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146話 苦しみと葛藤

 

「殿下のご様子はどうだ」


 早朝、調合した熱冷ましの薬と着替え諸々を台車に乗せて運んでいると、声がかかった。

 顔を上げると叔父が立っている。イルダはゆるりと首を振った。


「ここ数日、高熱が。骨折と肺の呪いの為だろうと、ネモ殿は言っておられました」

「そうか……意識はあるのか?」

「朦朧とされています」


 状態は悪い。砕けた肋骨は再生し始めているようだが、一向に回復する兆しは見えない。


 イルダが出来ることと言えば、絶えずつらそうな主人に薬を飲ませ、点滴を変え、〈無痛〉の印を描き、身体を清めることだけ。


 やはりこれまでとは違う。

 あの騒動から二週間が経とうとしているのに、寝台に横たわったまま、話す気力も戻らない。

 沈鬱な叔父に頭を下げて、イルダは寝室へ向かった。


 ターミガンは毎日のようにイルダにオリビアの容態を問う。

 きっとフェインが弟の身を案じているのだろうのだろうけど、それだけではない。


 あの日、フェインの傍に有りながらフェインを守りきれず、ラミアの奇襲に対して殆ど何も出来なかった自身を、ターミガンは責めているのだ。


 もちろんあの場にいた誰もが何も出来なかった。

 幻に翻弄されるばかりで、目が覚めるまで幻を見ていたことにすら気づいてはいなかった。


 ターミガンだけではない、他の魔術師たちもオリビアが倒れたことに責任を感じている。

 本来であれば守らなければならなかった王族に、無理をさせてまで守らせてしまったのだから。


 寝室の扉を開け、カーテンを開ける。

 湿った咳の音に振り返った。

 目覚めているのか。


「オリビア……?」


 寝台横に膝をつき、額に浮いた汗を拭くと、微かに目が開いた。


「私がわかるか」


 乾いた唇がはくはくと動く。

 声にならない唇の動きを読み、イルダは口を閉ざす。


 ──ミシェリーを探しに行かないと。


 あの日以来、黒猫の姿を見た者は誰一人としていない。




「主人が良くならないのは、妖精の加護が失われたためなのだろうか」


 この二週間毎日のように部屋を訪ねてくる客人、スティクス候付きネモ。

 オリビアに聞こえないように部屋の前で彼を引き止めると、ネモは憂鬱そうに頷く。


「十中八九そうでしょうね。あの猫妖精は特別でしたから……受けた呪いが魂に癒着しないように護っていたのも彼女でしたし、癒しの眠りで苦しみを取り除き回復を早めていたのも彼女でした。いなくなった今、これまでのようには治りません」


 いなくなった。

 はっきりと言われたその言葉に、やはりそうなのか、と思う。


「消滅してしまったのか。本当に」

「これは憶測ですが」


 前置きをして扉にもたれ掛かり、ネモは低めた声で呟く。


「あのラミア……魔女が化けたものだと言いましたね。どれほど知恵が残っていたのかはわかりませんが、魔女や魔術師には死に際に己の命にかけて強い呪いを遺して逝く者がいるのです。ありったけの憎しみをこめた呪いを」


 その話は聞いたことがある。

 命をかけた呪いは真名にかけた呪いよりずっと強い。


 真名の呪いだけでも死ぬ可能性はあるが、同じように真名を知る者同士守り合えば、呪いの効果は半減する。


 しかし、命の代償は命だ。

 呪者の命をかけた呪いは、どんな護りでもはじけない。


「……あの猫妖精は、主人の代わりにラミアの呪いを受けて消滅したということか……」


「恐らくは。正直なところ、彼には春まで眠っていて貰うのが一番負担がないかと思います。食事もとれませんし、身体はぼろぼろですし、肺の呪いで眠りも浅いでしょう。これでは消耗する一方ですから」


 それはそうかもしれない。

 しかし春に目覚めた時、オリビアは現実を受け入れられるだろうか。


 イルダは主人とあの妖精の間に、特別な絆があったことを知っている。

 そして、死の淵から目覚めた時に、大切な存在を失うところだったと知らされる恐ろしさも。


 イルダが自死をはかったときは、幸いレシャは命を落とさずに済んだ。

 それでも自分のために危うく弟を死なせるところだったと知ったあの時は、心底から恐怖が込み上げた。


 目覚めた時に、もしもレシャが死んでいたとしたら、己はいまも生きていただろうか。


「……わからない。私には……」


 決められない。

 覚悟できない。

 もし今眠らせたとして、もし春に目覚めた時にオリビアが生あることに絶望してしまったら。


 眠らせたところで、喪失の苦しみを先延ばしにするだけではないのだろうか。

 身体が死なない彼でも精神はどうにもならないと、かつてネモは言っていた。

 どうすべきなのか。


 カタンと扉の向こう側で物音がして、はっと顔を上げる。

 部屋へ入れば、寝台から這いずって出たらしいオリビアが、窓に手を伸ばしたまま床に倒れていた。


 力なくもがく横向きの身体が咳のたびに引き攣って震え、口からこぼれた血が床を染めていく。


「何故じっとしていてくれない……!」


 声を上げて駆け寄ろうとしたところを、背後から肩を掴まれた。

 静かな眼差しに言葉も足も出ず、立ち止まったイルダの横を通り過ぎ、ネモは部屋に入ると膝を着く。


「しー……落ち着いて。大丈夫ですよ。いま血を抜いてあげますから。横のまま喉を開いて、動かないで。そうです、よしよし」


 そっと背中を辿る手の動きと、落ち着いた静かな声に宥められたのか、やがてオリビアは静かになった。

 苦しげな浅い呼吸を繰り返すオリビアの意識を確認し、ネモは懇々と述べる。


「いいですか、青年。あなたの肋骨は、たび重なる呪い返しの影響で砕けてしまっています。下手に動くと、臓器に骨が刺さって余計に苦しむようなことにもなりかねません。脱走はせめて骨が治ってからになさい」


 ぼんやりと開いていた緑の目が、微かに細められた。

 微笑んだかのように。


「……とはいえ、意識があるのに何週間も動くなとは、流石の私も言えません。これは提案ですが」

 

 僅かな躊躇いの間の後、ネモはそれを捨てて言った。


「骨が治るまで、眠っていてはどうでしょうか。これまでと同じように、あなたが自力で起き上がれるようになるまで、治癒に専念するのです。どうせ寝ていなくてはならないのですから、同じことでしょう」


 幾度か曖昧に瞬いた目に、やがて諦めの色が浮かぶのをイルダは見た。

 そのまま目を閉じてしまったオリビアを前に、ネモは音もなくため息を吐く。

 その横顔に、自己嫌悪の表情が過ぎった。


「イルダ、彼を寝台へ戻してやってください。私は見ての通り非力ですので」

「……ああ」

「それから寝台は常に天幕を閉めて、光で目が覚めないようにしてあげてください。後は解りますね」


 無言のまま頷き、血で汚れた口元を清め、そっと抱き上げて揺らさずに寝台に運ぶ。

 高熱で虚ろなオリビアの目が腕の中で開いた。

 声のないまま、唇が微かに動く。


 ──せめて、半月に一度くらい起こしてくれたら嬉しいな。


 目を閉じて唇を引き結び、主人を寝台へ横たえて背を向け、薬箱を探る。

 多重になった箱の一番内側に仕舞い込まれた、芥子の汁を香のように加工した茶色のそれを、イルダは掌に乗せてじっと見つめた。


 正しく使えば痛みや咳を和らげ眠りに導く薬となるが、依存性が強く常用すると中毒になる。

 本来ならば、死に向かう者の苦痛を取り除くためのものだ。

 死なない主人にこれを使っていいのだろうか。


「私がやりましょうか」


 隣に立ったネモが、イルダの横顔を眺めて静かに言った。

 イルダは首を振って言葉と迷いを振り払い、それを少量だけ香炉に入れ、火をつけた。


 独特な甘酸っぱい匂いの煙がゆらゆらと立ち上る。

 それをオリビアの横たわる寝台の横に置いて、天幕を閉めた。


 浅い呼吸を繰り返す苦悶の表情が、天幕に煙が充満するにつれて徐々に安らかなものに変わっていく。

 やがて静かな眠りについた主人のやつれた寝顔を見下ろして、イルダは片手で両目を覆った。


 天幕の天井に〈目〉と〈耳〉の印を描いて寝台から離れると、ネモは血で汚れた床を拭いていた。

 面食らって立ち止まったイルダは、一瞬状況を忘れて目を瞬く。


「お……おやめください。客人の貴方が掃除など」

「いえいえ、お構いなく。ただ待つのも暇ですからねぇ」

「……暇……しかし、ネモ殿はエトルリアの重要な参謀なのだろう」

「私が? まさか。私はただの〈何者でもない者(ネモ)〉ですよ。誰がそのような過大評価を──ああ、彼ですか」


 ふと孫を見るような目を寝台の方向へ向け、ネモは苦笑した。


「彼は妖精が宿主に選ぶほどの善人ですからねぇ。私のような薄汚れた人間からすれば、まったく危なっかしくて仕方がない。もう少し保身と言いますか、自己保全について考えて頂きたいものです」


 それについては心の底から同意見だ。

 思わずしみじみと頷いてしまったイルダを横目に、ネモは目を細めて続ける。


「私、先だっての戦で側近をふたり死なせてしまいましてね。彼までをも失くしたくはない。もう誰ひとり……少なくとも私が西にいる間は、親しい者の死など見たくはないのです」


 唐突に何を話し始めたのだろうか。

 黙したまま聞いていると、床の血を拭いた布を手渡しながら彼は告げた。


「あなたもですよ、イルダ」


 青混じりの灰色の目が、静かにイルダを見つめ返していた。

 いっとき言葉を失い、イルダは動揺して目を逸らす。


「わ、私は……主人の息があるうちは、もうあの様な選択を取るつもりは……」

「そうですか。それなら結構」


 ネモはあっさりと立ち上がり、腰をさすりながら「さて」と顔にかかった黒髪を払う。


「今日は間に合わせで使いましたが、青年を薬物中毒にするわけにはいきません。麻酔薬を調達しなければ。医学の進んだ西でしたら、よい薬剤調合師が居るでしょうか?」


「居ただろうが、果たして今も生きているかどうか。ウォルグランドの調剤師は、十二年前に自ら調合した毒をあおって死んだそうだ」


「あー……あなたがた、そういったお国柄なのですか?」


「さあ、考えたこともなかったな。隣国の宮廷医に文を出そう。戦の借りがある分、融通が利くかも知れない」


「信の置ける薬師が見つかるまでは、芥子と我々の持ち込んだ薬で保たせるほかありませんねぇ。たしかカルベネが、出立前に色々と持ち込んでいたはず……」


 やれやれと頭の痛そうな様子で首を振ってぼやきつつ、ネモは扉に向かって歩き出す。


「一旦、船に戻って使えそうなものを探してきます。出来れば幾人か、飛べる人手をお借りしたいのですが」

「すぐに手配しよう」


 着いて歩き出したものの、イルダは立ち止まって寝台を振り向いた。

 いまは目を離したくない。


 〈目〉を通して、見ようと思えばいつでも見られるが、離れている間に何ごとか起これば対処が遅れる。

 歩みを止めたイルダを振り返って戻り、ネモはイルダの肩にそっと触れる。


「春まで長いのです。あなたも少しくらい、外の空気を吸った方がいい。健康な体には、芥子は単なる毒ですよ」

「……ああ」


 結局イルダは目を伏せて従った。

 すれ違った顔見知りの魔術師に〈耳〉の石を渡し、外出を言付ける。


 幾人かに声をかけて人手を集めていると、どこからか取り乱したレシャの叫び声が聞こえてきた。

 ネモは怪訝に眉を寄せる。


「おや、これは穏やかではないご様子」

「失礼、ネモ殿。行かなければ。皆、すまないが一度職務に戻ってくれ。二時間後にまたここへ来るように」


 あの温厚なレシャが響くほどの大声を上げるだなんて、只事ではない。

 声の方向へ大股に歩きながら、イルダは嫌な胸騒ぎに駆られていた。


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