145話 代償
「──っかりなさい、青年……!」
聞き覚えのある声が聞こえた。
ここはどこだ。
どうして自分は倒れているのか。
血の臭いが鼻先を掠め、イルダは本能的に素早く身を起こした。
周囲の風景から状況を思い出す。
叔父もレシャもフェインも、誰も彼もが倒れている。
足元に転がった皇帝の首、これを刎ね飛ばした主人、オリビア。
失神する前の彼の様子が鮮明に蘇り、ふっと息を詰めて立ち上がる。
舞台から周囲を見回して茫然とした。
処刑を見るために集った何百か何千かという人々が倒れていた。
まさか死んでいるのか。あの怪物が殺した?
いや、違う。
そうであるならば、自分が生きているはずがない。
一瞬の間立ち尽くしたイルダを、男の声が引き戻した。
エトルリアのスティクス侯付きネモだった。
神殿で顔を合わせた時に着ていたものと同じ、上等な衣の裾が血に染まるのにも構わずに、男は切迫した声音で誰かに呼びかけている。
ちらりと垣間見えた赤毛に、全身の血が凍った。
「あ……オ……オリビア……!」
我ながらひどい声だと思った。
声を聞いたネモが素早い動作で振り向いた。
血の気を失った弛緩した腕が、だらりと石舞台の上に投げ出されている。
恐怖に駆られながら歩み寄った。
焼け死んだラミアの死体と肺の呪いのために吐き出された血、そのすぐ近くに倒れ臥したオリビアの姿。
イルダは膝をついて主人の首筋に指を当てる。
微かに脈拍を感じる。生きては、いる。
「心臓は動いてはいます。弱いですが、一応は。しかし呼吸が戻らないのです。いつからですか? 血は巡っているとはいえ、一般的には五分以上無酸素状態となると非常にまずいのですが」
「わ……わからない、そう長い時間ではないとは、思うが……」
「わからないでは困る」
いつもののらりくらりとした口調ではない、厳しい声でネモは言う。
イルダは頭を振って感情を振り落とし、必死に思考を巡らせた。
「オリビアは肺に呪いを受けていて喀血する、呼吸が戻らないのは気道が血で塞がっているからかもしれない」
「呪いを? 厄介な……しかしそうか、彼は人魚の加護で溺れない」
もつれた黒髪の向こう側で眉間を寄せ、ネモは横向きにしたその背に手のひらを当てた。
魔力を流して体内の水を動かしているのだ。
やがてごぽっと音を立てて口から血が溢れる。
ヒュウと喉がなり、激しく咳き込みながら、オリビアは薄く目を開けた。
ネモがほっと息を吐く。
「私がわかりますか。あまり大きく息をしてはいけない、ゆっくりなさい。落ち着いて」
「……に……い、さん……は……」
「無事です。傷は浅い」
力無く微笑み、再びぐったりと目を閉じる。
苦しげな浅い呼吸のまま、また意識を失ってしまった。
無力感に唇を噛み締めながら血で汚れた顔を拭っていると、男が三人現れて舞台に上がった。
彼らはネモのそばにやってくるなり「この状況はなんです」と混乱した様子で問いただした。
私が訊きたいですねとネモは言う。
「……ガヌロンの処刑を執行する直前、魔女が化けたラミアに襲われたのだ」
「一匹の魔物がこの大勢を?」
イルダの話を聞いた男のひとりが納得のいかない顔であたりを見回す。
ネモはこめかみを押さえながら、幻覚ですか、と呟いた。
「そうだ。ガヌロンも叔父も、そのラミアの見せる幻で正気を失った。広場の民衆も、兵も」
「しかし、それだけでは彼らがもれなく全員気絶している理由にはならないでしょう」
「それはオリビアが……主人が印を流したのだろう。ラミアの幻覚で傷つけ合わぬように、意識を奪う刻印を」
「……この人数に?」
疑わしげなネモの声に、イルダは無言で頷く。
オリビアにはそれが出来る。
影から使役を呼び出して屋敷に飛ばし、弟と叔父を起こして再び側に戻った。
失血と魔力の使いすぎで冷え切った身体を己の外衣で包み、抱き起こして血溜まりから遠ざけながら、イルダは顔を歪める。
「どうしてこの人は……いつも、他人のためにこんな無茶ばかりを……」
「……あなた、変わりましたね」
呟きを聞いたネモが、ぽつりとそう呟いた。
救助隊がやってきたのはそのすぐ後のことだった。
聞いた話によれば、王女エルシェマリアが二角獣に乗って単騎で戻り、助けを求めたそうだ。
傷を負って〈失神〉の刻印で倒れていたフェインも、その頃には目を覚ましていた。
紙のような顔色の弟を前にフェインは青ざめて唇を震わせたが、目を閉じて己を取り戻すとすぐに指示を下し始める。
「イルダは彼と共に屋敷へ戻れ。ネモ殿、貴方は医学も一通りおさめておられると聞いた。同行して頂けるだろうか」
「私の側近も一緒でよろしければ」
「かまわない。オリビアを……私の弟を頼む。衛兵、怪我人を集めて手当てを。意識の戻らない者がいれば魔術師に診せよ、それから──」
フェインに背を向け、帝都の入り口まで馬に乗せてオリビアを運び、そこから馬車を走らせて屋敷へ戻る。
乗り合わせたネモとその側近三人の言うことには、神殿から出るなり騒ぎを聞いて空を飛んでいったネモを、側近三人が慌てて馬で駆けて追ったのだそうだ。
「何事かと思えばまさかこんなことになっていただなんて……」
「……式典の場に暗殺者が訪れることは、ままある事です」
低く沈んだ彼らの声を聞き流しながら、イルダは苦しげに浅い呼吸を繰り返す主人を見つめる。
何かがいつもと違う。
オリビアが意識を飛ばしてそのまま寝込むことはこれまでにも何度かあったが、これほど苦しげだったことがあっただろうか。
目覚めている時は調子が悪そうでも、眠っている時はいつも静かだった。
なぜか。あの猫妖精が癒していたからだ。イルダは気づいた。
「……猫妖精がいない……」
茫然としたその呟きを聞いたネモが、無言のまま深刻に眉根を寄せた。
屋敷に到着するなりエルシェマリアが飛び出してきた。
イルダが放った使役によって、王弟オリビアの重体を知らされていた屋敷の住人たちが担架を用意して待ち構えている。
「どうしてフィル兄様を守ってくれなかったのよ! どうして!」
「王女様、お静まりを……!」
寝室へ運ばれていくオリビアを追おうとして侍女に止められたエルシェマリアの声が突き刺さる。
イルダだってそうしたかった。
いつだって主人の命令を聞くたびに後悔してばかりだ。
オリビアは容易に他者と自分を天秤にかけ、躊躇なく他者を選ぶ。
彼の善性がそうさせるのだろう。
けれど彼が体を張るたびに、怪我を負って衰弱するたびに、その身を案じる周囲の人間の気持ちを彼は考えたことがあるのだろうか。
寝室の長椅子にその身体を横たえて、イルダは夜着と湯と布を用意する。
血に汚れたままでは寝台に入れることもできない。
その間にネモが守りの魔術具以外の装飾品を外し、髪をほどき、ピンを外して衣を緩め、前を開く。
露わになった肌を見、ネモの手がぴたりと止まった。
手伝っていた側近や侍女たちが、青ざめて息をのみ怯えた声をあげる。
異変に気づいて顔を上げたイルダの手から、夜着が滑り落ちた。
肋骨の辺りが広範囲にわたって黒ずんだ紫色に変色して腫れている。
あまりの痛々しさに幾人もが顔を背けた。
「……折れていますね。戦で散々受けた呪い返しに、とうとう骨が耐えられなくなって砕けたのでしょう」
「ネモ様……これはもう、助からな──」
ネモの側近のひとりがイルダの視線を受けて口をつぐんだ。
ふう、とため息を吐き、こめかみを押さえたネモはイルダを見上げて述べた。
「とりあえず、人払いをして頂けますでしょうか。彼の事情を知らぬ者が居ては、話も出来ませんので」
渋る人々に口止めをして追い出したイルダは、扉を閉めてネモを睨んだ。
彼とはほとんど関わりを持たなかった。
イルダにとって、ネモは他人も同然だ。
「あー……そんなに警戒されましても困りますね。私は彼を助けたことはあっても害をなしたことはありませんよ。助けて頂いたことも多かったですが」
「助けた?」
「そうですねえ。例えばあなたとあの帝国の将が、彼を惨殺した後とか」
さらりと述べられた思い出したくもない現実を突きつけられて、衝撃で不信感が消し飛んだ。
ネモはなんでもなさそうな顔でちょいちょいと手招きし、「着替えを手伝ってください」と湯を示す。
全て知られている。知っている上で、この男は人払いをさせた。
警戒している自分が愚かに思えて、イルダは大人しくその言葉に従った。
なるべく怪我に障らないように衣を脱がせ、あざを隠していた包帯をとる。
濡らした布で身体にこびりついた血を拭くと、みるみるうちに水桶の中が赤く染まった。
「肺に呪いがあると言いましたね」
身体のあちこちを調べながら、ネモが静かに問う。
「いつからです?」
「……はじめは、帝都で暴走していた冬の神と漆黒の竜を止めた後だった。帝都に近づいた時に呪いを吹き込まれ、それから数日後に症状が」
「ああ、あの時ですか」
「喀血するほどひどくなったのは、先だっての戦で魔女と対峙した後だ。呪いをかけた魔女と接触し、また新たに呪いを吹き込まれた。魔女はオリビアの……主人の真名を握っていた」
「なるほど。悪意ある者に名を知られると厄介ですからね。それで守りの魔術具を身につけていたにも関わらず、ここまで悪化したのですか」
「……何より主人は無理をしすぎたのだ。今日とて本来ならば屋敷で休んでいるべきだった。だが同行し、剰えラミアに化けた魔女とやり合い、刻印を流して大量の魔力を使って……」
長々と呆れたため息を吐きながら、ネモはゆるゆると首を振った。
「並の魔術師であれば三度は死んでいる」
「……だが、主人は……どういうわけか、死なないらしい。詳細は知らされていないが、秋のお方がそう言っておられた。死にたくとも死ねないと」
その言葉を聞いて、ネモは診察の手を止めた。
青混じりの灰色の目を見つめ、イルダは縋るような気持ちで問いかける。
「人払いをさせたということは、ネモ殿はそれを知っておられるのだろう」
「……まあ、ねぇ。私の方が幾分か、貴方よりは知っているといったところでしょうか」
「幾分か、か……?」
「神々のなさることを深部まで理解出来ると思うほど、もはや傲慢ではありませんので」
そうかと目を伏せ、再び主人の身体を拭い始めたイルダを横目に、ネモは幾度目かのため息を吐く。
「……秋のお方が死ねないと仰ったのならば、死ねないのでしょう。例えどれほど苦しんでも。普通で有れば死んでしまうような病に身を侵されても……いつまでも」
静かな声に歯を食いしばりながら、イルダはきつく布を絞る。
「しかし、春が訪れれば話は変わります。冬のお方の権能は終わらせること。呪いや病を滅ぼす……えー、取り除くとか、言い方は色々ありますが、とにかく、彼を蝕むものは冬のお方が終わらせてくださるでしょう」
「では……!」
「最後までお聞きなさい。これは彼が、春まで保てばの話です。身体は死ねずとも心はどうにも出来ません。おそらくこの砕けた肋骨やあちこちの〈呪い返し〉の内出血や傷はそのうち勝手に治るでしょう。肺の呪いの方は今朝がた秋のお方が閉じ込めていたので、悪化することはないはず」
血で固まった長い赤毛をすすぎながら、ネモは物憂げに続ける。
「既に喀血するほど悪くなっているようなので呼吸は苦しいでしょうが、これについては我々にはどうすることも出来ません。出来ることがあるとすれば……そうですね、少しでも彼の苦痛を和らげて、精神が死なないように気力の回復に努めることくらい……といったところか」
たったそれだけしか出来ないのか。
闇の底にいた己に手を差し伸べてレシャ共々助けてくれた主人に対して、その程度のことしか。
身体を清め、夜着を着せ、そっと抱き上げて寝台に寝かせる。
体温を取り戻したと思ったら今度は発熱した様子で、微かな呼気がやけに熱かった。
冬が明け、カナリアが眠りから目覚めるまで、三ヶ月。
人が苦痛を耐え忍ぶにはあまりにも長い。
寝台の前でじっと主人を見つめていると、男の気遣わしげな声が背後で呟く。
「肋骨が砕けている身体に咳はつらいでしょう。〈無痛〉を毎日忘れずに」
「ああ」
「それで足りなければ、芥子を焚いてやりなさい。あまり良いものではありませんが、苦痛は和らぐ」
「……ッ」
イルダは宮廷魔術師の一族だ。
芥子がどんなものかくらい知っている。
肩を震わせるイルダの背にかける言葉もなく、ネモは寝室を出ていった。
傷ついた主人とふたり。
部屋に残されたイルダは、膝を折って寝台のふちに額を押し付ける。
「オリビア……」
イルダの冬が始まった。
長く苦しい、耐え忍ぶべき冬が。
11 死の童歌 終わり
一難去ってまた一難でした。力には代償が伴う。
章題は儚く消えていった戦死者やヘファイオンたちから連想した「しゃぼん玉」の歌より。
次話から12章、最終章へ突入。
数話、イルダ視点が続きます。
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