139話 影の魔女の本質
帝国を腐らせていた魔女は死んだ。
しかし、彼女の欲望を増長させたもう片方の魔女は未だにマリーと戦っている。
この戦いは人間の領分から外れた。ブレスは兄の〈耳〉にそう報告をし、撤退を提案した。
「皇帝の身柄を拘束し、たったひとりの王家の生き残りも捕らえたのです。帝国との戦いは終わりにしましょう」
「そうだね。これ以上の戦は意味がない。刻印の魔術師、私はどうすればいい」
「動ける魔術師が残っているのでしたら、これまで通り帝都を結界に閉じ込めておいてください。帝国から影の魔女を出さないように」
あの魔女が存在する限り、あの非道な死霊魔術が現代の戦に持ち込まれる惨事が再び起こるとも限らない。
「私はマリー様の決着を見届けます。魔女が死んだのを確認しないことには安心できませんから。兄さんは生き残った人々と結界から出てください。国王は生き残らないと」
「……そうしよう。君は無事なのか」
「なんとか。ご心配なく。エルにありがとうと伝えてください。ラミアのおかげで助かったと」
「それは君が、帰ってきてから本人に言うといい」
押し殺したフェインの声に、ブレスは力無く笑った。
兄は、ブレスが戻る気がないとでも思っているのだろうか。
はいと答えて通信を切る。
側で黙って血濡れの黒面を拭いていたイルダに、ブレスは声をかけた。
「そういうことだから、イルダは兄さん達と一緒に結界の外にいてくれ」
「断る」
「ええ……」
即答だった。取り付く島もない。
「あのねぇ、俺は君の主人じゃあなかったのか?」
「主人を置き去りにして逃げ出す者を従者とは呼ばない」
「……じゃあ命令だって言ったら?」
ジロリと青い目で睨まれ、思わず目を逸らした。
わかった、ごめん、と降参して手のひらを上げると、イルダは再び黙々と黒面を拭き始める。
綺麗になったそれを手渡され、身につける。
眼球に〈透視〉を刻印して、やっと気が休まった。
「フィーさあ、なんでそんな気味悪いお面なんかつけてんの?」
玉座の間を離れたマリー達を追いながら、リリカルが遠慮のない口調で訊ねた。
ああこれ、と黒い面を撫でながら、ブレスは苦笑する。
「人目避けですよ」
「いや、かえって人目を引くでしょーよ」
「はは……でも、どんな顔していたらいいのかわからない時に便利なんです」
「ああ、そういうこと。怖いから、見てないフリしてるんだ」
「ええ。小心者なので」
ふうん、とリリカルが頷く。
「気持ちを隠さなきゃいけない立場だもんね。でも、隠さなくてもいい人にまで、隠す必要なんかないんじゃないかな」
それもそうか。リリカルのいう通りだ。
ここにいるのは、ミシェリーとイルダとエチカとリリカルだけ。
ブレスが外面を取り繕う必要もない友人ばかりだ。
無言のまま黒面を外す。
ブレスを見上げ、リリカルはにっこりと笑う。
「うん、そのほうがずっといい。あたしの大好きなフィーの顔」
「嵐の魔女……」
同じ魔女でも、どうしてこれほどまでに違うのだろう。
リリカルの強かで人懐っこい笑みを見つめ、ブレスは目を伏せた。
結界内に複数の魔術師の影があることに気づいたのは、それからしばらく歩いた後のことだった。
兄は皆を連れて撤退した筈だ。
ネモは側近達から離れるはずがないから違う。
あれは誰だ?
その疑問は、口に出す前に解けた。
ひとりの黒ローブがこちらに首を向け、ゆっくりと歩み寄ってくる。
警戒して前に出たイルダを押さえ、ブレスは首を傾げた。
「……失礼。会ったことが、ありますよね?」
「あらあら。覚えていてくれたのね」
おっとりとした女性の声だった。
リリカルが瓦礫をウサギのように跳びこえながら、その人影に飛びつく。
黒ローブのフードを脱いだ彼女の顔を見て、得心がいった。
魔術師のような格好をしているが違う。彼女たちは魔女だ。
(そうか、魔女会は、制御を失った魔女を正気に戻したり処分したりすることが役割であったはず)
そしてその組織の発足は、サハナドールが影の魔女を打ち倒すために、各国の力を持つ魔女に声をかけたことによる。
ここに影の魔女が出現したのなら、彼女たちが集まっていてもおかしくはない。
「お久しぶりです、貌の魔女。またお会いできて光栄です」
「マリダスピルの改名祝い以来ね。あの時はあの坊やがこんな運命を辿るだなんて、思いもしなかった……なんて。実はちょっと期待していたわ。豊穣の魔女のお気に入りの子が苦難多きこちらの道を選ぶことを」
歩み寄った貌の魔女がそっと手を伸ばしてブレスの髪を撫でる。
神経質に眉間を寄せるイルダを見て、貌の魔女はくすくすと微笑ましいものを見る目で笑う。
「お友達が出来たのね」
「ええ。家族とも再会しました」
「そう……大切なものが増えることは、素敵なことだけれど……怖いことでも、あるのよ」
悲しげに微笑む彼女は、マリーの過去の話をしているのだろうか。
もしかしたら、彼女自身の話をしていたのかもしれない。
その傷に踏みいることが愚かであることを、ブレスはつい先ほど身をもって知ったばかりだ。
メロエと母と兄母と、そして父の間にあった何かが、彼女を嫉妬の怪物に変貌させた。
そのメロエの傷ついた心に容赦なく踏み入った結果が、ブレスの首に色濃く残る指と爪の形に抉れた傷跡である。
仲間を殺され、人々の命を弄ばれて、頭に血が昇っていたブレスは彼女が魔女に落ちるまでの苦しみにまで気が回らなかった。
もちろん彼女の犯した罪は許せない。
けれど、彼女を責め、その心にまで踏み入る権利など、ブレスには無かったのに。
さまざまな葛藤をブレスの目に見た貌の魔女は、静かに微笑んで囁いた。
「どんなに心を割いて接しても、離れてしまうものはあるわ。神々の思惑の上で、私たちはただ踊らされるだけ。どうしたらいいと思う? 上手に踊って、気に留めて頂くの。毒を含んだ根や葉を持っていても、花は美しく咲けるのよ。それが私たち魔女の、生きる秘訣」
男の子のあなたにはわからないかしらね、と微笑んで、貌の魔女は再び黒ローブを被った。
「さあ、豊穣の魔女を手伝いに行かなくては。書の魔女と身替わりの魔女も来ているわ。そのうち残りの魔女達も集って来ることでしょう」
「十三人全員がたった半年足らずで再集結するだなんて、この数百年なかったよね!」
「あらまあ嵐の魔女、あなたはいつも元気ねぇ。今回はお仕事なのだから、少しくらいそれらしく振る舞いなさいな」
はぁい、と気の抜けた返事をして唇を尖らせつつも、リリカルは遠目に知り合いを見つけた様子でぴょんぴょん飛び跳ねながら駆けて行った。
彼女の人懐っこさには和まずにはいられない。
行きましょうか、と緩やかに微笑む貌の魔女の後について歩きながら、イルダとエチカが物言いたげな目でブレスを見つめている。
居心地の悪い思いをしつつも、ブレスは弁明した。
「あー、ええと、魔女の知り合いが多いのはその、カナン先生との旅の途中でお知り合いになったからだよ」
「ふうん。そう。彼女たちに誑かされて遊ばれちゃったとか、遊んじゃったとか、そういうわけじゃないのね」
「エチカは俺をなんだと思っているんだ……」
「別にあなたに限ったことじゃないわ。男全般を信用してないだけよ」
「ああそう……」
彼女がエルシオンに帰った時に、ウォルフが浮気でもしていたら殺されるのではないだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、革鞄の中のミシェリーに触れる。
黒猫は鞄の中で丸くなったまま、ブレスの指先に額を擦り付けた。
(帰り道か……)
いったい何年先になるだろう。
状況が落ち着いたら、あの苦労人の鬼協会長に報告書を兼ねた手紙を出さなければいけない。
道すがら、書の魔女と身替わりの魔女に合流した。
顔のわからなくなる黒ローブを纏っていようと、書の魔女は相変わらず煙管を吸っている。
綺麗な水色の目の身替わりの魔女は、人の姿のままそっと書の魔女に何事かを耳打ちした。
「……ああ。あの時の」
どうやら顔を忘れられていたらしい。
〈北の最果て〉から竜に乗って旅をする彼女にとって、宴席に紛れ込んだ未熟な魔術師の存在は些細なものなのだったのだろう。
イルダとエチカが息を呑んで立ち止まった。
ブレスと違って感性の鋭いふたりのことだ、きっと身替わりの魔女の正体が竜であることを見抜いたに違いない。
かと思えば、ふたりの視線は書の魔女に向いていた。
緊張に強張った青ざめた顔に、首を傾げる。
面倒そうに「そうビクビクするんじゃないよ」とハスキーな声で言った彼女は、はらりと黒ローブのフードを脱いだ。
「ほらご覧。人間の顔をしていて安心しただろう」
「……ええと?」
「お前は相変わらずぼんやりした子だねぇ。ま、あの子はそこが良かったんだろうけど」
「あの子ですか?」
「サハナドール」
ブレスはさらに首を傾げる。魔女たちが彼女を慕っていることは知っていたが、女神サハナドールを「あの子」呼ばわりする人物は珍しい。
書の魔女はやれやれと首を振って再びフードを被った。
「いまは私の事なんざどうだってよかろう。さっさとけりをつけに行こう。いい加減、豊穣の魔女も気づくべきだ」
「気づく……何に?」
「お喋りは後にしな、坊や」
煙管をふかしながら、立ち姿勢のまま滑るように低い位置を飛ぶ書の魔女に倣い、一行は風を呼んで空に舞い上がった。
相変わらず顔の強ばっているふたりをちらりと振り返ると、イルダが切羽詰まった様子でブレスに目配せをした。
横並びになるなり「あまり近づくな」と口走った従者に、ブレスは眉根を寄せる。
「どうして。書の魔女はマリー様の友人だ。水鏡、その言い草は非礼なんじゃないか?」
「貴方にはわからないのか。あれはこの世の生き物ではないのだぞ」
「今更何を言っているんだ。カナン先生やマリー様と散々関わっておきながら」
「そ、それはそうだが、しかし」
耐えきれなくなったような笑い声が前方から流れてきた。
くつくつと喉を鳴らすように、書の魔女が笑っている。
「君は魔女に偏見があるんだと思うよ。俺も宴に招かれるまではそうだったから、人のこと言えないけどさ。そうだ、君も魔女の開く宴に参加してみたらいいんじゃないかな。きっとそうすれば、誤解も溶ける──」
「クク、アッハハハハ!」
とうとう喉を逸らして笑い始めた書の魔女に、ブレスは呆気に取られて首を向ける。
周りを見回せば貌の魔女も身替わりの魔女も、口に拳を当てて困った様子で苦笑している。
イルダはと言えば、魔女の宴などとんでもない、という顔で首を振っていた。
これはあれだ。よほど的はずれなことを言ってしまったのだ。
「坊や、お前の怖いもの知らずには恐れ入るが、その魔術師は正しい。あまり魔女に気を許さないことだ」
「……怖いもの知らずって、べつに……俺にだって怖いものくらいあります」
「ほう? 例えば」
「身内の不幸とか、自分の弱さとか……人間の盲信的な目とか、憎しみとか……あとは、アスラシオンとか?」
様々なものが頭を過り、うつむく。
アスラシオンは死んだ、と後ろを飛ぶイルダが低く呟いた。
「冬の君の怒りにふれて、私の目の前で腹から真っ二つになった。臓物が飛び散って嫌な臭いがした。貴方の兄君に庇われなければ、私も同じことになっていただろう」
「そ、そう……」
それはまた派手な死に方をしたものだ。
てっきり凍死したのだと思っていた。
ぞっとする話だが、現場にいたイルダの口から死んだと聞けてほっとしている自分もいる。
ブレスの答えを聞いた書の魔女が、地を滑りながら煙を吐く。
蛇や獅子や山羊の形を成した煙が、視界の端を流れて消えた。
「不幸に憎しみに盲信、己の弱さ。ありきたりでつまらぬ答えだな。だがそれを恐れぬ者は愚かとも言える。何故ならば、それらはけして自身から切り離せぬものだからだ。自身の中に恐れるべきものが在ると知らぬ者は、容易に闇に落ち、破滅する」
無言のまま、エチカが頷く。
書の魔女の言葉にひっかかりを覚えて眉根を寄せていると、前方で紫と赤の魔力が激突した。
衝撃波が瓦礫の破片を吹き飛ばす。
書の魔女は立ち止まった。
煙をふうと吐き出して、彼女は遠い記憶を見つめながら呟く。
「本来切り離せぬはずのそれを、切り離してしまった。あの時は他に止めようも無かったがな。影の魔女は、サハナドールの一部なのだ。サハナドールが生きている限り、影の魔女は死なない」