128話 オリビアの仮面
風邪をひいたかもしれない。
イルダと城を脱走し、一日外に出歩いて、夕方ごろにこっそりと窓から戻った翌朝である。
相変わらず止まらない咳にベッドのなかで身体を丸めながら、ブレスは反省していた。
やはり昨日、外に出たのがまずかったのだろうか。
(だけど、そんな虚弱じゃないはずなんだけどな。それともあの海のけものを影から引きずり出した時に影に受けた損傷が、よほどひどかったのか……?)
羽布団をかぶってごほごほと咳込んでいると、扉の開く気配がした。
早足に向かってくる足音はイルダだろうか。
「オリビア様、どうされました」
違った、イルダではなかった。レシャだ。
心配そうな声に顔を上げると、レシャの隣に並んだイルダが怖い顔でブレスを見ていた。
やっぱり君もいたんだね、おはようイルダ。
言いかけるも、声の変わりに出てきたのはやはり咳。
これは困った、どうしようもない。
「レシャ、見ての通りオリビア様は不調だ。日を改めて頂け」
「しかし……本格的に冬になる前にこちらから攻めなければと、フェイン様も叔父上も言っていらしたではないか」
「無理なものは無理だ。わからないのか」
「なに? けほっ、なんの話だ?」
ずるずると起きあがって寝台の背もたれに寄りかかる。
寝ていろ、とイルダは言うけれど、ブレスだって状況は気になる。
「あの……フェイン様と叔父が、そろそろ帝都へ攻めいるための会議をするべきだと仰られて、オリビア様にも同席して頂きたいと」
「レシャ」
双子の弟を咎めるようにイルダが呼んだ。
なるほど、そういう話だったか。これは要するに王弟オリビアのお披露目である。
であるならば、行かないわけにもいくまい。
「わかったよ。着替える」
「その体調で出席する気か?」
「いや、大丈夫だ。咳が出るだけだから。熱もないし」
まぁた従者の言うことを聞かない、とミシェリーが枕元でぼやく。
仕方がない。こればかりは、悠長に日を延ばして待てるような会議でもないだろう。
「ちょっと咳音がやかましいかもしれないけど、居なきゃいけないんだったら居るよ。兄さんも、オリビアが必要だからわざわざ呼んだんだろう。エミスフィリオじゃなくて」
「……そうだが、しかし」
「だったら身支度をする。イルダ、手伝ってくれ。レシャは兄さんに行くと伝えて」
渋面のイルダを心配そうにちらりと見つつ、レシャは下がった。
扉が閉まるなり、「貴方は学習というものをしないのか」とイルダが詰め寄ってくる。
「そんなこと言ったって、王弟が役立たずなわけにはいかないだろ。兄さんの足を引っ張ってしまうじゃないか」
「いま無理をすれば悪化しかねないと言っているんだ」
「だったらなおさら、風邪が軽いうちに顔を合わせておくべきだ。なあミッチェ、会議ぐらい平気だろ?」
『ま、座ってるだけだったら、いいんじゃニャいの』
「ほら、ミシェリーだってこう言ってる」
咳込みつつも立ち上がり、いつも通りに水桶に湯を張るのを眺めたイルダは、渋々といった様子で身支度の用意を始めた。
ここ最近でまた伸びたくせっ毛の赤毛をとかしてもらいながら、顔と身体を拭って用意してもらった衣を取る。
取ったはいいが、広げたそれを見てひくりと顔がひきつった。
すごいのが出てきた。
足首まで丈のある西の絹の衣を腰帯で締めて、引きずるほど長い深緑の上衣を羽織るらしい。
上衣にはもちろん王家の紋章である銀孔雀が刺繍されている。
他にも耳飾りやら腕輪やら、値段を考えたくないようなものばかりが並べられている。
目がチカチカして眩暈がしそうだ。
「うわぁ、なにこれ、こんな高そうな服を俺に着ろってのか……」
「王弟オリビアとして会議に出席するとは、そういうことだ」
「ああそう……」
ブレスは考えるのをやめた。気が遠くなるだけだ。
イルダは膝のあたりまで伸びたブレスの髪を丁寧にとかし、香油をすり込んで、左右で編んだ細い三つ編みをうなじのあたりで纏めた。
されるに任せて着飾らせていると、まるで姫君かなにかにでもなったような気分になる。
こんな裾の服ではろくに戦えもしまい。不便だ。
身支度を終えたらしいイルダが、ブレスを正面から見て頷いた。
「それらしく見える。だが背筋を伸ばせ」
「背筋ね、はいはい……それよりハンカチをくれ、袖で咳をおさえるのはどうせまずいんだろう」
「……そうだな」
「ミシェリー、行くよ」
ベッドの上でくわっと欠伸をしていたミシェリーが、ストンと飛び降りてとことこと歩き始めた。
『早くドアをあけてよ、イルダ』
はっとしたように扉に向かっていく従者の背を見、ブレスは密かに笑った。
イルダも慣れたものだ。
部屋を出たのはカナンとやり合ったあの日以来だった。
正確に言えば窓から脱走したり、夜中にこっそり屋敷を調べ回ろうと扉を開けて見張り番の男と鉢合わせになったりしていたが、表向きはずっと寝込んでいたことになっている。
オリビアとして屋敷を歩くのは初めてだ。
どんな顔をしていればいいのか、皆目見当も付かない。
皆がブレスの姿を見るなり道を開け、首を垂れる。
殿下、と呼びかけられて顔がひきつった。
咳が止まらないおかげでハンカチで顔を隠せてほっとする。おかしな話だ。
「オリビア様、本当に大丈夫ですか」
「イルダ。敬語」
「人前ですので」
「……ああそう。まあ、駄目そうだったらミッチェが言ってくれる……ん?」
前方に見慣れた金髪と三つ編みを見つけた。
エチカとリリカルだ。
立ち話をしていたらしい彼女たちは、最後に会ったときと変わらず元気そうに見える。
無事だとは聞いていたけれど、やはり顔を見るとほっとするものだ。
目が合う。ぎょっとした様子で目を見開いたエチカに、そうだよなあ、と思った。
こんな上等な服を着ているなんて、自分でも馬鹿馬鹿しく思える。
久しぶり、と声をかけようとしたその矢先に、エチカは目をそらして一歩下がった。
他の人々と同じように首を垂れた彼女の姿を見て、一瞬、茫然とする。
ショックで足が止まりかけたブレスに気づいたイルダが、低く名を呼んで諫めた。
そうか。
この格好では、友達と話すことも許されないのか。
「オリビアなんか嫌いだ……」
ハンカチに押しつけた言葉を、イルダだけが聞いていた。
屋敷のなかでも一番広いその部屋に、フェインは居た。
軽食の並ぶ長テーブルに五十名あまりの人々が座っている。
壁際には護衛らしき魔術師や騎士たちが並び、有事に備えているようだ。
物憂げにターミガンと話していたフェインは、ブレスの姿に目を止めて立ち上がった。
諸侯がそれに習い、一斉に席を立つ。
視線が針のように突き刺さるのを感じながら、ブレスはイルダに伴われてフェインの元へ歩く。
長テーブルの端、一番奥の席へ向かう。
微かなざわめきさえもない、しんとした空気に、ブレスの足音と咳音だけが響いていた。
誰とも目を合わせないように、前だけを見て歩いた。
「調子が悪そうだね」
前に立つなり、フェインは心配そうに水色の目を細めた。
次いで浮かんだのは、見慣れた苦笑。
いつも通りのフェインだった。その笑みを見たとたんに気が抜けてしまった。
張りつめていたものが切れる。
だめだ。兄のようには出来そうにない。
こんな大勢の人の前で、この人はどうして心を乱さずに、いつも通りに立っていられるのだろう。
ブレスはその場にひざまずいた。
細く息を吐きながら、「申し訳ありません」と呟く。声が震えた。
「立って。君がひざまずく必要などない。君は冬のお方を止め、竜の怒りまで鎮めてみせた。西を救ったのは、オリビア、君なのだから」
違う、テンテラは怒っていたのではない、泣いていたんだ。
肩に触れた兄が、良く来てくれたね、とブレスにだけ聞こえる声で呟いた。
そうだ。その場に相応しい己を、装わなければいけない。
差し伸べられた手を取って立ち上がり、なんとか表情を取り繕う。
逃げ出したい衝動に駆られながら、それでもブレスは顔を上げた。
フェインの声が響きわたる。
「皆の者。彼が此度、私を故郷へ導いてくれたオリビアだ。王家の生き残りにして血をわけた我が弟、自らの血と真名にかけてウォルグランドを共に護ると誓った同胞だ。精霊の祝福を受けし彼が、神々の采配によって再び故郷に戻った。この意味がわかるか。時の満ちし鐘の音が聞こえるか。いまこそ再び立ち上がり、我らが国土を取り戻そうぞ!」
おおお、と人々が沸き立った。
その場にいた誰もがフェインの言葉に熱狂していた。
取り残されたような気分で彼らを見つめながら、ブレスは拳を握りしめる。
生まれ故郷のはずなのに、まるで見知らぬ異国のように感じた。
その夜。
窓から抜け出して、屋敷の屋根の上でブレスは月を見上げていた。
月光浴だ。魔術師の習慣のひとつである。
膝の上のミシェリーを撫でながら、ため息をつく。呼気が白く散る。
冷えた空気を吸ってこみ上げた咳を、肩に押しつけて殺す。
じっと目を閉じると、昼間の光景が浮かぶ。
期待と崇敬に満ち満ちた人々の目。
ぎらぎらと異様に輝いて見えた。
何かに取り憑かれているかのようだった。
あんなに恐ろしいものを、ブレスは見たことがなかった。
あんなものと向き合うくらいなら、怒ったテンテラを相手にしているほうが何倍もましだ。
「……兄さんは、よく耐えられるな、あんなの……」
「育ちの差なのでしょう」
いつの間にか人型になっていたミシェリーが、金色の目でじっとブレスを見つめていた。
そうだね、と苦笑が滲む。
頭を抱き寄せて額に唇を寄せる。
肩にすり寄ってきたミシェリーをそのままに、コンコンと咳をこぼす。
「兄さんはさ、エトルリアの王宮でも大勢の前で演説したんだって。なんだか納得したよ。今日の兄さんを見たら……なんて言うんだろう、ああいうの」
「求心力とか、人心掌握の能力とか、王の器とか」
「ああ、そういうの。すごいなって思った。思ったけど、でも……」
「ここには居られないと、思ったのでしょう?」
「……ああ」
思念が繋がっているミシェリーは、ブレスが口に出しにくいことを代わりに言ってくれる。
たったそれだけでも心が軽くなる気がするから、不思議だ。
「ずっと居るんじゃないんだもの。それでいいのよ」
「そうなのかな」
「そうよ。だってあんまりお前が優秀だったら、周囲の人間たちは勝手に派閥やらを作り始めるでしょう。お前が優秀過ぎて困るのは、結局フェインなのよ」
「ふ、はは……それは、そうかも。たしかに」
「お前の役割は、剣と盾でいることであって、民の上に輝かしい存在として在ることじゃない。フェインはそのために居て、お前にはお前の役割があるの」
「……ああ。そうだね」
屋根の上に寝ころびながら、大きく深呼吸をして、案の定咳込む。
げほげほと苦しんでいる宿主を金色の目で見下ろして、ミシェリーが「馬鹿じゃないの」と呆れている。
呼吸を整え、夜空に輝く月と星を透かして、ブレスは己の薬指に絡みつく黒い蔦模様を見つめた。
厄介なことに、玉座がからになってしまった時は、ブレスが玉座を護ることを誓ってしまった。
「これはあれかな、協会長のいる町に帰ってからも常に兄さんとやりとりして、玉座があかないように調整するしかないな」
「手紙をやりとりするには遠すぎるのではないの? それに、なにか起こっても、エトルリアからここまでふた月くらいかかったんじゃなかった?」
「たしかに遠すぎるね。〈耳〉ってあんまり遠いと届かないんだっけ? 夢渡りは……エルは出来るけど、兄さんは微妙みたいだし。竜がいたらな」
「海のけものは駄目だからね。わたしが弾き出されちゃうもの」
「当たり前だろ、あんなやばいの! 二度と会いたくもないよ……そういえば結局、あの海竜はどうなったんだ?」
ミシェリーは「知らないわよ、サハナドールにきいて」とにべもない。
そんなそっけないところも好きだ。とにかく。
「ミッチェに聞いてもらったら楽になった。咳のほうもいい加減治まってくれればいいのに。なんなんだろう、これ」
一日咳込んでいたせいで腹筋が痛み始めている。
ブレスのぼやきを聞いたミシェリーは、じろりと宿主を見下ろした。
なにやら含みのある視線だ。
「ほんとに全然気づいてないのね」と残念なものを見る目でブレスを見た彼女は、ずいっと顔を近づけて告げた。
「呪いよ。お前、呪われてるのよ」
いまなんて?




