136話 残命
時折鉢合わせになる帝国の兵たちを風の魔術でいなしながら、ブレスたちは玉座の間を目指して進んだ。
魔女たちが集うとすれば皇帝のいる玉座の間だ。
イルダが言うことには、炎帝ガヌロンは寝室に居る時以外、いついかなる時も玉座を離れないという。
「それって故意にそうしているってこと? ずっと椅子に座ってるだけだなんて、疲れるじゃないか」
「疲れ……いや、いい。それだけ権力に固執しているのだろうと思っていたが、言われてみれば妙だな」
突っ込みを放棄して首を振ったイルダが、切り替えて思考を巡らせる。
周囲を同郷の魔術師が守ってくれているので、だいぶ頭を働かせやすくなった。
二角獣に乗ったエルシェマリアが聖女のように光り輝きながら飛び出してくる魔物を退けて、ゆっくりと首を傾ける。
「どうして? 王とは玉座にいるものではないの?」
「座ってるだけで王様だって認められるなら、マネキンでも勤まる。王ってそんな暇な地位じゃないと思うよ。俺は王様じゃないから、実際どうなのかは知らないけど……水鏡、だって兄さんを見なよ」
少なくともこれから王となろうとしている兄は多忙だ。
レヴィアタン召喚の損傷でブレスが寝込んでいた間も、起き上がれるようになった後も、ずっとなにかしら動き回っている。
周囲に働きかけて人々を動かし、検討すべき事があれば話し合いを行い、決断を下し、結果を吟味してさらに未来を見据えて先手を打つ。
食事と睡眠の時間だけはターミガンによってきっちりと管理されているらしいが、王弟オリビアとして席に呼ばれるか、こちらから訪ねるかしない限りブレスでさえ顔を合わせる隙もないのだ。
「そうだな。言い訳になってしまうが、私は幼い頃よりガヌロンが玉座に居ることが当然だった為に気が回らなかった。たしかにおかしい」
「あのさ……その、皇帝って、生きているんだよな? ちゃんと、人間として」
「死霊魔術で傀儡になっていると言いたいのか?」
「あら、生きているわ。あの男……数日前に会ったけれど。とくに腐ったにおいもしなかったし、目だって濁っていなかったもの。身体もちゃんと生身だった。かさかさで、しわしわで」
「そ、そう……」
この妹は恐ろしいことを平然と言ってのけるので、度肝を抜かれる。
育った環境のために感情面が未発達なのだろうけれど、それにしても度胸が据わっているというか、なんというか。
「どちらにせよ、皇帝としての責務を果たしていないことは確かだ」
「じゃあ誰かが代わりに兵を動かしているってことになる。それがあの皇女ってことか? とっくに権力を失って、妹と影の魔女に王宮を乗っ取られてたって?」
「だとすれば、何故だ。あの炎帝がなぜそんな状況に……待て。待つんだ、止まれ!」
イルダの鋭い声に、先頭を飛んでいた魔術師が振り向いた。
どうかなさいましたかと答えたその男の首が、瞬く間に胴を離れて宙を舞った。
吹き出す血が天井と壁を染め、やがて床に血だまりを作る。
「──な……」
なんだ。何が起こった。魔物の気配はない。
人間が目の前で死んだ。衝撃で体が動かない。
「皆、動くな」
ぬるい風が頬を撫でる。
張りつめたイルダの声に、魔術師たちは視線を走らせて周囲を警戒している。
ブレスの足下でさらさらと砂が舞い上がった。
(これは……こんな王宮の廊下に、砂?)
動く砂には嫌と言うほど覚えがある。
早鐘のように脈打つ心臓を抑えつけ、ブレスは微かな声音で囁いた。
「……水よ」
効果があるかはわからない。だが足止め程度にはなるかもしれない。
呼びかけに答えた水が、じわじわと床や壁や天井を濡らしていく。
やがてぽちゃんと音を立てて天井から水滴が落ちた。
イルダの横目が「何をしている」と問っているが、あいにくそれを伝えるすべはブレスには無い。
ぽたぽたと落ちてくる水滴と、足下の水たまりに挟まれて、漂っていた砂がとうとうブレスの前に形を成した。
幼い少年だ。
ガラスのような目の、不自然なまでに整った容姿の〈不滅の人形〉。
「煩わしい水だ。こんなに辺りが湿っていては、砂が固まってしまうじゃないか。あなたがやったのか」
「……君は誰だ。影の魔女の子供なのか」
「違う」
きっぱりとした否定だった。
無表情の裏側に、拒絶と怒りと悲しみが滲んでいる。
「でも仕方がないんだ。父上と妹のためだから。あなたたちを殺さなくては」
「まだ救える」
上半身だけ形を得て、腰から下は渦巻く砂のまま、その人形は浮き上がってブレスと視線を合わせる。
何を言っているのだろうとでも言うように、首を傾けて。
「答えて。君は誰。本当の君は誰だ。それを忘れちゃいけない」
「本当の私など、もうこの世には存在しない」
「そんなことない。君はここにいるじゃないか」
「父上はもう私を息子とは認めて下さらない。私は見ての通り、怪物に成り下がった」
「……それを不本意だと思っているのなら、俺は君の味方になれると思う」
「何を言っているのかまるで解らないな」
無表情の幼い人形が、姿に不釣り合いな大人びた口調で呟く。
虚ろな目をまっすぐに見つめ返して、ブレスは答えた。
「我々はこの城に蔓延る魔女たちを倒しに来た。皇女メロエと影の魔女エリスバンシー……このふたりがこの世から消えれば、君はその入れ物から解放されるはずだ」
「愚かにもそれが出来ると思っているのなら、あなたたちは私たちの二の舞になるだけだよ」
「出来ると思っている。でも同じにはならない。なぜなら我々は……いや俺は、影の魔女が誰の影であるかを知っている。本来の影の持ち主も、味方についている。だから、勝ち目はあると、思っているよ」
「……そう」
無表情の向こう側で、誰かがほのかに笑った気がした。
さらさらと砂を巻き上げて、少年の体が遠ざかっていく。
じっとブレスの目を見つめたまま、彼は言った。
「やってみるといいよ。決着が着くまで、私たちは手を出さない」
「待って。君の名前を教えてくれないか。祈るときに、呼ぶことも出来ない」
さらさらと端から崩れていく少年の人形が、「ヘファイオン」と呟いた。
「ついでにひとつ教えてあげよう。今日は新月、魔女の力が最も強くなる日だ。今夜あれに戦いを仕掛けるのはやめた方がいい。一度自陣に戻って守りを固めることだね」
「……そうか。ありがとう、信じるよ」
残った少年の唇が、いくつもの名前を呟いた。
アレク、メイディア、カディス、パロス。
周囲を囲んでいたらしい人形たちが、ヘファイオンと名乗ったその人形に追従して人形から砂に戻りながら、ブレスの横を通り過ぎて去っていく。
「こんな日が来るのなら、もっと早く来てくれればよかったのにな」
少年の人形は最後にぽつりとそう言い残して、消えた。
「……へファイオンという名は聞き覚えがある」
静まり返った回廊に、イルダの低い声が冷たく響いた。
「炎帝ガヌロンの長子の名だ。へファイオン皇子。歳は今年で十七……生きていればの話だが」
知り得た情報と戻る事を〈耳〉から兄に伝え、ブレスたちは王宮から出た。
辺りには血の匂いが充満している。
空もまた、流れた血に染まったように赤い。
死者を放置しておけば、夜にはまた歩き出すのだろう。
火葬の用意をしなければならない。
衛生兵が怪我人を運び込んだ自陣は、まるで地獄のようだった。
腕や脚を失った者がいる。
魔物に肉を食いちぎられた者がいる。
既に事切れて動かない者も少なくない。
むせ返るような血の匂いと苦痛のうめき声のなかに立ち尽くし、ブレスは目を閉じる。
せめて〈治癒〉を、大地を通じて〈治癒〉を流してやらなければ。
その場に膝を着いて地面に触れようとしたブレスを、けれどイルダが肩を掴んで止めた。
「やめろ。助からない者の苦痛を長引かせるだけだ」
「見殺しにしろと、いうのか……」
「流すなら痛みを取り除く印にしてやれ。それが慈悲というものだ」
「……わかった」
大地に触れて〈無痛〉を流す。
魔術は万能ではない。
失った手脚が生えるわけでもなければ、食われた臓器が再生する訳でもない。
〈治癒〉で出来ることはあくまで治りを早めることだけ。
この状況では〈蘇生〉を流すことも出来なかった。
〈蘇生〉で仮死状態にした人間が操られて動き出した場合、歩く死者と見分けがつかないからた。
もちろん丁寧に調べれば判るだろう。
けれど一瞬の判断ミスが命取りになる戦場では、そんなことはしていられない。
黒面のなかで歯を食いしばり、ブレスは立ち上がる。
これが戦争なのか。
誰かの望みを叶えるために、大勢が命を落とす、これが。
新月の夜は魔女の力が強くなる、というヘファイオンの言葉は正しかった。
魔女が差し向けた強力な怪物が重傷者たちのための結界を守っていた魔術師を食い殺し、その場にいた人々を皆殺しにしたのだ。
あっという間の出来事だった。
悲鳴を聞いて駆けつけた時には、誰ひとり息をしていなかった。
守りの魔術具を身につけていた彼らを殺したその怪物は、最後の一人を咥えたままずたずたになってその場で死に絶えていた。
惨状を前に立ち尽くすブレスの横を、ネモがゆっくりと通り過ぎていく。
血溜まりのなかに膝を着いた彼が、折り重なるようにして死んでいるふたりに手を伸ばした。
「ナルクス……カルベネ……」
ネモがふたりの側近を喪った。
誰もが眠れない夜を過ごした。
死者たちの燃えるにおいと明かりと煙のなかで、身を寄せあい、うずくまり、魔物の襲撃に怯えていた。
仲間を殺された怒りのままに魔物を殺し続け、魔力の制御を失った魔術師もいた。
朝日が登るまで皆生きた心地がしなかった。
長い長い月のない夜がようやく終わり、仲間の死を悼む時間もないままに、人々は再び武器をとって立ち上がらなければならなかった。
──もう終わりにしよう。
夜明け、魔物の血を浴びた髪や肌をイルダに拭われながら、赤く濡れた手のひらを力なく握る。
命も心も死に絶えていく。
一刻も早く、魔女たちを殺さなくてはならない。




