144話 執念の蟲
カリーシアは処刑される父親の安寧を祈るために神殿に残ることになった。
彼女には喪失を悼む時間が必要だ。
ひとり残されたカリーシアが妙な気を起こさないように、ウォルグランドの魔術師が見張りについている。
マリーとエチカもまた、寄り添うようにして神殿を去った。
彼女たちは友人らの待つ暖かな家に帰ったのだ。
ネモもまた、失った側近たちのために祈りを捧げると言って同行を断った。
神殿の門まで見送りに出たネモは、「また後でお会いしましょう」と呟いて外で待っていた三人の側近と共に神殿へ戻っていく。
「オリビア、本当に同席するのか。気分の良いものではないぞ」
心配性のイルダが黒鹿毛の馬で進みながら背後から訊ねるが、ブレスの意思は変わらない。
「そんなこと解ってる。人が死ぬんだから」
「それだけではない。貴方は言っていただろう、人々の目に映る狂気や盲信が恐ろしいと。処刑場へ行けば、それを見る羽目になる」
「……あー、それは考えてなかった。おかげで心の準備が出来たよ」
ますます気が重くなったけれど、心構えの有る無しでは結果も変わる。
そうイルダに答えようとしたその時、首筋を嫌な風が撫でた。
包帯の巻かれている首から耳の後ろに向けて、なまぬるい吐息を吹きかけられたような。
「……?」
首を押さえて立ち止まったブレスに、イルダが眉を寄せる。
「どうかしたのか」
「君は感じないか? なんだか……嫌なものが」
「オリビア?」
前方で兄が呼んでいる。
急激な不安に襲われて周囲を見回すが、それらしい影は見当たらない。
「オリビア、やはり君は帰って休んだ方が……」
「いえ。なんでもありません、行きましょう。早く」
人目の少ない宮殿付近に長くいるのはまずい気がする。
ブレスの横顔の緊張に気付いたイルダが、問うように横に並んだ。
出来る限り早くルーチェに進ませながら、ブレスはひそひそとイルダに呟く。
「イルダ、黒面を持ってきているか」
「一応は。まさか面をつけて出席するつもりか?」
「違う。ただ、もしかしたら使う事になるかも知れない。ならなければいいけど」
イルダが渡してくれた面を腰帯に挟んで上衣で隠し、冬の空を見上げる。
冷たく乾いた風に咳込みながら、言いしれぬ不安に視線を宙に走らせた。
処刑場が見えた時には、外気で体が冷えたせいか咳が止まらなくなっていた。
〈加温〉で暖をとるが、呼吸をするたびに気管がぜぇと不穏な音を立てる。
「オリビア……」
「だめだ。兄さんが無事に帰るまで、帰れない」
良くない兆候だったが、ここで引き下がるわけにはいかない。
この頃には確信していた。これは魔術師の勘だ。
血で湿った黒いハンカチを幾度か変えた頃、ブレスたちはようやく人波に囲まれた処刑場へ到着した。
半壊した石造りの台場は、元は演劇のために作られた舞台であったという。
精巧に作り込まれた石舞台の彫刻も、垂れ幕も、今はただ石くれや布きれと化している。
舞台裾には控えの間があり、ブレスやエルシェマリアは風避けの布で覆われたその場所に席を用意して見守ることになった。
「少なくとも人の目からは守られるようだ」
ほっとしたイルダの声を背に、席に腰を下ろしてじっと耳を澄ませ、〈透視〉を刻印した目で風避けの布の向こう側を見つめる。
おかしな音はしないか。
おかしなものはいないか。
不自然に動くものは。
「フィル兄様、どうかして? お顔が怖いわ、まるでイルダみたい」
「……ううん、なんでもないよ、エル。ところで今日の兄さんは守りの魔術具をちゃんとつけてるかな」
「つけることが習慣でしょうから、つけていると思うけれど」
「そっか」
頭上を鳥が飛んでゆく。
ざわざわと騒がしかった人々が、不意に静まり返った。
壇上に連れられて来たガヌロン帝と、ターミガンを伴って現れたフェイン。
民衆の視線を釘付けにして、フェインは朗々と声を張り上げる。
民衆に語りかける兄の声を聞きながら、話の内容はちっとも頭に入ってこなかった。
時折感じる鳥肌の立つような悪意の気配にとうとう席を立ったブレスの張り詰めた顔を見て、イルダも唯ならぬ事だと警戒の視線を巡らせている。
「イルダ、解ってるな。いざという時は俺じゃなく兄さんを守れ」
「まともに動けない貴方を置いて行けというのか? 戦の時とは状況が違いすぎる」
「自衛ぐらい出来る、とにかくいま兄さんがどうにかなることだけは避けないと」
隠し持っていた黒面をつけようと背に手を回し、咳の発作に襲われて膝を着く。
カランと滑り落ちた面を追って手を伸ばしたその時、民衆が悲鳴を上げて騒ぎ始めた。
どうして今なのだ。
乱れる呼吸に苦しみながら壇上に顔を向けるとどういうわけかターミガンが抜刀している。
「イルダ、行け……早く……ッ」
イルダの目がブレスと壇上を往復し、迷いに揺れる。
「行け!!」
弾かれたように走り出したイルダの背を見送り、束の間安堵してなんとか息を整えた。
影から適当な二角獣を呼び寄せて問答無用に抗う妹を乗せ、「エルを守って屋敷まで走れ」と命令を下す。
走り出した二角獣のたてがみを掴んだエルが、悲鳴じみた声で叫ぶ。
「フィル兄様ぁ!! こんなの嫌よ、絶対に許さないんだから──!」
遠ざかっていく妹に心の中で謝りつつ、銀孔雀の上衣を脱いでハンカチを咥えて黒面をつけた。
こんな重い上衣を着ていては動きにくくてかなわない。
壇上に歩み出したブレスの肩に黒猫が飛び乗る。
「……ああ、おはようミッチェ」
『お前は本当に手のかかる宿主ね』
不機嫌で眠たげな声で文句を言いながら、それでも首に擦り寄るミシェリーをひと撫でして、ブレスは兄の元へ向かった。
壇上は混沌としていた。
先程まで死を受け入れていたはずのガヌロン帝が錯乱して暴れ回っている。
兵から奪い取ったらしい剣を振り回す彼は完全に正気を失っていた。
血を流すターミガンとイルダが剣で応戦し、レシャがフェインを抱え込むように守りながら魔術で補佐をしている。
やけにターミガンの動きに余裕がない。よくよく見てみれば片腕がだらんと垂れ下がっている。
他にも衛兵が何人か手傷を負って呻いていた。
歩み寄りながら石舞台に魔力を流して彼らに〈治癒〉を刻印する。
手で触れずとも足から地を通じて魔力を流せば、同じように刻印できる。
これは自分の体に触れずに刻印することに慣れて気づいたこと。
〈治癒〉や〈無痛〉を散々刻印した成果だった。
ふらふらと歩いて来るブレスに気づいたターミガンが「お下がりください!」と大声で叫ぶ。
首を傾けてターミガンの背後、レシャに庇われている兄を見れば、肩から胸にかけて衣が血に染まっていた。
(ああ……)
発熱にぼんやりとしていた頭がすっと冷える。
ゆらりと腕を上げて圧縮した風を放つ。
一瞬でガヌロンの首が胴を離れた。
込み上げる咳をハンカチを噛み締めて殺しながら、突き刺さるような殺意の方向へ顔を向けると、有翼の蛇グイベルが大きな体を壇上の柱に巻き付けていた。
どこかで見たような気がする。
すぐに思い出した。
あれはメロエに飼われていた蛇だ。
あの女が首に巻いていた魔物だ。
「なんだ……蛇に逃げ込んで生き伸びたのか……」
ずいぶん大きく育ったものだ。
へファイオンたちが何も知らないうちに天へ昇って行ってよかった。
毒牙を剥いて威嚇する蛇がずるりと動き、ぼこぼこと変形する。
女の上半身に蛇の下半身、嫉妬と子殺しの怪物、ラミア。
メロエの顔をしたラミアは人間だったころと同じように哄笑した。
先程と同じように風を呼び、風の刃を叩きつけるが、メロエはバシンとそれを弾く。
「ぐぁ……っ」
同時に殴られたような衝撃が胸に走り、呻いた。
よろめき、息が詰まって咳き込むと、ハンカチでは抑えられなかった血が口の端から溢れた。
──魔物になってまで〈呪い返し〉を使うなんて、これを生かして返すわけにはいかない。
役立たずになったハンカチを黒面をずらして吐き捨てる。
ぽたぽたと落ちた鮮血が足元を汚す。
「オリビア、もうやめろ!!」
背後で刃を撃ち合わせる激しい音がする。
振り返ると、今度はターミガンが正気を失ってイルダに斬りかかっていた。
「……そうか……お前、ラミアの幻を見せる力で操っているのか……」
メロエは答えない。笑うだけだ。
自我は辛うじて残っているようだけれど、言葉は既に失っている。
妙に冷めた意識のまま、ブレスはぐるりと周囲を見回した。
あちこちで錯乱した人間たちが殴り合い、兵士たちが斬り合っている。
よくもこんなことを。
この大勢が集うこの日に。
意識がある限り人は幻覚の影響を受ける。
ならば、意識を奪ってしまえばいいのか。
膝をつき、酸欠で霞み始めた視界に映る血で汚れた白い舞台に両手をつける。
魔力は足りるだろうか。足りないだろな。
赤毛を切り、己の血の上に放り投げ、再び両手を付けて魔力を流した。
流す印は〈失神〉、全員が気を失ってしまえば、ラミアは何も操れない。
大地を通じて刻印を受けた人々が、ブレスを中心に意識を失って次々に倒れてゆく。
みしみしと全身の骨が軋んだ。
ラミアの幻の魔力が届く範囲を、ブレスは知らない。
無駄死にが出ないように枯渇寸前まで印を流し続け、意識が飛ぶ前に手を離す。
手駒を失ったメロエは毒牙を剥いて怒り狂っている。
朦朧とした頭に、ふとイルダの声が蘇った。
──やはり蛇には鳥だな。
「……炎、よ……」
言葉に応えた炎の鳥が現れ、長い尾を引きながら滑空してメロエに襲いかかった。
しわがれた女の悲鳴が響き渡る。
殺さなければ。
死んだことを確認するまでは、倒れるわけにはいかない。
火だるまになったメロエが、狂ったようにもがきながらブレスに向かって飛びかかった。
全身丸焦げになっても、肉体は再生するだろうか。
もう一歩も動けそうにない。
せめて最後に抵抗しようと、再び風を寄せ集めて盾を作ったその時、黒髪の少女がブレスの前に立った。
ミシェリーだった。
「……ばかね」
ラミアの爪と牙が届く寸前、彼女は振り返ってさみしそうに、拗ねたように呟く。
宿主を守るように両腕を広げた彼女は、妖精の身に宿した聖なる力を燃やして、夜の生き物であるラミアの魔力を削ぎ落とした。
ラミアの肉体から抜け出して、ミシェリーをすり抜けた何かが、衝撃と共にブレスの胸に届いた。
けれどそんなことはどうでもよかった。
ミシェリーはブレスの目の前で、淡い光となって端から分解されていく。
どうして。なぜ。
「……ミ……チェ……?」
「オリビア。ずっと一緒にいるという約束、守れなかった」
初めて名前を呼んでくれた。
茫然と見上げるばかりのブレスの面を外し、ミシェリーは頬をそっと撫でる。
その手をつかむ前に、ミシェリーは空に溶けて消えてしまった。
「──がッ……ぁ……」
ずくん、と胸に走った激しい痛みにブレスは倒れ込んだ。
うずくまり、咳と血を吐きながら、違う、と己の思考を拒絶した。
ミシェリーは死んでなんかいない。
これは使役を失った痛みなんかじゃない。
いやだ。
置いていかないでくれ。
広がってゆく血溜まりを前に、胸に宿った金色の星が絶望に染められていく。
最後に過ぎったものは、慈しむようにブレスを見つめる、やさしい彼女の眼差しだった。