137話 柵〈しがらみ〉
出立前の僅かな時間を縫って、ブレスをネモが訪ねてきた。
ブレスは彼が側近たちを大切にしていたことを知っている。
なんと声をかけていいか分からずただ沈黙するブレスの横に、ネモはのそりと腰を下ろした。
「おはようございます、青年」
「……はい」
「あなた、大丈夫ですか」
「それは……こちらの台詞ですよ、ネモ様」
この状況で他人を気遣えるだなんて。
言わずとも心中を察したらしいネモは、いつもと同じようにふう、とため息を吐く。
「言ったはずです。私は齢百の老人だと。身の回りの者が命を落とすことは、これが初めてというわけでもありませんから」
懐に抱え込んだ壺を撫でながら、ネモは澄んだ空を見上げる。
「カルベネは衛生兵でした。怪我人がいると知っていて大人しくしていられる子ではなかった。ナルクスは文官でしたが、優しくてね。カルベネの手伝いをすると言って聞かなかった。死の間際、きっと恐ろしい思いをしたことでしょう。ですが、彼らが己が行いを後悔して死んだとは、私は思いません。憐れむべきは残された者……ケルビムやノーラルドやリュトスが自棄を起こさぬよう、私は主人として見張っていなくてはならない」
黒面の下の頬を、涙が何度も流れた。
声を殺して肩を震わせるブレスに、ネモは呟く。
「私はあなたと共に行くことが出来ません。故に、最後に見送りの言葉を伝えに来たのです。せめて、と思いまして」
「ネモ様……」
「その命を大事になさい。信じていますよ、青年。生きて戻っていらっしゃい」
答えは言葉にならなかった。
うずくまって嗚咽を押し殺すブレスの肩にそっと触れて、壺の中の骨をカラカラと鳴らしながらネモは去っていった。
昨夜の戦いで魔術師が減った今、自陣を守る魔術師が必要だ。
ネモは守りに行ったのだろう。傷を負って動けなくなった兵たちを。
昨夜のナルクスとカルベネがそうしていたように。
彼らの遺志を継ぐために。
──泣いている場合じゃない。
呼吸を整え、ブレスは立ち上がる。
気配を絶って佇んでいたイルダに、すれ違いざまに声をかける。
「行こう、水鏡。やるべきことをやりに」
魔女を殺しに。
二度目の攻め入りはマリーたちと一緒だった。
フェインの指示によって集められた一団は、最高戦力と言って良いだろう。
自陣を守るための最低限の魔術師を残し、残る全てにフェインは行けと命じた。
兄も覚悟を決めているのだ。これが最後の戦いになるのだと。
エチカも嵐の魔女も、ひどい顔をしている。誰だってそうだ。
例外がいたとすれば、フェインとマリーだけだろう。
彼らの闘志は大きな目的を前にひときわ強く燃えているように見えた。
魔術師エミスフィリオとしてフェインの前で跪きながら、ブレスは仮面の中から兄を見つめた。
王となる者。もはやその資格を疑いはしない。
今ブレスが疑っているのは、玉座の価値だ。
考えても答えが出ることではない。
答えが出るのは、十年先か、それとも二十年先か。
フェインが王に成ってみないことには、わからないだろう。
どちらにせよ、数多の血を流して手に入れる価値がその玉座に有る無しに関わらず、ふたりの魔女を西で野放しにしておくわけにはいかない。
「夜になる前に蹴りを付けるよ。今夜魔物の相手をする余力は、もう無いだろうからねぇ」
マリーが金色の目を猛獣のように光らせながら宮殿を睨む。
「今度こそ殺してやる。逃がしはしない、もう二度と」
「マリー様……」
エチカがマリーを見上げる目は悲しげだった。
エチカは育ての親である影の魔女を、死なせたくはないと言っていたっけ。
彼女は今でもそう思っているのだろうか。
この帝都の惨状を目の当たりにした今でも、同じことが言えるのだろうか。
「水鏡、頼みがある」
無言の視線が向く。イルダとは今更、言葉など不要だ。
それでもブレスは覚悟を留めておくために言う。
「今日ですべて決まる。決着が付かなかった時点で我々は負ける。援軍は間に合わなかったみたいだしね」
ネモの主人であるアナクサゴラスの謀によって、シーラ王国やカルパント王国を巻き込んだけれど、平穏な中央が戦に取りかかるには余りにも時間が足りなかったのだろう。
常に有事に備えていた、エトルリアのスティクス侯アナクサゴラスが、ただひとり有能すぎたのだ。
「もう今後のことは考えない。考える時が来るとしたらそれは勝利した後だ。だから水鏡、もし俺が魔力の制御を失ったら止めてくれ。今日は後先考えないで戦うから」
「……貴方が後先考えないのは、いつものことではないか」
静かなイルダの苦笑に、そうだったねと呟いて笑った。
これが最後かもしれないと思うと、自然と笑みが溢れた。
「行って参ります」
寄り添うように立っている兄と妹を振り返り、ブレスは万感の想いを込めてそう言った。
フェインは目を閉じ、いっとき感情を閉じ込めるように俯き、やがて静かに頷いた。
エルシェマリアは感情に乏しい目でブレスを見つめ、「わたしのティーシポネーをかしてあげる」と呟いて影から一匹のラミアを呼び出した。
「いいこと、ティーシポネー。わたしのもうひとりの兄様をちゃんと護るのよ」
「……エル、気づいてたんだ」
「あら、だってあなた、わたしの兄様を兄さんって呼んでいたでしょう。何度もね」
「そっか」
妹の影から現れたラミアは見違えるほど美しくなっていた。
とても殺戮の復讐者の名を与えられたラミアとは思えない。
するりとブレスの影に滑り込んだラミアの冷たく滑らかな指先が、そっと胸に宿る金色の星を撫でる。
星はまだ輝いている。燃え尽きてはいない。
宮殿もまた血で汚れていた。
転がる死体を調べると、やはり〈憑依〉の魔法陣が刻まれている。
炎に呼びかけて屍を燃やしながら、ブレスはマリーと共に先頭を進む。
最初の夜にブレスの髪を取り込んで力を得た火の精霊は、炎の鳥の姿に定着したようだった。
炎の鳥は勝手にブレスの赤毛を啄んでは、哀れな死者の肉体を浄化して飛び回っている。
「もう死霊魔術の心配は無さそうだ」
「その子、なついてるっぽいし、名前でも付けてあげたら?」
「ああ……いや、やめておきます。火って個人で所有するものじゃ無いと思うから。自由にしておくのが一番良いんじゃないかな」
「そっか。誰も彼も、お前みたいに弁えてれば良かったのにね。あたしも含めて」
冷たい口調で自嘲するマリーは、何を思っているのだろう。
前方にさらさらと砂が流れていくのを見つけ、ブレスは足を止めた。
背後のエチカがはっと息を呑む。マリーが嫌悪の表情を浮かべた。
砂が少年の形を得てブレスを見た。見覚えのある顔立ちをしていた。
「……へファイオン?」
「やあ。驚いたよ。まだこんなに生きていたなんて。君たちはすごいな」
「ねえ……知り合いなの?」
恐々と問うエチカに頷きながら、ブレスは一歩踏み出す。
「約束通り、魔女を倒しにきた。魔女はどこにいる?」
「あちらに。玉座の間で、貴方を待っているよ」
す、と幼い腕を上げて、少年の人形は道を示した。
罠かもしれない、と嵐の魔女リリカルが囁く。
「いいや、彼は解放されたがっている。嘘はつかないと思う」
「それはどうかな。あまり簡単に信じない方がいい。私たちが魔女の所有物だということを、忘れないことだ」
「……それで。どうして現れた、へファイオン」
「頼みがあるんだ。厚かましいことだということは解っている。けれど、どうしても諦められないんだ」
足元や人々の合間を砂が滑り、へファイオンの隣に形を成して並んだ。
少女がひとり。少年が三人。
皆同じ年頃の器に閉じ込められているけれど、仕草から年もまばらだとわかる。
「カリーシアを助けて欲しいのです」
「私たちの妹を」
「あの子はまだ生きているから」
「どうかお願いします、魔術師さま」
年端もいかない無垢な子供の声に、顔が歪んだ。
魔女はこんな子供さえも殺してしまったのか。
へファイオンは見透かすようにじっとブレスの目を覗き込みながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「聞いての通り、私たちの最後のきょうだいが人質に取られている。今となっては、父上の最後の……なんと言ったかな、そう、希望だ。本来ならば私が守らねばならなかったが、残念ながら真っ先に殺されてしまったのでね。それは叶わない」
「へファイオン……」
「妹が囚われている限り、父上は魔女に刃向かえない。そして父上が魔女に従っている限り、魔女は死なない」
「死なない? そんなことがあり得るのか?」
「そういう契約だからね。詳しいことはあとで魔女に聞けばいいよ。とにかく、カリーシアを救い出して玉座の間に連れてきてくれ。そうでもしなければ、父上は魔女を裏切れない……おや?」
へファイオンの姿がさらさらと崩れていく。
他の人形たちも、同じように砂に返りつつある。
「呼ばれている。見つかってしまったみたいだ。……ねえ、貴方は最後まで目を逸らさなかったね。恐れもせず、嫌悪もせずに。私たちを人間として扱ってくれて、ありがとう」
無表情の向こう側でへファイオンが微笑む。
思わず伸ばした指の合間をすり抜けて、彼らは居なくなった。
「……皇帝が魔女に逆らえなかった理由が、わかった」
空を切った手のひらをきつく握りしめ、ブレスは呻く。
「魔女はみんな殺してしまったんだ。皇帝の皇子たちと皇女を」
恐らく子殺しの魔女は皇女メロエだ。
メロエはその嫉妬深さから、実兄の子供の存在さえ許せなかったのだろう。
そして死なない子供が欲しい影の魔女は、メロエの殺した子供の魂を手に入れる。
なんとも歪んだ共生関係だ。
「皆じゃない。まだカリーシアという皇女が残ってる。最後のひとりを生かしておいているのには、理由があるはずだ」
苛立たしげに吐き捨てたマリーに、エチカが答える。
「人質だと言っていたわ。皇帝を生かしておかなければいけない理由があるのよ。最後のひとりでも子が残っていたら、皇帝はその子を置いて自死することも出来ないと、魔女は読んだ。自分が死んだら娘が殺されると知っていたら、皇帝だっていくら死にたくても死ねないんじゃないかしら」
「皇帝が魔女に従っている限り、魔女は死なないとも言っていたね。多分それが、そのカリーシアという皇女が生かされている理由なんだろう。皇帝が何らかの方法でメロエを護っているのか……? 皇帝にしか出来ないような、方法で……あ……」
兄弟姉妹で護り合う方法はたしかに存在する。
ブレスがフェインやエルシェマリアを強固に護っているのと同じ方法を、血の繋がりがある彼らならば出来る。
もしメロエが人質をとって、皇帝にそれを無理やりやらせているとしたら。
「真名の護りだ。そうか、だからヘファイオンは人質を解放しろって言ったんだ。娘が無事に保護されていると知れば、皇帝はメロエにかけた真名の護りを解ける。護りが解ければ、メロエは殺せる」
「じゃ、早いとこ帝国のお姫様を探してやんないとね」
低く呟いたマリーの言葉に頷く。
けれど夜までに事を済ませねばならないとなると時間がない。
エチカと嵐の魔女が進み出て、二手にわかれることになった。