141話 Hold me〈私を抱きしめて〉
赤と紫の魔力が収まったと思ったら、今度は赤と黒の魔力がぶつかり始めた。
いったい何がどうなっているのか。
追いついたかと思ったらそんなことになっていたので、ブレスは茫然とした。
書の魔女は彼女を助けに行ったのではなかったのか。
それがどうして戦い始めてしまったのだ。
貌の魔女がいつものように頬に手を当てて、おっとりと呟く。
「あらあら。困ったかたがただこと」
「そ、そんな呑気な……」
「マリダスピルが自分の影を痛めつけるよりマシよ」
「しかし書の魔女は大丈夫なんですか。秋が過ぎたとはいえ、マリー様は女神で不死身で……」
「書の魔女も死なないから大丈夫だよ!」
場違いに元気なリリカルが、今度はエチカを撫で回しながらにっこりと笑う。
好き勝手にいじられながらも、エチカはリリカルの言葉に頷いた。
「わたしもそう思う。いまどうにかなってしまうとしたら母様のほうだわ」
「母様って、影の魔女?」
エチカはぎゅっと眉を寄せてブレスを睨んだ。
憤りと不快さの混じったエチカの強い目に射抜かれて、ブレスは口を閉ざす。
「馬鹿なこと言わないで。そもそも別けて考えるからおかしなことになっているのよ。自分の記憶を切り取って名前をつけたところでそれはマリー様なの。影の魔女エリスバンシーなんて存在しない」
「だけど、現にああして影の魔女はいるじゃないか」
「だから……ああもう、話のわからない人ね!」
だんと足を踏み鳴らして、エチカは歩き出した。
ばちばちとぶつかりあうマリーと書の魔女の方向──ではなく、所在なくそれを見つめている影の魔女に向かって。
「エチカ!」
いくらなんでも無謀が過ぎる。
爆風で飛んでくる岩のひとつでも、当たりどころが悪ければ人間は死ぬ。
イルダと共にエチカを追いかけ、時折飛んでくる瓦礫の破片を風の盾で撥ねつけて、やがて三人は影の魔女の前に立った。
泥沼のように重く沈んだ暗い青の目が、じっとエチカを捉える。
ブレスはその目を正視出来なかった。
恐れて止まない、人間の抱く負の感情と狂気がそこにあった。
底の見えない、怪物が住んでいる井戸のような目だ。
「……かわいいエチカ……私の子……」
「私って誰?」
ゆるりとのばされた青白い腕が、エチカに届く前にピタリと止まる。
負の感情渦巻く魔女の目を真っ直ぐに見つめ返して、エチカは毅然と顔を上げて立ち向かった。
「答えてよ。私って誰? 母様の名前は何。寂しかったのはどうして? 何十も何百も人形を作り続けたのは、満たされなかったからではないの」
影の魔女は答えない。
答えられなかったのかもしれない。
「人形は所詮人形なのよ。でもわたしはまだ生きてる。まだ温かい。血は繋がってなくても母様を母様だって思ってる」
炎が巻きあがろうが暴風が瓦礫を吹き飛ばそうが、エチカと影の魔女は動かない。
一方は立ち尽くし、一方は噛み付くような剣幕で話し続ける。
ふたりを守りながら、ブレスはエチカを振り向いた。
彼女は泣いている。
「悔しいけど、どんなに酷いことされたって心の底から嫌いになんかなれないのよ。わたしはどんな母様でも受け入れる。もうここまで来たら仕方ないもの。母様も自分を受け入れて。だから……っ」
気づけば魔力の嵐は止んでいた。
遠目に見えるマリーはエチカに首を向けて茫然と座り込んでいる。
影の魔女への言葉は、マリーにも届いたのだろうか。
「わたしの母様なんだったら、本当の貴女に戻ってさっさとわたしを抱きしめてよ!!」
しんと静まり返った瓦礫の山に、エチカの叫び声の余韻だけが響き渡った。
「……そうだね」
やがて影の魔女は目を細めて静かに微笑んだ。
纏う空気が変わった。表情も口調も、全てが。
書の魔女の前で、座り込んでいたマリーに影の魔女は歩み寄った。
怯えた目の秋の娘を見下ろして、彼女はすっと手を差し伸べる。
「サハナドールが影の魔女なんじゃない。影の魔女がサハナドールだったんだ。あたし、戻らなきゃ」
「あ……あたし……でも、あたしは……また制御を失うかもしれない、今度は戻って来られないかもしれない……っ」
マリーは首を振って影の言葉を拒絶する。
彼女は恐ろしいのだ。
かつての絶望に狂った自分自身を、再びその身に受け入れることが。
けれど影の魔女は凪いだ湖面のような面持ちでマリーを見つめ、その言葉を穏やかに否定する。
「あの時とは違う。もう独りぼっちじゃない。きっと大丈夫だよ。あたし、帰りたい。本当の居場所に帰りたいの。だからお願い、あたしをその心に帰して。あたしを受け入れて」
影の魔女はもはや影の魔女ではなかった。
切り離された心の傷のうみは、エチカの涙と真っ直ぐな言葉で洗い流されてしまった。
残ったものは過去の記憶と失った感情の一部だけ。
弱々しく、いやいやと首を振る自分自身の前に膝を突き、サハナドールの影はそっとマリーを抱きしめた。
「……あ……っ……」
ぐちゃぐちゃに顔を歪めて自身への負の感情と戦いながら、それでもマリーはゆっくりと手を上げ腕を伸ばす。
どんなに怖くても、そうするしかなかったのだろう。
マリーは己の影を震えながら受け入れる。
腕の中で、千三百年の時を耐えた肉体が砂のように崩れた。
さらさらと風に巻かれて流れて消えてゆくそれには、もはやなんの未練も残っていない。
残されたマリーはうずくまり、やがて堰を切ったようにわあわあと泣きじゃくった。
失った子の名前を呼び、繰り返し謝罪の言葉を呻く彼女に、誰もかける言葉を持たなかった。
たたひとり、エチカを除いては。
躊躇なく歩み寄ったエチカが、背筋を伸ばしてマリーの正面に立つ。
ちょっと顎を上げて照れ臭さをごまかして、強がった声音でエチカは言った。
「わたしが残っているわ」
顔をあげて真紅の両眼を見開き、マリーは一瞬ぽかんとエチカを見つめた。
かち合う視線。一拍分の沈黙。
不安げに少しだけ両腕を広げたエチカを前に、ぼろぼろと頬を涙が転がり落ちる。
「うわあぁぁん、エチカあぁ」
ぎゅうと抱き寄せたエチカの髪に顔を埋めながら再び子供のように泣き始めたマリーを眺め、書の魔女がため息を吐いて背中を向ける。
あらあらと首を傾げる貌の魔女。
クシャクシャになったマリーの髪を撫でる記憶の魔女と夢の魔女。
瓦礫に腰かけて脚をぶらぶらさせている嵐の魔女。
「ちょっと、母様……くるしい……」
小さな声で照れ臭そうに呟くエチカも、誰もかれも、その口元は微笑んでいる。
「書の魔女、魂は支払わなくて大丈夫そうですか?」
呆れ顔で煙管をふかしている書の魔女の隣に座り込みながら、ブレスは疲労混じりに、冗談めかして話しかける。
おざなりに、何ともわざとらしく残念そうに、書の魔女は肩をすくめてそれに答えた。
「ああ。賭けはお前の勝ちだよ、坊や」
「……どちらかって言うと、エチカの独壇場でしたけどね」
「それでも勝ちは勝ちさ。サハナドールはとりあえず持ちこたえるだろう。しばらくの間、ちょいとばかし泣き虫になるかもしれないが」
悲しい記憶を取り戻したマリーには、気持ちの整理と傷を癒す時間が必要だ。
「しかしまぁあの歪み切った影を相手に抱きしめろと怒鳴るだなんて、まったく」
くつくつと笑いながら、書の魔女はちらりとエチカを振り返る。
「あれはあのお嬢ちゃんにしか言えないことだった。魔女の私らが言ったところで、いっぺんの説得力もなかっただろう。……これだから人間は面白い」
愛情に飢えていた捨て子のエチカ。
影の魔女に選ばれて養女となり、魂を引き裂かれて実験台にされたエチカ。
それでもエチカは母親という存在を求めていた。
彼女の心からの叫びが、影の魔女の根底にあった「子への愛情」を呼び起こした。
エチカがこの世にいてくれて良かった。
心底からそう思いながら、ブレスは笑み、頷いた。
影の魔女はこの世から消滅したとフェインの〈耳〉へ報告するイルダの声を、半壊した家の壁にもたれて聞いていた。
もちろん影の魔女の正体は秘密だ。気安く広めるような事柄でもない。
影の魔女と皇女メロエは、一国を私物化して滅ぼした悪女。
魔女は滅びたことにしなければ、人々の気はすまないだろう。
イルダの淡々とした声を聞きながら、帝国の崩壊はいつ始まったのだろうか、とブレスはずっと考えている。
(戦争も終わったし、魔女も片付けたし……兄さんの隠しごと、いい加減はなしてくれるかな……)
眠気に抗いながら、目を閉じたりこじ開けたりを繰り返していると、報告を終えたイルダが眉間を寄せてブレスをのぞき込んだ。
「顔色が悪すぎる。休息が必要だ。身を清めて眠らなければ」
「うん……気が抜けて、疲れが出たみたいだ。寝てもいい?」
「この土地は血で穢れすぎている。瘴気はいまの貴方には毒だ。とりあえず一度、帝都の結界を出よう」
頷きながら、影からルーチェを呼び出した。
イルダに手伝ってもらいながら、重い体で何とか騎乗する。
「……そうだ、エチカは」
「彼女は秋のお方と一緒にいるそうだ。他の魔女たちは仲間を待つと言っていた」
「そう……」
嵐の魔女もマリーもついている。
エチカなら魔女会のメンバーに混じってもなんの問題もないだろう。
手綱を取れるか、という心配そうなイルダの声に微笑し、ブレスは白い二角獣のきれいなたてがみを撫でる。
〈治癒〉や〈無痛〉の印が消え始めているのか、体のあちこちがズキズキと痛みを訴え始めていた。
イルダの言う通り、一度眠らなければならない。
ゆらゆらとルーチェに揺られながら、幾度か咳の発作に襲われた。
メロエとやり合ってから明らかに肺の呪いが悪くなっている。
マリーの結界に閉じ込められた呪いが悪化するはずがないから、また新しく呪いを吹き込まれたのかもしれない。
喉の奥に広がる嫌な味のそれを飲み下し、黒ローブで口元を拭う。
せめて私室まではと思ったものの、結界を前にした辺りでプツンと意識が途切れ、気がついたらまたベッドに寝かされていた。
「……なんでいつもこうなんだ……」
『それ、わたしの台詞なんだけど』
枕元の黒猫の苦情に苦笑いを浮かべながら、ブレスは天井を仰いだ。
丸一日夢も見ずに眠ると、何とか起き上がれるようになった。
呪いのせいで身体はだるくて仕方がないが、とにかく食べられそうなものは無理やりにでも食べた。
ベッドに釘付けの二日の間に、部屋の姿見でこっそり自分の背中を見てみると、手のひらの形の内出血が背中じゅうにべたべたと浮かび上がっていた。
青や緑や紫に変色した背は、まるで腐乱死体のようだ。
これには流石に言葉もなく、ブレスは見なかったことにして再び薄衣の寝巻きを羽織った。
背だけではない、よくよく見ればあちこちが痣になっている。
メロエに絞められた首、胸、内臓の上。
記憶の魔女と夢の魔女は言っていた。
とっくに死んでしまっているはずなのに、と。
カナンの血のお陰なのか、妖精の加護のためか、守りの魔術具や真名の護りのお陰なのか、あるいはそのすべてなのか。
呪いの怖さを身をもって知った。
ごほごほと湿った咳を引きずったまま、ベッドに入って三日目に、ブレスはイルダに身支度を整えて貰って寝室を出た。
炎帝ガヌロンの処刑が執行される、特別な日だからだ。




