138話 憎悪の闇
皇子や皇女らが残していった砂粒とイルダの記憶、〈耳〉からの指示を頼りに、玉座の間へたどり着いた。
木と金属で守られた重い両開きの扉は固く閉ざされている。
〈腐食〉の刻印を流そうとしたブレスの手を、イルダとマリーが両側から押さえた。
「だめ。不用意に触るんじゃないよ」
「守りの魔術が込められているに決まっている。また〈呪い返し〉を食らいたいのか」
「気持ちはわかるけど、こういう時に冷静さを失ったら死ぬよ」
ふたりにいっぺんに怒られて、少々頭が冷える。
彼らの言う通り、いまさらブレスがへファイオンたちの死に悲憤を抱いたところで、彼らが蘇るわけでもない。
「あたしが開ける。人間の呪いなんか効かないんだから」
「相手には影の魔女もいるのでしょう。せめて〈霧散〉をかけます。攻撃じゃないから〈呪い返し〉は発動しないはずだ」
「おやまあ、賢くなったじゃないか」
触れずに魔力や刻印を届けるには、精霊に運んでもらうのが一番だ。
いつもならば風の精霊に呼びかけるところだが、今は炎の鳥が近くにいる。
おいで、と心の中で呼びかけると、鳥は赤や橙や白や青に燃える翼を大きく広げて滑空し、扉に目がけて飛んでくる。
すれ違う真際、ブレスはその翼にふっと手のひらを吹いて〈霧散〉を乗せた。
鳥が扉に触れる前に魔力の糸を切り離す。
炎の鳥が重い扉をすり抜けた次の瞬間、青い炎を上げて扉が燃え上がった。
青い光を発して燃え上がる魔力の炎の大きさから察するに、相当な守りがかけられていたようだ。
ふたりに〈腐食〉を止めてもらえていなければと思うとぞっとした。
「ああ、ほんとだね。これは影の魔女の力だ。〈霧散〉か。まるで弾かない盾だ」
「弾かない盾……」
「扉を破るよ。みんな、構えろ。でも攻撃はするな」
マリーの言葉に追従する魔術師たちが頷く。
よしと前を向いて、彼女は両腕を掲げて魔力の渦を作り出し、振りかぶって扉に叩きつけた。
暴力的な魔力になす術もなくその扉は弾け、吹き飛ばされた。
目と鼻の先を剣が掠める。死人と兵がひしめいていた。
まだ残っていたのかと身構えた瞬間、ブレスの影からラミアが現れて扉の奥の闇を照らした。
エルシェマリアの護りの光を浴びた途端、人影は煙のように揺らいで消え失せる。
全ては幻影だったのだ。
しんと静まり返った玉座の間の蝋燭立てに、炎の鳥が灯りを灯して回る。
窓を厚いカーテンで覆われた暗闇の間に、ぼんやりとその玉座は照らしだされた。
ひとりの男が座っている。
生ける髑髏のように痩せ細り、重たげな衣を纏い、金の錫杖を持っている。
額に王冠をはめたその男は、落ち窪んだ虚ろな目で空を見つめていた。
その背後から、ふたりの女が現れた。ひとりは知っている顔だ。
老婆のような灰色の髪に不自然に若々しい顔。首に巻き付けた有翼の蛇。
真っ赤な唇に青の薄衣、金銀宝石で着飾った魔女メロエ。
彼女は実兄である皇帝の首に絡み付くように腕を回し、そっと彼の耳に言葉を吹き込む。
もうひとりは知らない女だ。青白い頬に、口元のほくろ。
顔の半分は黒髪に覆われて見えない。もう一方の目からは、絶え間なく涙が流れている。
首や腕に濡れた黒髪を張り付かせた彼女を見て、マリーの気配が怒りと共に爆発した。
「お前……おまえぇ!!」
「よくもまあ、わたくしの兵を焼いてくれたわね。まだしばらく使えると思っていたのに、とんだ損失よ、忌々しいルシアナの息子!」
マリーの叫びに触発されたようにメロエが叫ぶ。
影から次々とラミアや人面鳥を呼び出しながら、メロエは追い詰められた顔でそれでもなお哄笑する。
「メロエ皇女……もう諦めるんだ。逃げ場はない。味方もいない。それに、俺が誰の子供かなんて、今は関係のないことだ」
「何も解っていないのね、お前達さえ、お前さえ産まれてこなければ、わたくしは愛されていたはずだった!」
「貴女が父と上手くいかなかったのは、不幸な事だったと思う。でもだからって、他人の子を奪って良い理由にはならない」
「何がわかると言うの!! お前のような恵まれた者に、何が!!」
なにもわからないとも。
ひとの気持ちを一番深いところまで理解することなんて、当人にさえ難しい事だ。
飛びかかってくる魔物たちを、エルシェマリアのラミアとイルダの鳥が退ける。
マリーと影の魔女の魔力がぶつかり合うのを横目に、ブレスは真っ直ぐにメロエに向かって歩んだ。
「貴女は何がしたかったんだ。何を得たかったんだ」
「お黙り、聞きたくないのよ今更、綺麗事の正論なんて!!」
「貴女の欲しいものは、貴方の行いの先に存在するのか」
「どんなに足掻いても手に入らないものがあるの!! わたくしがどれだけ望んでも叶わなかったものを後から来た女どもが容易く手にしたことが許せなかったの!!」
怒りと悲しみが混ざり合うと憎しみになるのか。
悲鳴じみたメロエの叫び声が、毒のように心を侵した。
「貴女がそれほどまでに望んだものは、貴女自身の手で壊してしまった」
「誰にも渡したくなかったのよ!!」
「もうもとには戻らない」
「見たくなかったの、ルシアナやカトリシアに笑いかけるあのひとの顔など!!」
「兄さんの母君は私の母を憎んだのか? 貴女が心を開いて歩み寄れば、得られたものはあったはずだ」
「……よくも」
さまざまな感情に歪んでいたメロエの顔が、すっと冷たく凍りつく。
獲物に噛み付く蛇のような素早さでメロエが腕を伸ばし、ブレスの首を掴んだ。
「よくもそんなことを。なにも知らないお前が」
ギリギリと爪が喉に食い込むその痛みを、ブレスはもはや感じられなかった。
だめだ。やはりこの女は助けられない。そうだ、もともと殺しに来たんじゃないか。
背後でイルダが怒鳴っている。
メロエの淀んだ黒い目を見つめ返し、ブレスは彼女の腕に触れた。
流す刻印は〈霧散〉。
触れた指先から、メロエの全身に刻印が走った。
弾かれたように手を離したメロエの体から、壊れた装飾具が次々に転がり落ちる。
「お前……何を、わたくしの守りに何をした!!」
「指輪や腕輪はみんな無に帰った。もう身代わりはない」
怒りの叫びを上げてメロエが使役を操る。
イルダ達をおさえていた数多の魔物が一斉に向きを変えてブレスに飛び掛かる。
「爆ぜろ」
空中で魔物達が爆散した。
メロエが絶叫して仰け反り、痙攣しながら倒れ込んだ。
「使役を失う痛みと、貴女の兄がへファイオン達を失った痛み、どっちがひどかったかな」
降り注ぐ血肉を風の盾でなぎ払い、呟く。
「……や、やめ、て……」
「死してなお、人形に閉じ込められた彼らの苦しみは。貴女も人形に詰められてみるか?」
「いや、いやぁ、来ないで……っ」
呼び戻されて死体に詰められた人々の絶望は。
魔物に食い殺された人々の恐怖は。
昨夜、無惨にも食い殺されたナルクスは優しかった。
カルベネは毒を飲んだレシャを助けてくれた。
彼らはあんな死に方をしていい人間ではなかった。
善良で、報われるべき人だった。
「お前が殺した……お前が……」
周囲の音が遠ざかり、視界が端から赤く染まっていく。
身体から溢れ出した魔力がざわざわと伸びた赤毛を揺らす。
歩む足元に、カランと音を立てて黒面が落ちた。
ブレスの顔を見たメロエが怪物を前にしたかのように硬直する。
──殺さなければいけない。
その使命と衝動に突き動かされ、ブレスは腕を上げる。
手のひらを翳し、魔力を集める。
音のない世界で目の前の女が何か叫んでいた。けれど聞こえなかった。
──殺さなければ。一刻も早く。
この渦巻く力を叩きつければ、きっと呆気なく死ぬだろう。
手を振り上げたブレスの前に、さらさらと砂が流れた。
今にも魔力を放とうとしていたブレスの手に、少年の人形の手がそっと重なる。
「それは貴方の役割ではない」
へファイオンの淡々とした声が、音のない世界を壊した。
背後から伸びた誰かの手がブレスの目を覆う。
「息をしろオリビア、この馬鹿、闇に落ちるな!!」
「…………まだ落ちてない」
必死なイルダの声に答えながら、忘れていた呼吸を取り戻した。
力を失って後ろのイルダに寄りかかり、ごめんと呟く。
込み上げる咳に体をくの字に曲げ、血まみれの床に膝をついた。
咳き込むたびに口の中に鉄の味が広がる。
そういえば肺にこの女の呪いがあるんだった、と今更のように思い出した。
「ねえ貴方、大丈夫?」
「ごほ……、ああ……おかげで助かったよ、へファイオン」
「お礼だったら後ろの彼に言うといい。貴方の魔力でぼろぼろになっている」
いつものように背に手を当ててくれているイルダを見上げると、あちこち傷だらけだった。
額が切れて顔半分が血に染まっている。
言葉を失ったブレスを見つめ返し、安堵のため息を吐きながら、イルダは目に入った血をぐっと拭った。
「気にするな。額は他の部位より出血しやすいだけだ」
「……でもお前、ぱっくり切れてるよ……? 動くんじゃない、いま〈治癒〉をかけるから」
「〈治癒〉なら腕輪に刻印されている。いまは魔力を使うな、少し安静にしていろ」
やりとりを聞いた少年の人形がくすりと笑う。
ふたりして同じことを言い合っている、と指摘されて罰が悪くて顔を背けた。
「フィー!! ちょっと、大丈夫なの!?」
やたらと元気な声が大声でそう言って駆け寄ってくる。
リリカルだった。後ろにはエチカもいる。
「ちょっと、血まみれじゃない……」
「水鏡のはともかく俺のは魔物のだから、平気」
「動けるんだったら壁際に下がって。マリダスピルの戦いに巻き込まれるよ」
ちらりと倒れたままの女に目を向ける。
メロエは恐怖の表情を浮かべたまま、血溜まりに沈んでビクビクと痙攣していた。
逃げる事は出来ないだろう。
イルダに肩を借りて立ち上がり、よろめきながら広い玉座の間のすみに下がる。
マリーとエリスバンシーが激しくやり合う音や光や衝撃波をびりびりと肌に感じた。
「……アレは人間風情が手を出せる戦いじゃないな」
「あなた方が戻ってきたということは、見つけたのか。皇女を」
イルダの問いにリリカルが頷く。
「あれをご覧よ」
くいと顎で示された方向へ首を向けると、十代半ば頃の黒髪の少女が、魔術師と砂の人形に守られながら玉座へ向かって歩いてゆくところだった。
皇女カリーシアは気丈な横顔で、足元の血溜まりに怖気付く様子もなく、父親を目指して大股に進む。
「お父様!」
その声は淀んだ空気を切り裂いて響き渡った。
勝ち気で明瞭で、勇敢な意志を感じた。
魔物の血を浴びないように斜めがけの皮袋にしまっていたミシェリーを袋越しに撫でながら、疲れた頭で「あれはエルより気が強そうだなぁ」と考えていると、玉座の前に立ったその少女の頬を涙が流れた。
「お父様。わたくしの声が聞こえますか。答えてくださいな、お父様」
厳しい口調で、しかし涙を流しながら、カリーシアは膝をついて父親を見上げる。
乾いて痩せた手を取り、衣が血に染まるのにも構わずに、彼女は切々と語りかけた。
「戻って来てくださいませ。炎帝などという強欲な男ではない、本当のお父様。カリーシアは生きております。お兄様やお姉様や弟たちも変わらずお父様を愛しております。きょうだいやお母様は死んでしまいましたが、カリーシアは生きていきます。これからも、ずっと、たったひとりになろうとも、わたくしは……」
玉座の男の手が、そっと少女の頬を撫でた。
流れる涙を拭うように、優しい仕草で。
「長い間……独りにしてしまって、すまなかったなぁ」
ぼろぼろと涙を流す娘を抱きしめ、皇帝ガヌロンは玉座から立ち上がった。
彼は剣を抜き、「後ろを向いていなさい」と告げると、その剣で魔女メロエの首を斬り飛ばした。
衰える前はさぞかし腕のたつ武人であったに違いないと思わせる動作だった。
びくりと震えたきり、メロエは動かなくなった。
彼女の所業の割には、呆気ない最期であったと言えるかもしれない。
──それは貴方の役割ではない。
へファイオンの言葉が耳に蘇り、その言葉の意味を知る。
皇帝ガヌロンは一切の抵抗も言い逃れもなく、投降した。
〈耳〉を通じてやって来たフェインの臣が、彼と彼の娘の身柄を引き取っていく。
「ありがとう」
壁に凭れ掛かるブレスの前を通り過ぎながら、少年の人形が無表情の向こう側で安らかに微笑んだ。
父親とカリーシアの後ろに寄り添うように去っていった彼らを見送り、ブレスは立ち上がる。
兄に訊きたいことは山ほどある。
けれど、今すべきことは別にある。
影の魔女の死を、マリーの戦いの結末を、見届けなくてはならない。