129話 呪われた王弟
王弟オリビアが、帝国の刺客から呪いをうけて倒れた。
ウォルグリア家の所有する屋敷内は現在、その噂で持ち切りだ。
未来の王フェインとは違い、人々にとってオリビアは謎多き人物であった。
聞いた話に寄れば、遠征に向かわされた兄フェインと旅の道中で出会い、紆余曲折の末に国土奪還のため共に海を渡ってきたとか。
冬の翼カナリアの弟子であり、秋の娘サハナドールの寵愛を受ける、類まれなる魔術の才覚を持っているとか。
面差しは柔らかく、線が細く、精霊に愛された者特有の赤毛は豊かに波打ち、物静かで、兄であるフェインを心から慕う忠臣であるとか。
王子でありながら身の危険も顧みず、自らを犠牲に制御を失った師を止め、その影から世界で最も強力な伝説の聖獣レヴィアタンを召還し、脅威であった漆黒の竜を封じ込めたとか。
ウォルグランドの民と臣の感心と尊敬を集めている王弟オリビアは、先日の帝都での戦いでひどい手傷を負ったという。
ある者が言うには、瀕死の重傷であったらしい。
しかし神々と精霊の加護あってか、オリビアは生還した。
先日開かれた重要な会議にも、彼は病み上がりの身体で出席し、人々の前で兄フェインに首を垂れ、その忠誠を皆に示した。
場を守っていた騎士によれば、それはとても美しい光景だったという。
この兄弟には神聖な絆があると、誰の目にも明らかとなった瞬間であったという。
謎多きオリビアの人物像が知られ、諸侯に正式に王弟として認められた、記念すべき日であったという。
その彼が呪いに倒れた。
噂によれば、帝都で竜を封じ込めた際に、帝国の魔術師によって放たれた呪いが受肉し、芽吹いたらしい。
人々はいま、強力な魔術師でありながらどこか儚い彼の安否に、矢も盾もたまらずに気を揉んでいるのだとか。
──という話をリリカルから聞かされたブレスの第一声は「それ、誰?」であった。ひくひくと頬がひきつる。
気が滅入るやら、頭が痛いやら、咳込み過ぎて肋骨が痛いやらで話が頭に入ってこない。
そうだ、きっと聞き間違いをしたんだ。
現実逃避を始めたブレスに、しかしエチカは容赦なくとどめを刺した。
「あなたよ」
「ううん、違うと思う。オリビアって、きっともうひとり居たんだ」
「いいえ、あなたよフィル。間違いないわ」
「違う! そんなどっかの詩人の歌にでも出てきそうなきらきらした王子なんて俺は知らないっ、げほ、ごほっ……」
「大声を出すな」
呆れと心配の混じり合った声でイルダが呟く。
背中をさすられつつひとしきり咳込み、ブレスは痛む肋骨を押さえた。
「なんでだ……なにをどう見たらそんな王子像が出来上がるんだ……物静か? 言葉が解らないのにどうやって喋れって……細いってそりゃあこう何度も寝込めば痩せるし、そもそも魔術師は食生活の縛りがあるからみんな痩せ形だっての……」
あの期待にぎらつく目のせいか。だとすれば彼らの目は曇っている。
きっと見たいものしか見れなくなっているに違いない。
「んー、でも七割くらいホントじゃない? 実際フィーはカナンの弟子だし、フェインのこと信じてるし、カナンのこと止めたし。レヴィアタンはフィーの影から出てきたし。実際、呪われてるし。ミシェリーに言われるまで気づかなかったってのは、笑えるけど」
長いすにクッションを積み上げて、でろんと寄りかかっているブレスの呪いを診察しながらマリーが述べる。
ミシェリーの進言によってブレスが呪われていることを知ったイルダが血相を変えて、帝都付近で自由を満喫していたマリーを呼びに行ったのが今朝のこと。
症状としてはただの風邪だ。咳がひどくて、やや熱っぽい。
たったこれだけの不調なのに、どうして呪われているだなんて思えようか。
笑いごとではありません、と渋面で言うイルダを振り返り、マリーは不思議そうに首を傾げる。
「おやまあ。イルダがあたしに文句を言うなんて」
「それは……わきまえずに失礼を致しましたが、しかし」
「ふううん? へえぇ、そっかそっか。イルダはいい子だねぇ」
「マリー様、うちの従者で遊ばないでください」
にまにまと笑うマリーと、気まずそうに目をそらすイルダ。
とんだパワハラだ。
「それでマリダスピル。結局、フィルの呪いはどういう呪いなのさ。あたし、この子が酷い目に合うのはちょっと許せないんだよね」
隣に座っていたリリカルが、ブレスの赤毛を勝手に三つ編みしながら問う。
魔女たちは自由人である。
「そうだね。見た感じ、他人の病気を採取して、他の人に移す類いの呪いかな。えーと、もうじき死んじゃうくらい進行した人の病気をね、取り出すんだよ。いろんな方法があるんだけど、まあとにかく取り出して、取っておくの。それで使いたいときにその病気に名前を吹き込むと、その人のところに飛んでいくんだよね。真名にかけられた呪いは守りの魔術具程度じゃ防げないから、届いちゃったんだろう」
「……待って下さい、じゃあ俺の名前を知っている人が、敵にいるということですか?」
「そういうことになるね。肺に腫瘍みたいなのがある。まだまだ小さいからいいけど、このまま育つと……そうか、フィーがカナンを止めた時に、言霊を使ったのを見てた奴が居たんだ。ほう、やるじゃないか。たしかに肺が悪ければ、戦闘で言霊は使えなくなる。片脚をもいだも同然だ」
ぶつぶつと独り言を呟くマリーの金色の目が、剣呑に光っている。
なるほどなあと話を聞いていると、背をさすってくれていたイルダの指がきつく肩に食い込んだ。
顔を上げると目が合う。
「イルダ、大丈夫だよ。そんな怖い顔をしないでくれ」
「なにが大丈夫だ。肺の病はそう簡単には治らない。解っているのか」
「俺が死ぬんだったらミシェリーはこんなに平然としてない。それに、呪いだって解ればいくらだって対処は出来る」
ずぶっと手を差し込んで、直接取り除くとか。
「そうだよイルダ。こういうのはね、気づかないうちにべったり癒着して引き剥がせなくなると怖いけど、癒着する前に解いちゃえばなんてことはない。フィーのことはミシェリーが護ってるから、そういうことにはならないんだよ。だいたいフィーは、死にたくったって死ねないじゃん」
「は?」
とうとうマリーの口が滑った。
あーあ、という顔でマリーを眺めていると、マリーは「ん?」と首を傾げ、「え?」と目を見開き、「ああ!?」と叫んで頭を抱えた。
「やばい、どうしよう、そうだった、うわああ父上いまの無し!!」
「死にたくても死ねない? どういうことだ、オリビア」
「えぇ……それ俺に訊くの? マリー様に訊いてよ。人間の俺からはとても言えないよ」
「あたしだってダメなんだからね!? あれ、でも大丈夫っぽい……? いまのはセーフってこと? なんでだろ……」
腑に落ちない顔をしつつも不安げに天井を見あげ、落ち着きを取り戻したマリー。
コンコンと咳をこぼしつつ、ブレスは訊ねる。
「肺に侵入したのだったら、肺に〈呪い替えし〉を刻印すれば剥がれますか? あれ、でもそしたら俺を呪った相手が死ぬのかな……」
「フィー、お人好しか。自分を殺そうとした相手の命なんて……まあいいや。そうだね、死ぬかも知れない。あたしはカナンみたいに病気とか呪いとかを終わらせられないからなぁ。うーん、とりあえずそれ以上呪いが広がらないように、閉じこめておく? カナンが起きたら、取り除いてもらえばいいし」
それはやはりあれだろうか。
母ルシアナの呪いを取り除いた時と同じように、身体に手をずぶっと差し込まれて探られるということだろうか。
あの時の痛みと気持ち悪さを思い出して遠い目になったブレスに、マリーが気の毒そうに言う。
「冬開けまで咳は止まらないかもしれないけど、それでいい? 閉じこめとけば、悪化することはないから。〈呪い替えし〉がイヤなんだったら〈治癒〉にしとけば、少しは楽になるかもよ」
「そうですね。そういうことだからイルダ、心配は無用だ」
「私の問いに答えていない。死なないとはどういう意味だ」
「文字通りの意味だよ、それ以上は俺の口からは言えない」
イルダの不可解な視線がつむじに突き刺さるのを感じたが、言えないものは言えない。
咳を堪えつつ、肺のあたりに手を当てて〈治癒〉を刻印する。
ついでに身体の各所に護身の印を描いておいた。
守りの魔術具も、絶えず身につけておかなければなるまい。
「じゃ、呪いが広がらないように閉じこめるから、じっとしててね」
「念のため確認しておきますけど、痛いですか?」
「んー? ちくっとするだけだよぉ」
絶対に嘘だ。
「イルダ、フィーが咳込んで動かないように両肩押さえといて」
「は、はい」
逆らっても仕方がないので大人しく身を任せる。
赤く塗られた爪で「このへんかな」とブレスの胸をなぞり、ぱかっと額の深紅の目を開いて、マリーは頷く。
次の瞬間、ずぶりと彼女の指が沈んだ。やっぱりきた。
諦め顔で目をそらすブレスの後ろで、イルダが鋭く息を呑む。
エチカはルシアナの呪いを取り除く際に現場を見ているので、気味悪そうな顔をしただけだった。
ちなみにリリカルは興味深そうに「ほえー」と身を乗り出している。
「イルダ、大丈夫だから。これが初めてじゃないし」
「し、しかし……」
「というか前より全然痛くないな。慣れたのかな」
「いやいや、あの時は呪いが癒着しちゃってたから痛かったんだよ。いまは閉じこめてるだけだからねぇ」
「なるほど」
そんな話をしている間に、施術は済んだ。
すっと指を引き抜いたマリーにお礼を言いつつ、試しに一呼吸。
まだ咳は出るが、先ほどよりは楽になった気がした。
治癒が効いているのだろう。
「肺に異物があるのは変わんないからね。閉じこめただけ」
「ええ。悪化しないのなら十分です。ありがとうございます、マリー様」
「いいってことよ。オリビア王子が死んじゃったら大勢の人が悲しむしね」
「ああ、オリビアか……はあ」
リリカルの話を思い出して額を覆う。
人々の噂のなかのオリビアと現実との乖離がひどすぎて、どうしたらいいのかわからない。
「……なんでだろう。なんでウォルグランドの人たちはオリビアにそんなきらきらした幻想を持ってしまったんだ? イルダは知ってるだろ、この前の会議で俺がどんなに腰が引けてて、弱気になってたか」
「そうだったの?」と意外そうに声を上げたのはエチカだった。
「とてもそんな風には見えなかったわよ。フィルはどこからどう見ても立派な王子様だった。わたし、びっくりしちゃった。ちょっと病弱そうだったけど、なんと言うか……高貴に見えたわ。近寄りがたくて、引いちゃうくらい」
「陰のある感じが可愛かったよね。あたしは普段のフィーのが好きだけど、王子様のフィーはさ、きれいな着物をぐちゃぐちゃに乱して虐めたくなる感じ」
ぺろりとリリカルが唇を舐めた。
イルダが咳払いをして妖しげな空気を払拭する。
「着物……ああわかった、それだ。身なりのせいだよ。イルダに身支度を任せたからやたら王子っぽくなったんだ」
「まあ、それはあるかも知れないわね」
「そんなことを言われても……言っただろう、王弟として出席するのだからと」
「ああもう、窮屈だな。なんだかちょっと解った気がします、マリー様が女神でありながら魔女をやっている理由……」
頬杖をついて酒杯を傾けつつ、話を聞き流していたマリーが、仕方なさそうに笑う。
「まあねぇ。生まれも育ちも選べないからね。魔女をやってても結局あたしはサハナドールだし、フィーはフィーだ。カナンはカナンだしね。皆に求められてオリビアを演じなくちゃいけないんだったら、自由に動けるもうひとりの自分を用意しておくことだよ。それに一度認めさせてしまえば、案外なんとかなるもんだ。公然の秘密ってやつさ」
「……そうか」
魔女会の魔女たちは、豊穣の魔女マリダスピルが女神サハナドールであることを知っている。
知っているけれど、彼女たちはマリーにマリーとして接している。
公然の秘密。なんと都合のいい素晴らしい言葉だろう。
親しい者にまで、本当の自分を隠す必要はない。
そして例え秘密が漏れてしまったとしても、彼らを納得させるだけの理由をきちんと提示してしまえば、諸侯も文句は言うまい。
マリーが女神であるように、オリビアは王弟なのだから。
地位を利用して悪事を働くことはまずいけれど、逆ならばどうか。
印象はくるりと反転する。
「イルダ。仮面だ。仮面を用意してくれ。顔が全部隠れるやつ」
首を仰け反らせて突拍子もないことを言ったブレスに、イルダはたじろいで一歩下がった。
「またろくでもないことを考えているな?」
「ろくでもないことじゃない。必要なことだよ」
長いすから立ち上がり、ブレスは着替えを物色して自前のローブを引っ張り出した。
もう長いこと着ている、魔術師の黒ローブだ。
「銀孔雀を着ている時はオリビアになるよ。でもこの黒ローブを着ているときは、誰がなんと言おうと魔術師エミスフィリオだ」
マリーがけらけらと笑い、エチカがほっとした様子で微笑む。
リリカルが目をきらきらさせて手を叩き、イルダが頭の痛そうな様子で眉間を押さえた。
飾りの王子になるつもりは毛頭ない。
ブレスは魔術師として、ウォルグランドの盾と剣になるのだ。