を解放する行いだ。
だがオリビアは違う。
「オリビア殿下は神々の加護あつきお方。通常の理は当てはまりません。あの方は必ず回復します。春が訪れれば」
疑わしげなターミガンと縋るようなレシャの視線が、同時にイルダを見た。
「やけに確信のある言いようだな」
「ええ。事実ですから」
「殿下のお身体が春までもつと言いきれるのか」
「はい」
身体はもつ。問題は精神の方だ。
短く断定的な答えに、ターミガンは唸った。
「……そうか。それを知らず、早計なことを言ってしまった。申し訳ございませぬ、陛下。レシャにも、すまなかったな」
レシャは相当頭にきていた様子で、頑なに目を合わせようとはしない。
荒んだ表情から、どれだけオリビアの生き死にに敏感になっているかがよく判る。
フェインがため息混じりに言った。
「ターミガンにも悪気はなかったのだろう。レシャ、落ち着くまで私室に戻りたければ戻っても構わないよ」
「……いいえ。私は……イルダ、殿下を見舞いに行ってもいいだろうか」
心配でたまらなくなってしまったのだろう、レシャは不安げに問うてきたが、イルダは首を振った。
「今日はやめた方がいい。鎮静作用の強い薬香を焚いて眠られたばかりだ」
「そうか……」
「容態が落ち着いたら私から声をかける。レシャ、お前が思い詰めるな」
肩を落として俯いたレシャの背に軽く触れて、イルダはターミガンを睨み上げた。
「叔父上。私とレシャはオリビア殿下に命を救って頂きました。王家とそれに仕える者という関係以上に、我々はあの方に恩義もあれば忠誠や親しみもあります。例え悪意がなくとも、オリビア殿下の命を終わらせるなどという話はもう二度としないで下さい。冷静ではいられなくなりますから。レシャも、私も」
感情を押し殺した低く冷たい声音に、ターミガンはうっと鼻白んだ。
相手が血縁者であろうとも、イルダは主人に害成すものに容赦はしない。
俯いたまま取り乱したことを詫びたレシャが下がり、ターミガンもまた退室した。
続いて出てゆこうとしたイルダに、フェインは問いかけた。
「知っているのだね」
「……詳しい経緯や事情は知りませんが、秋のお方から体質の事だけは伺っております」
具体的にどんな、という話はしない。
答えを聞いたフェインは、そうかと呟いて微かに安堵の表情を浮かべた。
「何も知らぬふたりを前にどうしたものかと困っていたところだった。イルダ、助かったよ」
「いえ……」
この言葉でようやく確信が持てた。
国王が主人の体質を把握しているのならば、安楽死という選択はされないはずだ。
「安堵したのは私の方です、フェイン様」
「お前が弟に仕えていてくれて良かった」
去り際背に向けられたフェインの言葉に、不覚にも視界が揺れた。
「あなた、怒るとなかなか気迫がありますね」
部屋を出るなりかけられた声の方向に、イルダは苦笑いを向ける。
身内の言い争いなど外聞が悪いはずなのに、この男には不思議とそれを感じない。
腕輪の魔力を散らしたネモは、平然と壁にもたれかかっている。
「……主人にもよく言われる。顔が怖いと。今はもう、何も答えてはくれないが」
「また元に戻れます。春が訪れれば」
イルダは無言で頷く。今はそれを信じるしかない。
一度主人の寝室に戻り、呼吸と脈拍と体温を確認した。
芥子の煙を吸わないように口元を布で覆い、静かに眠るオリビアを見つめていると、どうして己はこれほどまでにこの人に忠節を尽くせるのだろうかとふと疑問が過ぎった。
仕え始めたのは成り行きだった。
行き場のないイルダをオリビアが拾った。
言葉を交わすたびに気が抜けるような、他者に警戒心を抱かせない不思議な人だった。
信じられないほど鈍いかと思えば、逆にやたらと鋭い勘を働かせることもあった。
イルダはそのうち気づいた。
主人は鈍いのではなく、感覚が他者とずれているのだ。
強い魔力を持つ割に自信がなく、そのくせ無鉄砲で実直。
弱さと強さを併せ持った人だ。
兄であるフェインとは違い、開放的で自由な人柄だ。
結びつきの途切れた二角獣を共に探しに行ったあの穏やかな冬の日、イルダは柄にもなく陽だまりのような人だと思った。
きっとあの猫妖精も、主人のそんなところが好きだったのだろう。
今、その陽だまりには影が差している。
主人の陽だまりを、春まで保たせなければならない。
その後再び集った魔術師たちと共に、イルダはネモについてエトルリアの船へ飛んだ。
上空から帝都を突っ切って海へ向かう途中、眼下では兵士や近隣住民達が土地の整備に励んでいる。
瓦礫を片付け、骨が見つかれば埋葬し、壊れた家を修理する。
住処を失った人々のために仮住まいを作ったり、炊き出しをして兵士たちの胃を賄う者もいる。
国は再生しようとしている。
圧政に怯えていた従属国も、行き場を失った帝国の民も働いていた。
かつての生活に戻ろうとする者。新たな暮らしを始める者。
父の望みは、荒唐無稽な戯言などではなかった。
諦めない者が道を切り拓いて進んでゆく。
それこそが、現在まで続く歴史の常だったのかも知れない。
エトルリアの船から薬品や医療道具を回収し、独立した隣国の宮廷医に話をつけ、そうして日々は過ぎていった。
ひと月が経過し、オリビアの砕けた肋骨もほとんど治った。
猫妖精がついていた時と比べると時間はかかったが、一般人とは比べ物にならない程速やかに治ったと言える。
〈治癒〉の刻印を描いていたとはいえ、本来であれば粉砕骨折は複雑な手術をして、それでも助かるか助からないかという大怪我だ。
じっと横たわっているだけで勝手に再生した主人の身体は、やはり他の人間とは違うのだろう。
「まだしばらくの間は脆いでしょうが、ひとまず安心、といったところでしょうか」
いつものように診察をしながらネモがそう言った時、その場に同席していた見舞客は揃って安堵の表情を浮かべた。
レシャにターミガンにエルシェマリア。
フェインはいつも多忙で時間が取れない。
相変わらずオリビアは薬で眠らされているが、皇帝処刑日前の身体の状態まで戻ったのだ。
皆、希望を見ていた。
「イルダ、フィル兄様を起こしてはだめなの」
オリビアに懐いているエルシェマリアが、無表情のまま寂しげに言った。
それを聞いたネモが微かに首を横に振る。
イルダも今となっては同意見だった。
「王女殿下、脆い肋骨は咳の衝撃で折れてしまうこともあります。今はまだ、眠っていた方がよろしいかと」
「そう……」
肺の呪いは春が訪れるまでどうしようも出来ない。
まだ熱っぽい身体を清めようと湯を用意していると、退室して行くエルシェマリアが不安げに呟いた。
「こんなにずっと眠っていても、目覚めた時、フィル兄様はちゃんとフィル兄様のままなのかしら」
それはイルダにもわからない。
それでも今イルダに出来ることは、そう信じて時を待つことだけだった。
状況が変わったのはそれから半月後、春までひと月を切ったある日の朝だった。
早朝、いつも通りに主人の部屋を訪ねたイルダは、すぐに違和感に気づいた。
室温が異様に低い。
カーテンが揺らめいていた。
窓が開いている。
「──ッ!」
駆け出して寝台の天幕を開ける。
乱暴に掻き分けたために、布を吊るす金具が壊れて派手な音が鳴った。
「……いない……」
昨夜まで寝台に横たわっていたはずの主人が消えていた。
混乱した頭のまま窓に駆け寄り下を覗き込む。
転落したわけではない。
第一薬で眠っていたのだから、自力で動けるはずもない。
「どこへ行った……!!」
音を聞きつけてドアの前で立ち尽くしていた侍女を無視し、イルダは窓枠を蹴って飛び立った。
部屋の前には魔術師の護衛が常在している。
扉から出入りすることは出来ない。
窓が開いていたのだから窓から出ていったのだ。
何者かが部屋に侵入し、そしてオリビアを連れ去った。
気配を探って三日飛び回って探したが、結局オリビアは見つからなかった。
どこにもいない。
なんの痕跡もない。
まるで彼の存在が、この世から消えてしまったかのように。