140話 秋の娘
この世界には死なないものが溢れている。
書の魔女の言葉を聞き、ブレスが真っ先に考えたことはそんなことだった。
そもそも「死ぬ」とはどういうことなのだろうかと。
「そうだと思った」
エチカの声がブレスを現実に引き戻した。彼女は全てを察していたというのか?
影の魔女に育てられ、魂を引き裂かれたエチカのその悲しげな言葉に、衝撃を受けて言葉も出ない。
「エチカ、きみ……」
「わたし、とっくの昔に気付いていたわ。あの木立のなかで母様の……影の魔女の生まれた経緯をマリー様に聞いてからずっと考えていた。それから数日後くらいだったかしら、マリー様が秋の娘だって知って確信した。マリー様と母様の関係。それにフィルと旅をしているとね、いろんな人がいろんな話を聞かせてくれるの。わたし、全て聞いてた。人形で」
「エ、エチカ」
「それにあなた、旅の途中からあまりにも忙しくて、隠す気もなかったでしょ?」
たしかにマリーもブレスも、エチカに事実を隠す余裕などなかった。
だれもが自分自身のことで精一杯だった。
エチカはただひとり、それを外側から見つめていたのだ。
「気付いて、それからもう一度これまでのことをよく考えて、また気付いた。母様のこと……母様を滅ぼすということの意味。かつてそれが出来なかった、ということが示す意味」
「そっちのお嬢ちゃんはそこそこ頭が回るようだ」
遠目に弾ける赤と紫の光を眺めながら、書の魔女は煙をくゆらせる。
「……魔女会の方々はみんな、それを知っていたんですか。ずっと? マリー様が生きている限り、影の魔女が死なないことを」
「当然だろう。あの時、千三百年前のサハナドールは冷静じゃあなかった。私たちはサハナドールの影のかけらが逃げていくのを見ていた。でもあの子は二百年も暴れて疲れ切っていたし、おまけに自分の影を自分で攻撃してひどく弱っていた。だから私たちは言ったのだ。影の魔女は死んだってね」
「私たち、好きだったのよ。愛していたの。秋の娘を。まるで家族みたいに。だから失いたくなくて、嘘をついて、いったんお終いにしたの。いつかこの日が来ることは解っていたけれど、千三百年の穏やかな時間を、嘘を代償に得られた。もう十分」
「じゃあ……マリー様が影の魔女を倒してしまったら……」
マリーが死ぬ? とても信じられない。
止めなければいけないのではないだろうか。
このまま彼女が自滅していくのを黙って見ていることなどとても出来ない。
「貴女がたはそれでいいのですか。ちゃんとマリー様に真実を話して、それで」
「それでどうなる、坊や。真実を話したところで影の魔女が消えるわけでもなし。サハナドールの重荷が増えるだけじゃないか。あの子はもう十分背負ったんだ。これ以上、砂粒ひとつだってあの子の背には乗せられない」
「それは書の魔女が決める事じゃない。マリー様が決める事だ。黙ってこんな遠くで眺めているだけだなんて嫌だ、冗談じゃない!」
書の魔女に食ってかかるブレスを、背後のイルダが羽交い締めにした。
離せと暴れたところで腕力では到底敵わない。
もがいて息が上がった途端、咳の発作に襲われて前のめりになった。
膝をついて咳き込む。口を押さえていた手のひらが赤く染まる。
「くそ……!」
血に濡れた拳で瓦礫を殴った。この数日で魔力を大量に使った。
メロエの残した呪いや数多の〈呪い返し〉も体力を奪ってゆく。
何も出来ないのか。また失うのか。
視界が滲んで涙が落ちた。
もう十分だって?
彼女にはたくさん助けてもらった。
まだなにひとつ返せていないのに。
おや、と書の魔女が呟く。
顔を上げる気力もなく膝を付いたまま項垂れていると、涙と血で濡れた瓦礫の上をさらさらと砂が流れた。
可愛らしい造形の、色違いの靴が二組、ブレスの前に音もなく現れる。
「どうして泣いているの」
「悲しいことがあったの」
少女の人形がブレスの頬を撫で、髪を撫でた。
僅かに首をもたげ、空色と薄紅色のガラスの目を見つめ返す。
記憶の魔女と夢の魔女だった。
二体でひとりの魔女の魂を持つ、影の魔女の娘。
「書の魔女、この子、呪われてるよ」
「呪者はもういないから呪いを返す先もない」
「おやおや。そいつは困ったねぇ」
「とっくに死んでしまうはずだったのに生きてるなんて」
「変な子。おかしな子。面白い子」
同じ声で代わる代わる話す一対の魔女を見ているうちに、ふと頭をよぎったことがあった。
マリーと影の魔女がこの世界から消えたら、〈不滅の人形〉たちはどうなるのだろうか。
ブレスの目を覗き込んだ一対の魔女が、同時に首をころんと傾げて小さな唇に指先を当てる。
「滅びるかしら。あるいはそうね」
「永遠に解放されないままかもね」
「どちらだろうね」
「なってみないとわからない」
「……それはだめだ」
へファイオンたちがこの世に取り残されてしまうことになるかもしれない。
「書の魔女、不本意に人形に閉じ込められてしまった人々がいるんです。彼らを解放してあげないと……いちばん下の子はまだほんの子供なんです。きっと五歳にもなっていない」
「それは確かに可哀想だけれど……」
貌の魔女が困った様子で頬に手を当てて考え込む。
ブレスは姿勢を立て直し、記憶の魔女と夢の魔女を覗き込む。
「貴女はどうしたいんだ。このまま残るのかそれとも輪廻にかえるのか……それを成り行きに任せていいのですか」
「刻印の魔術師!」
イルダが焦ったようにブレスの肩を掴む。
ブレスが魔女を唆そうとしていることに気付いたのだろう。
確かに賢明な判断とは言えない。
魔女を利用して失敗すれば大きな代償を支払うことになる。
「ほう? これはまた、大それた賭けに出たものだ」
書の魔女が煙を吐きながらゆっくりと首を傾けた。
黒ローブの奥からじっと見つめられて、背筋に嫌な汗が流れる。
だがそれだけだ。
ヘリオエッタの神気の方がよほど重かった。
臆せず見つめ返すブレスに何を思ったのか、書の魔女はフードの中でクツクツと笑った。
真正面から煙をふっと吹きかけられて咽せるブレスを横目で見下ろしながら、彼女は一対の魔女に足をむけて問う。
「それでお前はどうしたい、タランテラ。私は当事者であるお前の意思を尊重しよう。魔女会の次席として」
「書の魔女が許可をくれるのならば」
「わたしはサハナドールを助けたい」
「そうかい」
支えられながら立ち上がったブレスを一瞥し、書の魔女は煙管の灰をコンと捨てた。
身替わりの魔女が空っぽになった煙管に新しくタバコを詰める。
「良かろう。坊やの口車に乗ってやろうじゃないか。力を貸そう。ただし失敗したその時は、坊やの魂を貰うよ。損な仕事は嫌いなんだ」
「魂って……まるで悪魔みたいな事を言うんですね」
「そりゃあ、悪魔だからねぇ」
こともなげに肯定した書の魔女の言葉に、おかしな冗談を言う人だなあと笑い流すつもりで振り返ると、イルダが頭を抱えていた。
珍しい事もあるものだ。
「……書の魔女、冗談ですよね?」
「怖気付いたのかい。契約はもう取り消せないよ」
「いや、そっちじゃなくて」
イルダの反応から察するにまたやらかした気がするが、もはやそれでもかまわなかった。
女神とその影の戦いに、人間の魔術師では手も足も出ないだろう。
けれど世界の理から外れた魔女、それも魔女会ともなれば足止めくらいにはなるかも知れない。
魔女会の魔女たちは影の魔女と戦ったことのある実力者なのだ。一か八か。
「さあ、若い連中が来る前にとっとと結論を出すとしよう」
決めるなり再び進み始めた書の魔女を追って、記憶の魔女と夢の魔女が砂の尾を引きながら飛んでゆく。
貌の魔女が駆け戻ってきた嵐の魔女リリカルを抱き止めて、そっと背中を押した。
身替わりの魔女、白雪花竜は通り過ぎる際にじっとブレスの目を覗き込み、静かに微笑むと書の魔女を追う。
魔女と一括りに呼んでも、彼女たちは多種多様だ。
それを教えてくれたのもマリーだった。
軽率に己の命をかけるつもりはない。
けれど価値のあるものを守るためならば、ブレスはなんだって差し出そうと思う。
⌘
「あああああ!!」
獣のように吠えながら、サハナドールが頭上に渦巻く豪炎を放つ。
爛々と燃える金色の目に映るものは、影の魔女エリスバンシーのみ。
エリスバンシーは千三百年前と同じ目をしている。
喪失の苦しみと自己嫌悪と理不尽な世界への嘆きに淀んだ、底なし沼のような目。
サハナドールはこの女の目が大嫌いだった。
いつも絶え間なく涙を流している青色の片目。
黒髪に覆われて隠れたもう一方の目の色は、目の醒めるような真紅に輝いている。
戦いで風に煽られて重たげに靡く髪の下で、深紅の片目がじっとサハナドールを見つめている。
何かを問うように。責めるように。物言いたげに。
けれどエリスバンシーは嘆くだけ。
不幸の穴の暗闇の中でじっとうずくまったまま、はるか頭上、星のように遠く小さな明かりを見上げて怨嗟と呪いを吐き続け、穴に落ちてきた獲物を食らう。
これがかつては己の一部であったその現実が、サハナドールは許せなかった。
──醜い。穢らわしい。弱い。
同じように不幸せな女に寄生して、食いものにして。
──浅ましい。見苦しい。卑しい。
生き汚く逃げ出しておきながら、ひとりは寂しいからと魂を詰めた人形を作って。
滅びろ、と叫びながら渦巻く炎を叩きつける。
エリスバンシーの片腕を吹き飛ばすが、女の腕は瞬く間に再生する。
ずきん、と腕に走った痛みをサハナドールは否定する。
(違う。あれはあたしじゃない)
本当は解っているのでしょう、と頭の中でエリスバンシーの声が響く。
嘲笑うでもない、ただただ哀しみと寂しさに沈んだ弱々しい声が。
(違う。あれはこの世に存在しちゃいけない汚濁だ。滅ぼさなければいけない)
いつまで否定し続けるの。
いつまで突き放すの。
いつまで立ち止まっているの。
「立ち止まっているだと。あたしが? それはお前だろうエリスバンシー!!」
エリスバンシーじゃない、と頭の中で声が響く。
ならば、誰だ。お前は影の魔女だ。
影の魔女エリスバンシーで無いのだとしたら、お前は。
「違う……あたしじゃない、あたしじゃない、あたしじゃない……!!」
本当は解っているのでしょう。
数え切れないほど頭の中で繰り返されるその声に、耳を塞ぎ、首を振って悲鳴をあげる。
聞きたくない。認めなどしない。
それを認めてしまったら、サハナドールは自分自身を殺さなければならない。
「消えて」
放たれた魔力に腕をもがれ、腹に穴をあけながら、それでも歩み寄ってくる影の魔女をサハナドールは拒絶する。
「死んでよ。無かったことにしなきゃいけないの、あんな汚点。女神だから」
そう思い込みたかったのでしょう。
失った悲しみや苦しみや責任と向き合うことが怖かったのでしょう。
「違う、兄上から引き剥がされた時、お前はあたしじゃなくなったんだよ。あたしはちゃんともとのあたしに戻ったんだ」
解っているくせに。
見つめ返す深紅の目。
あのガーネットの目はかつてサハナドールのものだった。
魔女に落ちた時に折られた金色の鹿の角は、父サタナキアに許された時に戻った。
けれど両目は今も金色のまま。
足りないものがあるからだと言いたいのか。
「お願い、消えて、もういなくなって。お前は存在しちゃだめなんだよ。どうして……どうしたらいいの……」
とうとうその場に座り込んだサハナドールに、影の魔女は近づいてくる。
瓦礫をふみしめるパキパキという音が近づいてくる。
「……嫌、来るな、来ないでよ!!」
風で巻き上げた瓦礫を投げつける。
影の魔女の身体を抉ったその痛みが、そのまま自身に返ってくる。
(嗚呼。やっぱりあたしは影の魔女なのか)
自嘲と諦めに力が抜けていく。
いいじゃないか、と誰かが囁く。
ムニン、と呟いてワタリガラスを呼び出した。
隣に降り立ったカラスが、本来の姿に戻る。
捻れた角と黒い翼を持つ悪魔。
悪魔の殆どは、この世から追放されたかつての精霊や竜や力を持ちすぎた魔獣だった。
残りは闇に抱かれたまま死んでいった魔女。
サハナドールは死ぬことは出来ない。けれど変わることは出来る。
奔放だけれど愛情深い女神が、不幸と破壊を撒き散らす魔女となったように、悪魔にだってなれるはず。
「ムニン……あたしを連れて行って。もう誰にも迷惑かけたくないの。これ以上、父上やきょうだいの名を穢したくない。地上で影の魔女に戻るくらいなら、夜の国で悪魔になるほうがずっといい。あたしが居なくなったら、きっと父上はさ、新しいサハナドールを作ってくれるよ。あたしみたいな、出来損ないじゃない……」
言いながらどうしてか笑っていた。
突っ伏して泣きたいくらい胸が痛いのに、どうして涙が出てこないのだろう。
ムニンと名付けた悪魔の両目が、じっと覗き込んでくる。
この悪魔は魔女に落ちた時に夜の国から呼び出された、最初の悪魔だった。
千三百年間ずっと一緒だった。
だから寂しくなかったのか。
優しげに頬を撫でるムニンに、サハナドールは目を閉じて笑った。
これでようやく楽になれる。
けれど触れようとしたムニンの手は、するりとサハナドールの頬を離れた。
ぼんやりと目を開けると、背後の誰かの影が、瓦礫の上に細長く伸びている。
「お下がり。この私の目の前からその子を掻っ攫おうだなんていい度胸してるじゃないか、え?」
聞きなれた低い声がムニンを退けた。
カラスに戻ったムニンが飛び立ってしまった空を見上げたまま、サハナドールはぐるりと書の魔女を振り返った。
「なんで……なんで邪魔するんだよぉ!!」
怒りを爆発させた秋の娘に、書の魔女はニィと唇をつりあげて笑った。