132話 進軍と合流
ネモ率いるエトルリア軍は、海岸から壁沿いに宮殿を目指して進んでいた。
魔術師たちによって守られている軍の頭上を、ブレスはイルダと共に飛び越えて進む。
絶対に見つからない〈遮断の腕輪〉のおかげで、上空を飛ぶブレスたちに気づくものは誰もいない。
ネモは空駆ける軍馬スレイプニルに乗って、軍全体を見渡せる上空中程を進んでいた。
やや離れたところで腕輪に込めていた魔力を散らすと、途端にさっとネモは振り返った。
「何者──おや?」
姿をとらえるなり警戒の姿勢をとったネモは、イルダの姿を見て目を瞬く。
「赤毛のあなた、その妙な面を外しなさい」
ああ、そうだった。
面をつけていることに慣れきってしまって忘れていたが、ネモから見ればいまのブレスは完全に不審者である。
ブレスは黒面を外した。
久しぶりに顔を合わせたネモは、相変わらず疲れた顔をしている。
「失礼しました、ネモ様。最近はずっとこれを身につけているものですから」
「どうやら本物のようですね。ふむ、また一段と成長されたようでなによりです。青年」
少々お待ちを、と言ったネモは軍の前方を守る魔術師に声をかけて戻ってきた。
進軍を止めたのだろう。
「えー……それで。あなた自らこちらへ出向いた理由を、お聞かせ願えますでしょうか」
彼は話が早くて助かる。
イルダに周囲の警戒を頼み、ブレスはネモとふたり、帝都を囲む壁の上へと降り立った。
「なにやら妙な事になっているようですね。嫌な気配が渦巻いている。秋のお方から連絡を頂きました。死人に憑依の魔法陣が刻まれているとか」
遠方を見つめながら、ネモは隈の濃い目を細める。
不快なものを見る目をしていた。
「……ネモ様、せっかく来ていただいたのに申し訳ないのですが、船に引き返して頂けませんか。そういう状況ですから、これはもはや当初計画していた戦ではなくなってしまったのです。魔術師ならばともかく、歩兵では魔女の呪いに太刀打ち出来ません」
「太刀打ち出来ない? そう決めてかかるのは早計です。あなた、こういう時のために我が軍に守りの魔術具を配り歩いていたのでは?」
「それは……そうですが……」
「皇帝の背後に魔女が居ることは、はじめから判っていたはず。単純な白兵戦にならないことなど想定内です。とは言え、さすがに死霊魔術まで繰り出してくるとは思いませんでしたが。三百年前の戦争ならばともかく、ねぇ」
「せめて、せめて宮殿の結界を壊して内部の状況がわかるまで待って頂けませんか? なにより夜が……冬に入り夜が長くなっています。この死体だらけの帝都は結界に閉じこめられている。結界内に怪異が発生すれば、なにが起こるかわからない。ネモ様、本当に危険なんです」
骨張った指先で薄い顎を撫で、ネモは呟く。
「あー……閉じこめるための結界であるならば、我々はもはや結界外に出ることも叶わないのではないでしょうか」
「……ですね?」
なんてことだ。それはそうだ。
思わず頭を抱え、「でも、結界を張っている魔術師と接触出来れば出してもらえます」と苦し紛れにブレスは言うが、ネモはゆらりと首を振った。
「どちらにせよ、引き返すことは出来ません。宮殿の結界を壊し、中の状況が判明し、敵かたに数の戦力が残っていると知れたとして、それが判ってから進軍を始めるのでは遅すぎる。間に合いません。いま我々に出来ることは、相手が何であろうとただいつでも戦えるよう備えることのみです」
「……わかりました」
俯いて頷き、ブレスは再び黒面をつけた。
ブレスは恐ろしいのだ。自国の戦に他国の犠牲を強いることが。
もしその犠牲がネモや、船の上で言葉を交わした顔なじみの彼らであったとしたら。
想像するだけで身体が竦む。
黙り込んだブレスに何を思ったのか、ネモはゆっくりと片手を上げ、そっとブレスの腕に触れた。
警戒心を高めているイルダを刺激しないよう、控えめな動作で。
「戦ですよ。優しさは美徳ですが、いまは捨てなさい。ですが、ありがとう。気遣ってくださって」
「……はい」
ネモの合図を受け、エトルリア軍は再び進み始めた。
イルダとともにエトルリア軍の上空を飛び、死体を見つけては魔法陣を壊しながら、本陣へと向かう。
居住地から離れている海側から王宮のある中央に向かうにつれ、死体の数は増えていった。
エトルリアの兵たちも、帝都を覆う異様な静けさに気を張りつめている。
壁際を進んでゆくと、人々が折り重なるように山となって死んでいた。
「無惨な……」
イルダが顔を歪める。
塔の周りの十数の死体を見ても顔色ひとつ変えなかったイルダが。
人々は閉ざされた門に手を伸ばして死んでいた。
最後まで必死に壁を越えようとしたのだろう、人間が人間をよじ登り、しかし壁のふちに手を掛けることも出来ずに。
門さえ開いていれば、助かる命もあっただろうに。
黒面の向こう側の惨状をどこか遠い出来事のように感じながら、ブレスは目を閉じて祈りを捧げた。
せめて彼らの魂が、この残酷な世界に囚われることなく天へ昇っていけるようにと。
エトルリア軍と共に戻ったブレスの姿を見留め、フェインは立ち上がった。
フェインは宮殿を守る結界を調べさせ、その様子をターミガンが空中に作り出した〈遠視の水鏡〉で観察しつつ、何事か考えていたようだ。
「ネモ殿」
「これは殿下……いえ、陛下とお呼びすべきでしょうか?」
「いいや。戦場では潮騒の魔術師にすぎません。そのような敬称は不要です」
「左様で」
恭しく胸に手を当てて礼をするネモとフェインのやりとりを横目に、ブレスはターミガンの元へ向かう。
「白雷の魔術師。宮殿の結界は崩せそうですか」
「現状ではなんとも言えませぬ。しかし秋のお方が、どこかに綻びがあるはずだと仰っておりました」
「綻びですか?」
「ええ。疵瑕がどうとか……なんでも、全ての結界にはその一点を突けば全体が崩壊する弱点があるらしく。私も初めて聞きましたが」
宮廷魔術師の家系のターミガンが知らないのならば、恐らくそれは女神、世界を造った神々のみぞ知る世界の構造のひとつなのだろう。
「マリー様の元へ行ってきます」
「しかし殿……いえ、刻印の魔術師。あまり出歩かれぬ方が……」
「兄をよろしくお願いします」
物言いたげなターミガンに背を向け、宮殿へと向かう。
背後で「水鏡よ、あの方を頼むぞ」とターミガンがイルダにため息混じりに言い含めているのが聞こえた。
後を追ってきたイルダがため息混じりに言う。
「刻印の魔術師、単独行動はよせ」
「君がいるじゃないか」
「私に後を追わせるなと言っているのだ。前方に敵が居たらどうする」
「前の敵は自分でどうにかするから、後ろの敵は君がどうにかしてくれ」
「……そういう問題か……?」
常識がわからなくなってきた、と呟くイルダに黒面越しに苦笑を向け、ブレスは再び風に呼びかけて空へ舞い上がった。
王宮前には多くの魔術師がいた。
見慣れた豪奢な巻き毛の赤毛と金髪の組み合わせを見つけ、ブレスはふたりのそばに降り立つ。
「あ、フィ──じゃなかった。名前を呼べないのって不便だねぇ。魔法陣を壊して回ってるんだってね。お疲れさま」
「ええ。ところで、マリー様はマリー様でよろしいんですか?」
「あたしはだって、ほら。呪いようがないもん。呼びたかったら豊穣の魔女でも構わないよ。ちなみにこの子は〈人形遣い〉だから、よろしく」
「……なんだか変な感じよね。こういうときの為に本当の名前をかくして呼び名で生活しているのに、戦場ではその呼び名ですら使わないだなんて」
エチカが不安げに結界を見上げる。
まるで何が飛び出すかわからない、たちの悪いびっくり箱のよう。
「マリー様。結界の綻びは見つかりそうですか」
「ああ。もうちょっとってとこかな。ま、いま綻びが見つかってももうじき暗くなっちゃうから、結界をぶっ壊して城に突撃するのは明日になるだろうね」
ええ、とブレスは頷く。
夜はただでさえ何が起こるか判らず、危険だ。
得体のしれない箱を開けて敵を増やすことになっては無駄な犠牲が出る。
今夜は守りを固めて、夜が過ぎ去るのを待つほか無いのだ。
魔術師だけだったら、空を飛んで帝都の結界の外に撤退することも出来るが、歩兵や騎馬はそうもいかない。
薄暗く鳴り始めた頃合い、食事の支度が始まった。
干し肉とパン、という簡単な食事に加えて、住人の居なくなった帝都の台所から鍋と食材がかき集められ、人々が火を炊いてスープを作り始める。
冬の夜風を防寒の黒ローブで凌ぎながら、魔術師たちは交代で空から周囲を警戒している。
「貴方も何か食べなければ」
耳をそばだてながら壁にもたれ掛かり、目を閉じているブレスにイルダは湯気のたつ器を差し出した。
漂ってくる肉と野菜のにおい。
普段であれば食欲もわくのだろうけれど、昼間の死体の山を見た後では気分が悪くなるだけだった。
「俺はいいや。君が食べるといいよ」
「しかし……」
「じゃあ、ミントだけもらおうかな。それでお茶でもいれるよ。飲み水は自分で呼べるし、温めればいいし、う……」
話している途中で吐き気がこみ上げてきて、咳込むふりをして誤魔化す。
顔を伏せたブレスの側に屈み、イルダは細く息を吐いた。
「私は貴方の従者だ。私にまで取り繕う必要はない」
「わかってるよ。俺はただ……なんて言うか、虚勢でも張ってないと動けなくなりそうだからさ。それだけ」
胸のあたりに猫のミシェリーを抱き抱え、顔を上げてぼんやりと燃える薪を見つめて呟く。
「ウォルグランドの剣となることを誓った以上、やるときはやらないといけないんだ」
たとえそれが、命を摘み取ることや、破壊であったとしても。
「イルダ、いざってときは俺じゃなくて兄さんの方を守れ。俺はそう簡単には死なないから大丈夫だ。でも兄さんはそうもいかない。兄さんになにかあれば、皆が揺らぐ。そこに俺が残っていたとしても、俺には国なんかどうしようも出来ない」
しばらく黙していたイルダは、それでも最後には頷いてくれた。
ありがとうと呟いて、ブレスは再び目を閉じ、耳をそばだてる。
もうじき夜がやってくる。