133話 闇より出ずるもの
天が闇に覆われ、星が瞬き始めた頃、それは始まった。
「……聞こえるか」
兵たちを守るための結界の中、隣に腰を下ろしたイルダに問う。
無言で頷きながら、イルダはすっと立ち上がった。
歌だ。肌を愛撫するような、絡みつくような声音の女の歌。
優しげな声音が背筋を這い上がってくる。
ぞわぞわと鳥肌が立った。
──歌うものはいない。嘆くものは絶えた。
(ああ、この歌、聞き覚えがある)
イルダに続いて立ち上がりながら、ブレスは耳を傾けた。
これはかつてエチカが口ずさんでいた歌だ。
人形との繋がりを保つための生贄の獣の血を、首の後ろの魔女の魔法陣に吸わせていた夜に。
──されど人形は朽ちる事無し。霊魂は手中で巡り続ける。息を吹き返して永遠に踊れ。
歌には続きがあったらしい。
内容から察するに、日中に危惧していた事態が今まさに起ころうとしているのだろう。
普段は穏やかな水色の目を警戒に染めて、フェインが大股に歩いてくる。
「兄さん、全ての魔術師に結界を強化するよう〈耳〉で連絡して下さい。来ます」
「いまターミガンが命令を下している。この声の主が、秋のお方が話していた影の魔女か?」
「ええ、恐らく」
「やはり。皆、守りの結界から出るな! 出れば命はないと思え! 魔術師たちは必要に応じて反撃の準備を!」
フェインの命令に重なるように、そこらじゅうで悲鳴が上がった。
ひとりやふたりではない、数百の人々が一斉に苦痛の叫び声を上げて目覚めたかのような。
ブレスは黒面の奥で闇を睨んだ。
気配が近づいてくる。
「い……いた……い……」
「助けて……出して」
「寒い……怖いよ……」
ずず、となにかを引きずるような音と共に、おびただしい数の苦悶のうめき声がざわざわと押し寄せてくる。
そして彼らは姿を現した。
傷だらけの体。泥水に濡れた髪。死斑で変色した肌、腐敗して膨らんだ腹。
魔女の刻んだ〈憑依〉の魔法陣のために、死体に押し込められた無数の人々。
彼らは何かをもとめているかのように、結界の中で恐怖に身を強ばらせる人々に手を伸ばしている。
ブレスの目の前で結界に男の指先が触れ、弾かれて指が飛び散った。
それでもなお苦痛の声を上げながら、その男は腕を伸ばして向かってくる。
何度も何度も。
(哀れだ)
恐ろしいとは思わなかった。彼らは利用されただけだ。
意に反して、死後に眠ることも許されず、引き戻されてしまっただけだ。
ブレスは結界の内側からそっと障壁に手を触れた。
弾かれても弾かれても手を伸ばしてくる彼らが、濁った目でブレスを見つめている。
とっくに何も見えなくなっているだろうに、それでもここまでやってきたのは、魂と肉体の感覚が繋がっていないからなのだろう。
(ならば、痛みは無いか)
痛い。寒い。怖い。出して。
落命したその時の記憶と感覚に囚われたまま、彼らはここへやってきた。
何故ならば、助けてほしいからだ。
「兄さん。誰も……どこの部隊も、どの魔術師も、外には出ていませんよね」
「……ああ」
背後で兄が答える。
そう、と頷き、一纏めに縛っていた髪をほどく。
ブレスは呼びかけた。
「炎よ」
篝火がごうと激しく燃え上がり、そこに宿っていた火の微精霊が彼らの頭上に集い始める。
夜を塗り替える温かな灯りが、人々を眩く照らし出す。
無惨な姿の人々が、魅入られたかのように動きを止めて頭上に腕を伸ばした。
終わりを求めて。
「燃やし尽くせ」
ブレスは言霊を放った。
言霊に応えた火の精霊が、燃え盛る炎の鳥の形を得て彼らの頭上を滑空する。
降り注いだ火の粉が次々と彷徨う人々を青い炎に包み、瞬く間に魔女の魔法陣を消し炭にして魂を解放した。
やがて青い炎が消えた。
人々は骨のかけら残して、剥き出しの霊魂のまま漂っている。
もはや苦痛の声は聞こえなかった。
けれど、帝都閉じ込める結界の中を彷徨っていては、また魔女に弄ばれることになるだろう。
骸を燃やし尽くして戻ってきた炎の鳥に、ブレスは静かに命令を下した。
「もう二度と囚われることのないように、彼らを天まで送り届けてあげて」
鎖骨の下でばっさりと切った長い赤毛を差し出す。
炎の鳥は一直線に手のひらに飛び込み、すり抜けて、ブレスの周囲を旋回して飛び立つ。
『対価は支払われた』
耳元で熱風が唸った。
鳥は炎の尾羽を長く引き、夜空を照らしながら上昇してゆく。
数多の魂を浄化の炎の翼に乗せて、さまざまな色の炎色を放ちながら。
誰もがその光を、言葉もなく見上げていた。
姿が霞み、星々の中に紛れ込むまで、身じろぎひとつしなかった。
ゆらりと傾いたブレスの肩を、両側からイルダとフェインが支える。
「……また君は、無茶をして」
ため息混じりの優しい兄の声に、ブレスは力無く笑う。
「だって、放っておけないじゃないですか……」
人々の死をあんなふうに歪められて、黙って見ていられるはずがない。
疲労と眠気がいっぺんに押し寄せてきて、ブレスは目を瞑った。
「……すみません、寝ます。イルダは兄さんの手伝いを……」
名を呼んでしまったことに気づく。
疲れてしまうとどうも判断が鈍っていけないなあ、と頭の隅でぼんやりと思った。
途切れた言葉になにを思ったのか、フェインはすっかり短くなってしまったブレスの髪に触れてため息ひとつ。
「ああ、お休み。せめて、朝までは」
はい、と言えたのか、言えなかったのか。
そのまますとんと眠ってしまったために、覚えていない。
「あのですね。ああいうことをするのならば、事前に言って頂かないと困ります」
翌日の朝。
目が覚めるなりお説教を食らったブレスは、寝起きの頭でぽかんとネモの顔を見上げた。
いつも通りの痩せたカラスのようなネモ。
だがその長さもまばらなもつれた黒髪が、所々燃えたように縮れている。
「……えっと……ネモ様、もしかして結界の外にいたんですか?」
「そうですとも」
(ええ……?)
そんな当然のように頷かれても困る。
ということはあれだろうか。
あやうくブレスは、ネモを燃やすところだったということだろうか。
「あの……兄さんから〈耳〉を通じて連絡が行ったかと思ったのですが」
「来ました。ですが、あれを放置して結界に閉じこもっていても時間稼ぎにしかなりません。手の余っていた私が状況を変えようと動くのは当然ではありませんか?」
「そ、そうなんですか?」
訊かれても困る。
ネモが当然と言うのならば、当然なのだろうか。
よくわからない。混乱しつつも、ブレスは身体を起こした。
地べたに寝っ転がったまま、というのも失礼な話だろう。
誰かが掛けてくれたらしい毛布が肩のあたりに引っかかっている。
起きあがると首や背中のあたりがずきずきと痛んだ。
思わずうめき声を上げると、見下ろしていたネモの眉がきゅっと寄る。
その場にしゃがみこんで覗き込まれ、ブレスは思わず仰け反る。
「どこが痛むのです。見せてご覧なさい」
「あ、いえ。大丈夫です、たぶんここ最近、ずっとふかふかのベッドで眠っていたから寝違えたのかと」
「いいから見せなさい」
「は、はい」
有無を言わせぬ口調に大人しく背中を向ける。
いつぞやのように遠慮なく半分ほど服を剥かれ、寒さに震えていると、背後でひゅっと息を呑む音がした。
ぎしぎしと軋む背中を捩ってどうにか振り返ると、ブレスの起床に気づいて近づいてきたらしいイルダが、青い顔で立ち止まっている。
「……あの、とりあえず寒いので服を着てもいいでしょうか」
ネモとイルダの顔から察するに背中がどうにかなっているらしいが、寒い。とにかく寒い。
冬の初めとはいえ早朝だ。
半裸でいるわけにはいかない。
黙り込んでいたネモが、ふう、とため息をついた。
服はそのままにブレスの肩に毛布を掛けたネモは、青ざめたイルダを振り向いて告げた。
「秋のお方を連れて来なさい。早急に」
背を痛めると厄介だ。
胴は、四肢に首、どこを動かしても影響を受ける。
そのうえ止まらない咳に苛まれているとなれば、最悪である。
〈無痛〉を刻印してどうにか動けるようにはなったものの、どうにも身体がだるい。
これはあれか。
また呪いを掛けられたのではなかろうか。
「って思ったんだけど、げほっ、ミッチェ、どう思う?」
『当たりよ。きっと昨夜の屍に仕掛けがしてあったのでしょう』
「あー、なるほど……それはやられたなぁ」
ブレスが〈呪い返し〉の守りの魔術具をたくさん身につけているように、あの死人たちにもその類の印が仕込まれていた。
恐らく影の魔女の仕業だろう。
敵対している者が互いに〈呪い返し〉を起動させればどうなるか。
魔術の効力は相対的なものなので、表側では単純に強い魔力を帯びた術が発動する。
死人ではブレスの相手にはならないため、言霊の魔術はきちんと発動して彼らを燃やし尽くした。
しかし裏側ではどうか。
ブレスが言霊で炎を操ったその時、目に映らない裏側ではブレスの〈呪い返し〉と影の魔女の〈呪い返し〉が激突していた。
『魔力が反発しあった結果、お前にも害が出たのよ。一対一ならまだしも、あの何百人かぶんの〈呪い返し〉がいっぺんにお前に向けて発動したのだから、それは無傷ではいられないわ』
ミシェリーの言葉に、ネモが無言で頷く。
いろいろなことが腑に落ちて、ブレスは思わず苦笑してしまった。
「道理でネモ様が、わざわざ朝一で様子を見に来てくれるわけだ」
「死霊魔術で目覚めさせられた死人は、歩く爆弾のようなもの。数百年前の戦では、そうして使われたのです。様々な呪いをばらまく装置として、あるいは実際に火薬を積まれて……私も文献で読んだのみですが」
「ああ……そりゃあ、屍が歩いてきたら歩兵は斬りますよね、気が動転して。それで死人に刻まれた印が発動して、死人共々ってことか。なるほど」
それならば、自陣の兵を減らさずに敵の戦力を削ぐことが出来る。
非道だが、効果的な印の使い方だ。
ブレスが身につけていた守りの魔術具は全て壊れていた。
お守りを身につけていなければ、もっとひどい傷を受けていたに違いない。
ちなみに背中が具体的にどうなっているかについては、ネモもイルダも教えてくれなかった。
知らない方がいい、とのこと。
「じゃあ、呪いを受けたのが私で良かったじゃないですか」
少なくともそう簡単に死にはしないのだから、ウォルグランドやエトルリアの兵が呪いを受けるよりはマシだ。
そんなブレスの言い分を聞いたネモは心底あきれた様子で嘆息し、「処置なし」と首を振った。ひどい。
歴史の話をしているうちに、イルダがマリーを連れて戻ってきた。
エチカとリリカルも一緒だ。
「あら? なんだか思ったよりも元気そうじゃん」
ふわっと空から降り立ったマリーは金色の目を不思議そうに瞬いてそう言い、ブレスの背を見て「なんで平気な顔してんの?」とさらに不思議そうに首を捻った。
エチカとリリカルは完全に引いている。
イルダの心配性はいつものことだとして。
「いえ、平気じゃないです。〈無痛〉のおかげで動けてるだけです」
「うん、まあいいや。これ治癒効くかなぁ」
「マリー様、いま色々とぶん投げませんでした?」
「うーん、なんかもうお前はこっち側に片足突っ込んでるからねぇ。常識の話したって無駄だよねぇ」
「常識? マリー様の口からいま常識って……?」
「あっはっは。この無礼もんが」
ぺちんと後頭部を叩かれ、ごほごほと咳込む。
そんなやりとりを、なんとも羨ましげな顔でネモが眺めている。
おかげで思い出してはいけない光景を思い出してしまった。
いいや、魔女に踏まれて悦んでいる百才の変態なんてブレスは見ていない。
あれは見なかったことにしたのだ。
マリーの治癒と呪いの封じ込めによって、身体の重さは多少マシになった。
無印の腕輪や指輪に守りの印を刻み、身につけると、やっと支度が整う。
もはやこのお守りの命綱無くしては生きていける気がしなかった。
話を聞いてやって来た心配顔の兄に、大丈夫だと答える。
きっとこの帝都の問題に片が付けば、また寝込むことになるのだろうけれど、それも生きて戻れればの話だ。