143話 解放と安寧
宮殿から神殿にかけては人払いがされていた。
静かで、戦いの痕も生々しい宮殿を迂回して先に進むと、青い柱の立ち並ぶ神殿が現れた。
神殿の周辺はきれいなものだ。神々が見捨てた神殿は加護を失いあっという間に荒廃するので、この神殿はまだ生きているのだろう。
魔物や魔獣のたぐいは許されたものしか入れない。
ブレスは二角獣から降りて影にしまい、イルダと共に門をくぐる。
護衛の騎士は門の手前できっちりと直立して止まった。
彼らは機械かなにかで出来ているのではなかろうか。
「なんと言うか、もっと楽にしていてくれればいいのに。こっちまで緊張するじゃないか」
「ああいうものだ。そのうち慣れる。それより体調はどうだ、歩けそうか」
「ああ、気持ち悪いのはおさまったよ。今日いちにちくらい、平気なんじゃないの。ねえミッチェ。ミッチェ?」
腕に抱いた黒猫に問いかけるも、返事はない。
最近のミシェリーはずっと眠っている。
ブレスが身に受けた呪いや肉体の損傷を癒しているときはいつもそうだ。
本当ならばミシェリーが眠っているときはブレスも眠っているべきなのだが、今日はどうしてもはずせなかったのだ。
滑らかな毛並みにそっと額を寄せて心のなかで謝っておく。
静謐な神殿を歩んでゆくと、見知った影が現れる。
〈不滅の人形〉に詰められたガヌロン帝の長子、ヘファイオンだ。
「やあ。想像していた以上に死にそうな顔だね。どうかな、あの世があるのなら私たちはいい友人になれると思うけれど」
「冗談きついよ、ヘファイオン……」
既に肉体を失っている彼の言いぐさに、隣のイルダがぴりぴりしている。
咳込みつつ苦笑を向けて、ブレスは道案内を頼んだ。
「イルダ、大丈夫だって。死にそうで死なないのが俺だって、君は知ってるだろ」
「その度に生きた心地のしない思いを味わう私の身にもなるといい」
「ああ……たしかに、主人としちゃ駄目すぎるか。ごめん」
「そういう事を言いたいのではなく──」
「オリビア」
名を呼ばれて顔を向けると、そこには兄が立っていた。
首を巡らせれば他にも人がいる。
ガヌロン帝と生き残った皇女カリーシア、その亡ききょうだいの人形たち、エトルリアの立ち会い人として来ているらしいネモ、エチカとマリー。
ネモの顔を見てナルクスたちの死に顔を思い出し、ずきんと胸が痛んだ。
まともに目を合わせることが出来ない。
「オリビア殿下」
持ち込んできたなかで一番上等な衣を纏ったネモが、滑るような足取りでやってきてこうべを垂れた。
「や……やめてください。そんな呼び方、私は」
「もちろん、あなたはあなたです。お嫌でしたら、そうですねぇ、形式だと思って頂ければよろしいかと」
「……ネモ様」
ひそひそと呟かれた言葉に肩の力が抜けた。彼は彼のままだ。
「よくぞ生きて戻ってきてくれました。我々も助太刀した甲斐があったというもの。条約を結んでおきながら結局間に合わなかった役立たずのシーラやカルパントに、今後エトルリアは大きな顔が出来ることでしょう」
「ネ、ネモ様……?」
ネモが腹黒い笑みを浮かべている。
すさまじく悪そうにニタァと笑んで「どうぞご贔屓に」と呟きするりと下がった彼に、ウォルグランドは何を要求されるのだろうか。
怖すぎて考えたくない。
ついでやってきたのはマリーとエチカだった。
マリーは泣きはらした目をしているが、エチカは元気そうだ。
「ええと……ちゃんとお辞儀とかしたほうがいいかしら?」
「ううん、いらない。それよりマリー様は大丈夫?」
「一度にいろいろ思い出してしまってちょっと気分が不安定だけれど、大丈夫よ。わたしが着いているもの。大きな声では言えないけど、魔女たちも一緒だしね」
「そっか。マリー様は友達がたくさんいるから」
「フィー……」
エチカの外套を掴んだままじっと立っていたマリーが、深紅のガーネットの両眼を見開いてブレスの胸に触れた。
「肺の呪いがひどくなってる。前は片方だったのに、今は両方……しかも広がっちゃってる、どうしよう、すぐ閉じこめないと……」
「ああ、実はメロエとやり合ったときに呪われ──」
最後まで言い切る前に、マリーの指が胸にずぶりと沈み込んだ。
せめて前置きくらいしてくれないだろうか。
「……ほらもうマリー様、みんな驚いてしまったじゃないですか」
ブレスはもう何度も見ているし実際に数度刺されているので今更なんとも思わないが、初めての方々はネモを除いて凍り付いている。
正確に言えばネモはカナンに胃の出血を止めるために一度刺されているが、あの時は意識がなかったので数には入らないだろう。
この人はちょっとやそっとでは動じない。
さすが百歳である。
すごいなあ、とネモを眺めていると、フェインが恐る恐るといった様子で問いかけてきた。
「オリビア……大丈夫なのか?」
「平気です兄さん。これは治療なので、ご心配なく」
「治療じゃない、時間稼ぎだよ。でもやらないよりずっとマシだから」
そろそろと沈めた指を動かしながら、マリーは眉を下げる。
「フィー、これじゃ調子悪いでしょう。どうして寝てなかったの?」
「終末の海のけものを影から引きずり出した時よりよほど楽ですよ」
「お前ねぇ、アレと比べるんじゃないよ」
それもそうか。鈍い鈍いとさんざん言われて来たが、とうとう痛みにも鈍くなってしまったようだ。
すっと指が引き抜かれ、人々が詰めていた息を吐く。
自分のことのように緊張していた彼らがおかしくて、ふっと笑ってしまった。
「今日は、ヘファイオンたちにお別れを言いたくて。最後ですから」
「……ああ。それでか。この集まり、フィーが言い出したんだね」
フェインが言うには甘すぎると思った、と微かに呟いて、マリーは仕方なさそうに優しい目で微笑した。
「ありがとフィー。あたしに罪滅ぼしの機会をくれて。ヘファたちを忘れないでいてくれて」
「では、挨拶はそれくらいにして、本題に入ろうか」
静かなフェインの声が神殿に響き、一呼吸の間で場を支配した。
神殿の柱にもたれるように座ったマリーの配慮に甘えさせてもらって、ブレスもその場に腰を下ろす。
ネモたちやガヌロン帝らもその場に座り、やがて自然と円になった。
最後にフェインとエルシェマリアが腰を下ろし、フェインは語り始める。
「一部の者は知っての通り、私と彼──ガヌロン帝はある秘密を共有していた」
ブレスは顔を上げる。どうやら兄はようやく隠し事を明かす気になってくれたようだ。
「海の上、甲板下のあの話合いのなかで、オリビアは言った。イルダとレシャの父であるレイダ・ウォルグリアと炎帝ガヌロンが、裏では繋がっていたのではないか、と。その指摘は半分間違いで、半分正しい」
朗々と語るフェインの声に、誰もが耳を傾けている。
当のガヌロンは寄り添うカリーシアの髪を穏やかな面もちで撫でながら、物静かに頷いていた。
「結論から述べる。ガヌロンという男は、ふたりいたのだよ。本来の彼と、その彼を守るために現れたもうひとつの人格……ふたりの男が、彼のなかには住まっているのだ」
聞いたことのある話だ。
記憶の縁に引っかかったそれは、やがて家族の墓標の上で亡霊たちと踊る双子の姉妹の形を結んだ。
ヘロデーとメイリーンである。
怪異となったメイリーンの魂の昇天のあと、ヘロデーのなかにはメイリーンの疑似人格が生じた。
カナンはそれを、病の一種、二重人格の状態にあると言っていたっけ。
なるほど、とひとり納得していると、フェインの言葉を引き継いでガヌロンが乾いた声で話し始めた。
恐らくは本来のガヌロンのほうが。
「彼が生じたのは、我が妹メロエの言に愚かにも惑わされて、そなたらの父上をこの手に掛けたその夜のことであった。言い訳に聞こえてしまうやも知れぬが、あの時の私はメロエに毒を飲まされて正体を失っていたのだ」
それは幻覚剤の類いの毒だった。
その夜、正気に返ったガヌロンは血に染まった己の両手を見つめて茫然とした。
衣服にもおびただしい血液が染み込んでいる。
誰かを殺めてしまったことは明白だったが、なにも思い出せなかった。
そんな彼の前に、皇女メロエがやってきた。
満足そうに、しかし狂気じみた微笑みを浮かべて、メロエは男の首を抱いて立っていた。
知っている顔だった。当然だ。
ガヌロンとその首の持ち主は、友人だったのだから。
──兄上が殺したのだよ。
愛しげに死人の髪を撫でながら、メロエは笑っていた。
──兄上の決めた婚姻のせいでわたくしは不幸せになったのだから。その罪を償ってもらったのよ。これでこのひとはわたくしのもの。
笑い声をあげ、首を掲げ、くるくると踊るメロエを前に、ガヌロンの精神はあまりにも大きな衝撃を受けた。
その時に生まれたのが炎帝という人格である。
炎帝は強く、覇気と威厳があり、友人を殺してしまい失意に暮れるガヌロンの代わりに皇帝を務めてくれた。
初めは良かった。主人格はガヌロンであり、炎帝の時の記憶を共有していた。
しかしいつからだろう、炎帝は自我を強め、次第にガヌロンの肉体を支配するようになった。
炎帝の記憶を失い、主導権を取り戻したかと思えば炎帝が仕掛けた戦の結末の奏上を山と聞かされ、このままではならぬと人知れず気の狂いそうな思いをしていたガヌロンに、気づいた者がひとり。
「その者こそレイダ……レイダ・ウォルグリアだった。彼は私の異変に気づき、あの日の真相を聞き、そして信じてくれた。彼には世話になった……勇敢で誇り高く、そしていつも将来を憂いていた。子を愛していたが故に」
イルダがきつく唇を引き結んでうつむく。
その背にそっと触れ、ブレスはガヌロン帝を見つめる。
「レイダが行方をくらましたのは、メロエが我が息子ヘファイオンを手にかけた事を知ってすぐの事だった。その一件で彼は我々に見切りをつけたのだろう。子殺しの女が宮殿にいて炎帝と共に実権を握っている国に、もはや猶予は無いと。当然の選択だ」
ガヌロン帝は自我が戻る僅かな時間、〈遠視の水鏡〉を使ってレイダと言葉を交わした。
炎帝がガヌロンから記憶を奪うように、ガヌロンもまた炎帝に自らの記憶を隠した。
メロエが真名の護りを自らにかけさせるため、魔力の一部を一時的に炎帝に貸し与えたことが、皮肉にもそれを可能にさせたのだ。
最後に〈遠視の水鏡〉越しに顔を合わせた時、レイダは捕らえられており、そこには双子の息子とひとりの王子がいた。
都合のいいことだった。
レイダとガヌロンはこうなった時にすべき事を事前に決めていたので、ガヌロンはレイダの希望を叶えた。
息子二人に力を継承させること。
そして王子に炎帝ガヌロンの実情を知らせること。
炎帝のような非道な口振りで、ガヌロンはそれを命じた。
水鏡越しのレイダは一切逆らわなかった。
それがレイダの思惑通りだったからだ。
「そして僅かな意識と炎帝の情報のみを残し、私に引き渡されたレイダは、最後に炎帝の情報を私に話して自我を失った。……後は、皆の知っての通りだ」
フェインは淡々とそう締めくくった。
「……では……この数年、ガヌロン帝自身がレイダ先生と兄さんの協力者だったのですね……あなた方は同じ敵に立ち向かっていたんだ。人知れず」
ガヌロンは静かに頷く。
「出来たことは少なかったがな。そなたらの計画の進行を隠し通すことが精々だった。私はどうしても炎帝というけだものを殺さねばならなかった。しかし、そう思えば思うほど奴は私を蝕んだ。奴にとって私は自身を排除しかねない驚異でもあったのだろう。故に魔女と炎帝は手を組み、我が息子たちや娘を次々と殺して、私を消滅させようと画策した。この子らは」
乾いて骨の浮き上がったガヌロンの頬が、悲痛に歪む。
「私のために死んだ。到底償いきれぬ」
メロエが子殺しに走ったのは、それだけが理由ではない。
あの女はけして計算高くはなかった。
どこまでも感情的で、恨みと嫉妬に支配されていた。
ひとの苦しみを嘲笑うような女だ。ガヌロン帝の自我が完全に消えてしまっては、面白くなかったはず。
炎帝には打算があったかもしれないが、メロエはメロエの感情でヘファイオンらを殺した。
表面的な利害が一致していたに過ぎない。
黙り込んで聞き入っていたヘファイオンが、子ら、と微かに呟く。
「では……人形になった私を怪物だと笑った父上は、父上ではなかったのですか?」
「私ではない。あれはそのような事を言ったのか。なんということを」
絞り出すような声音で呻き、顔を覆うガヌロン帝を、ヘファイオンは沈黙して見つめていた。
人形である少年の顔は無表情だ。
けれどブレスにはその無表情の向こう側で、ヘファイオンの心が大きく揺さぶられているように見えた。
「……兄さん。まだひとつわからない事が」
彼らから視線を外し、ブレスは訊ねる。
「何故はじめから事実を話して下さらなかったのです。あの時、海の上で私が指摘した時に。話してくだされば、もっと他にやりようが……あ……」
話しながら自分で気づいてしまった。ブレスのように考える者が出るから、フェインは黙っていたのだ。
正義のための戦でなければならない。
そうでなければ死んでいった兵やその親族たちの整理がつかない。
皇帝自らが滅びを望むほどの事情を抱えているという事実を知ったところで、戦わなければいけないし勝たなくてはいけない。
フェインはこの戦を、虚しい戦にするわけにはいかなかったのだ。
(話す時期を誤れば、戦に負けると兄さんは言っていたっけ)
あの言葉の裏側には、勝利のための士気を損なわないためにも、炎帝ガヌロンという絶対的な悪の象徴が必要だという思惑があったのだろう。
そして秘密を秘密のままにしておくためには、事が済むまで黙っておくことが、最も確実な選択だった。
「兄さん……」
ブレスははじめて兄を恐ろしいと思った。
その冷静さや、人を操り目的を達成する手腕が。
「オリビア。君は優しいから」
弟の目に過ぎった恐れに気づいたのか、フェインは少しだけ寂しそうに、そしていつも通りに静かに、ただ苦笑した。
全ては明らかとなった。
フェインは一同を見回して、粛々と告げる。
「本来ならば今日この場で語られたことは、私とガヌロン帝が墓まで持っていくべき事柄だった。明かしたのは信頼の証だと思ってくれ」
信頼を裏切って他言するな、という意味だ。
「今朝、オリビアに……ガヌロン帝の子息息女の解放を願われた時、私は事実を話そうと決め、そして話すべき者として諸君らを選んだ。何故だろうな……」
弟に妹、サハナドールとその娘のエチカ、エトルリアの協力者であるネモ、生き残った皇女カリーシア。
フェインが秘密を共有したいと選んだ人々にしては、ずいぶん感情的な選択だ。
「秘密を明かしたあなた方には、彼らを見送る場に立ち会って貰いたいと思う──が、出て行きたい者はそれでも構わない。これは強制するような事柄でもない」
誰ひとり動く気配のないことを確認し、フェインは頷いて立ち上がった。
皆がそれに倣う。
マリーがガヌロン帝と人形たちの前に進み出て、深紅に煌めく両眼で哀しげに彼らを見下ろした。
「……じゃあ、始めるね……もうお別れはいいの?」
「ああ……」
ガヌロン帝は深々と息を吐き、固く目を閉じた。
カリーシア共々幼い姿の人形たちを一度に抱き、別れの言葉を口にした。
人形に閉じ込められた子供たちは満たされた様子で父親の抱擁を受け入れていた。
けれど皇女カリーシアは身体を震わせて、悲しみに暮れて嗚咽をこぼしている。
「お父様……っ」
きょうだいたちは天に迎えられ、父親は処刑される。
今いちばんつらい思いをしているのは、彼女なのかもしれない。
「娘を頼む」
ガヌロン帝は最後に、フェインに首を向けて強い目でそう言った。
フェインは真っ直ぐに彼を見つめ返し、首肯する。
マリーが深く息を吸い、歌い始める。
──籠に囚われし白き小鳥のみる夢は、花咲く野原と朝焼けの空。温もりの死の翼に抱かれて、終の解放を望み給う。小鳥よ、安らぎの眠りを。小鳥よ、天空の夢を。小鳥よ……。
澄み切った声音のマリーの歌が、静謐の神殿に優しく響き渡った。
人形から解放された霊魂が、一瞬だけ本来の姿を取り戻して光の小鳥に変わった。
ヘファイオンは同じ年頃の大人びた目をした青年だった。
彼は父親を見つめ、ブレスに目を向け、静かな微笑を残して光の鳥になった。
やっと彼の本当の顔が見れた。
彼は穏やかに逝ける。
マリーの歌声にあわせてブレスも祈る。
罪を犯した彼らの父が、彼らと同じ場所へ逝けるかはわからない。
それでもブレスはそれを祈らずにはいられない。
五羽の小鳥はガヌロンとカリーシアの周りを軽やかにさえずりながら幾度か飛び巡り、そのまま神殿の高い天窓から冬の晴れ空に向けて飛び立っていった。
目を細めてそれを見送ったガヌロン帝は、涙を流す娘の額に口付けをすると、安堵の面持ちでフェインを見つめる。
「フェイン王。そなたの御代に幸多からん事を」
その後ガヌロン帝は兵士たちの手に渡され、処刑場へ向けて自らの足で歩んで行った。