126話 影の中の獣
正体不明の海のけものは、ブレスの影に潜んでいる。
通常の場合、魔術師が己の影から使役を呼び出す際には、地面に足をついた状態で行うことが望ましいとされている。影が安定するからだ。
影の中の生き物にとって、主人の影は外界へのドアのようなもの。
ドアの形がぐにゃぐにゃと定まらなかったり、小さすぎたりすると、使役の召喚に差し障る。
故に一般的には、宙にいる場合、影から生き物を呼び出すことは難しいとされている。
そういうわけなので、ブレスはいまカナンとマリーと共に結界のなかで一番高い建造物の屋根の上に立っている。
城の塔の一角である。
高さが必要なのは、そうでもなければテンテラと渡り合えないため。
「本来であれば日没が望ましいのだが……」
日はまだ高い。空を見上げながら、カナンは白い眉を寄せる。
「いや、あの、先生。呑気に空なんて眺めてないで早く指示を下さい。テンテラが我々に気づいてこっちに向かって来ています」
冷や汗が止まらない。カナンやマリーと違ってブレスは人間なのだ。
あんな大きな竜を正面にして冷静でいられるほど、肝は据わっていない。
「そうねぇ。要は影が大きくなればいいんだよね。光を呼ぶとか?」
「なるほど」
「光? 光を呼べばいいんですか? この昼間に?」
「そうだね。影を大きく広げたほうが、君の苦痛が少なくてすむ」
「おいカナン、余計なこと言うんじゃないよ」
またか。また苦しいのか。
間近に迫りつつあるテンテラへの恐怖と、謎の生き物を引っ張り出すことへの恐怖で板挟みになり、ブレスはひきつった笑いを浮かべる。
恐怖が過ぎると人は笑うのだ。
「か、か、影を大きくするだけなら光源を近づけて霧に映せば良いのでは? ほら、山頂とかであるじゃないですか、そういうの」
「あー、なるほど! でも霧に映った影から生き物って呼びだせんのかな。カナン、やったことある?」
「ないね」
あっさりと言ってくれるな。
まあいいか、とりあえずやってみようと大気に働きかけたふたりによって、ブレスの前方、結界の内側ぎりぎりに広い霧の壁が現れた。
よくわからないが、気温を下げたり上げたり湿度を調整したりしたのだろう。
指示に従って光を呼ぶ。結界中の光を一カ所に集めたおかげで周囲は薄暗くなった。
ランタンひとつぶんの光を集めるのとは、比べものにならない大仕事だ。
マリーと力を合わせてどうにか集めた光を動かし、背後に置くと、それは小さな太陽のようにブレスを照らし、霧の壁に大きな影を作り出す。
「わー! 見て見て、フィーの影の周りに虹の輪っかが出来てるよぉ!」
マリーがはしゃいでいるが、そんなことを楽しむ余裕などあるはずもない。
ふむ、と隣で頷いたカナンが「なんとかなりそうだ」と呟く。
「いいですか、エミスフィリオ。君の影から生き物が完全に出てくるまで、絶対に動いてはいけない。少々苦しいかもしれないが、出てきてしまえば楽になる」
「楽になる!? 死にませんかそれ、死にませんよね!?」
「わざわざ僕が生き返らせた君を、僕の手で死なせるはずがないだろう。無益な……」
呆れ気味のカナンの言葉に、それもそうかと頷いた。
信じよう。信じるしかない。
「だぁいじょうぶだよ、あたしが押さえとくからさぁ」
「だめだサハナ、君の影が重なる」
「あそっか。そりゃだめだ」
「もう早くしてくれません!?」
冷や汗とひきつり笑いに加えて膝が震えだしたブレスを見、よし、とカナンは頷く。
「いいね。絶対に動くのではないよ」
最後に念を押し、カナンはまっすぐにブレスの影と向き合い、その名を呼ぶ。
「出ておいで。終末の海の獣、レヴィアタン」
名の呼びかけに応えたその生き物が、ブレスの影の中でずるりと蠢いた。
⌘
(……あー……)
気づけばふかふかのベッドの上で天井を見上げていた。
悪い夢でも見ていたかのようだった。
いや、現実逃避はしまい。
そんなものは窮地にあっては全く役には立たないのだ。
疲れ果てて起きあがる気にもなれず、ブレスは再び目を閉じる。
(まさかテンテラよりでかいのが出てくるとは……)
カナンの呼びかけに応え、霧に映ったブレスの影から現れたのは、城よりも遥かに大きな海蛇だった。
正確には、海蛇に似た姿の海竜、だろうか。
終末の海の獣、レヴィアタン。
世界が滅びる時にその身を差し出して糧となるため、サタナキアによって作り出された聖なる獣。
道理でマリーやカナンがあれの名前を伏せておくわけだ。
あんなやばいものが自分の影にいると知ってしまったら、正気を保っていられる自信がない。
塔をひとのみに出来そうな、大きな顎が現れたのを覚えている。
衝撃に凍り付いたその後は、レヴィアタンがブレスの影のふちを擦りながらずるずると這って現れる苦痛に耐えつつも動かないことに必死で、ことの結末は覚えていない。
あれで生後一日とは恐れ入る。
影を広げなければならない理由がよく解った。
広げていたからあの程度の苦しみで済んだのだ。
それでも気が抜けたとたんに意識が吹き飛んでしまう程度には、ひどい苦痛だったけれど。
まるでむき出しの肉を目の粗い鑢でザラザラと削られているような痛みだった。
それがあの長大な獣が出てくるまでずっと続いていたのだから、もはや拷問である。
テンテラはどうなったのだろうか。
カナンは、あの生き物にテンテラを説得してもらうと言っていたっけ。
生まれたばかりの生き物がどうして、と思っていたが、それが竜ならば納得できる話ではある。
竜という生き物は、その血に連なる記憶を受け継いで生まれてくるからだ。
テンテラが古竜ニーズヘッグの記憶を受け継いで様々な事柄を知っているように、あの海竜も先祖の記憶を持っている。
世界の滅びを知っている竜だ。
テンテラも、あの海竜の言葉ならば受け入れるだろう。
はああ、と長々とため息を吐いて、ブレスは目を開けた。
寝ていたいのは山々だが、気になって確認したいことが多すぎて気が休まらない。
「ミシェリー……いるか」
乾いたかすれ声で呼びかけると、黒猫がとことこ歩いて胸の上に乗った。
ブレスは呻く。今はそれですら痛い。
『魔力痛よ』
「だろうね……」
『しばらく寝てなきゃ駄目よ』
「……それは無理かな」
『無理って言ったって、起きあがれないでしょう』
そうだった。魔力痛は魔力を流すと余計にひどくなるので、風の力を纏って身体を動かす、といったことも出来なくなる。
なんてことだ。
これから妹を助けに行かなくてはならないというのに。
『話を聞きたいのならばひとを呼んでくるわ』
「ああ……じゃあ、先生は」
『カナリアはいないわ』
「いない?」
カナンがいないとはどういうことだ。
ブレスの不安が膨らんだのを感じ取ったミシェリーが、フスンと息をはいてブレスの額を肉球で押さえた。
『お前が眠っている間に、カナリアは冬の眠りに着いたわ。次に会えるのは冬明け、春よ』
「……そっか」
寂しくはある。会えたと思ったらいなくなってしまったのだから。
けれど同時に安堵もしている。
今年のカナンの旅は、成し遂げられたのだから。
気が抜けて寝台に深く沈み込んだブレスを見下ろし、ミシェリーが言う。
『お前を横取りしたあの生き物、許さないけど。でもわたしよりも格がずっと上だったのだから、仕方がないわ』
「ああ……世界最強の聖獣だもんな。よくもまあ、あんなのが俺なんかの影に収まっていたもんだよ……」
『生まれてすぐにお前の影のなかに入り込んだからでしょう。お前の影を広げながら、大きくなったのよ』
「なるほどね……」
静かなミシェリーの声を聞いているうちに、眠くなってきてしまった。
けれど落ちる前に、これだけは訊いておかなければならない。
「ミシェリー、もう一度、俺を宿主に選んでくれる?」
『……ばかね。もう選んでるわ』
フスッと笑ったミシェリーに、よかった、と笑んだ。
眠りに落ちていく朧気な意識の中で、枕元で丸くなった黒猫の温もりを感じた。
ちろりと頬を舐められたように思ったのは、現実だったのか、それとも夢だったのか。
どちらでも構わない。
どちらにせよ、幸せなことだ。
翌朝目が覚めると、黒い詰め襟の服を着たイルダがいた。
かぎなれたミントの香りがする。
お茶を淹れてくれているのだろう。
羽布団にうずまりながら黙ってその背を眺めていると、ぴくりと肩を揺らしてイルダは振り向いた。
体中痛くて動けないので顔だけで「やあ」と笑んでみせると、イルダは唇を引き結んで顔を伏せた。
「あれ、どうした?」
「……どうした、ではないだろう」
ああそうか、心配していてくれたんだっけ。
おいでと呼ぶと、イルダは素直に寄ってきて寝台横に膝を着いた。わんこのようだ。
腕が上がれば肩にでも触れられるのだが、あいにくそれも叶わない。
「気苦労をかけて悪かったよ。でも過ぎたことだ。こうしてちゃんと、生きて戻って来れたんだ。ええと、頑張った俺を労ってくれてもいいんだよ?」
冗談めかして付け加えるが、イルダはますます俯くばかり。
おかしい。なにか思っていた反応と違う。
ぼんやりと漂っていた不安が、胸のなかで突然形をもって現れた。
まさか誰かが死んだのか。
フェインや、エチカや、レシャや、リリカル、それともイルダの親類があの戦いの影響で命を落としたのか。
「そんな。誰だ、誰が……教えてくれ、誰が死ん、いッ……!」
「だめだ、動いてはいけない! 違うんだ、私たちの身内はみな無事だ。落ち着いてください!」
「……無事? 本当か、嘘じゃないだろうな」
「ああ」
イルダの目に嘘は映っていない。
気が抜けると同時に力も抜けて、ブレスは枕に沈み込む。
肩を押さえていたイルダが、深刻げな顔で慎重に手を離した。
「だったらどうしてそんな顔をしているんだ」
「……無事ではなかったのは、貴方ではないか」
ぽつりと呟かれたその言葉に、今度はブレスが眉を下げた。
「それは……その、仕方がないだろう? 誰かがやらなければいけなかったことで、俺が一番適任だったんだよ。国境門の関所で、イルダがアスラシオンの役を引き受けた時と同じだ」
「解っている。だが、貴方は!」
「終わったことだ。無事……まあ確かになんとも無かったわけじゃないけど、でもちゃんと生きて戻ってきた。だからもう言うな」
「……生きているようになど、見えなかった」
疲れて閉じていた目を、震え声を聞いて開けた。
覚えていないのか、とイルダは呟く。
「あの終末の獣が貴方の影から現れたあと、貴方は血を吐いて倒れたのだ。当然だ。あんなものを召還して、人の身で耐えうるはずがない。影が傷つけば肉体にも影響が出る。無事で済むはずが……生きていられるはずなどなかった」
「……へえ」
といいうことは何か。またしてもカナンに騙されたということか。
死なないと言われたから信じたというのに、まったくなんて神だ。
これだから神は信じては駄目なのだ。
半眼になってカナンへの恨み言を考えていると、ふと思い出したことがあった。
カナンの血の秘密を、イルダは知らないのだ。
蘇りの現場にイルダは居なかったらしいし、あの閉じこめられていた甲板下にブレスが顔を出すまで、生きていることさえ知らされていなかった。
そうか。それは、心配もするだろう。
生き物はふつう致命傷を負ったら死ぬし、死ねば生き返ることなどないのだから。
「……そうか。解った、それはごめん。けどどうしたものかな、勝手に話して良いことじゃないだろうし……」
けれど身内であるイルダがそれを知らない、というのも不便な話だ。
マリーに訊くのが一番いいだろうか。
「よし。じゃあその件についてはマリー様に投げよう。ああでも困ったな、いま動けないんだ……女神を部屋に呼びつけるのはさすがに不敬だし、ううん」
「秋のお方はいまこの屋敷にはいない」
暗く沈んだ顔のままでイルダが言う。
なんだって?
「あの方は一昨日の出来事で女神であることが知れ渡ってしまった。叔父や一族の者、魔術師たちがその……鬱陶しいと仰られて、帝都の見張りでもしてるからと出て行かれた」
「なんてマリー様らしい……」
イルダもそう思っていたのだろう。
沈んだ顔に、仄かに苦笑が浮かぶ。
きっとターミガンや他の魔術師たちは、女神に相応しい敬意を表したのだ。
けれど彼女は半分くらい、いやそれどころか彼女の自己認識では半分以上魔女である。
葡萄酒を浴びるように飲み、暴食し、でろんと伸びて自由気ままに振る舞いたいであろうマリーが、女神として崇められて窮屈に思わないはずがない。
「そうか、こまったなぁ。〈耳〉を使ってもいいけど、盗聴されると厄介だし……せめて自力で歩ける程度まで動けるようになれば、ルーチェに乗って──あれ?」
そういえばルーチェはどうしたんだろう。
あの海竜がブレスの影を広げながら成長をしたとして、そこに二角獣ルーチェの居場所はあったのだろうか。
(ま、まさか喰われ……)
恐ろしい想像にひゅうと喉がなる。目を閉じて思念に呼びかけるが、反応がない。
ルーチェが影にいない。
「嘘だ……、誰も犠牲にならなかったと思ったのに!」
「突然どうしたんだ、何の話だ?」
「ルーチェがいないんだよ! 大事な使役……俺の二角獣が……っ」
『使役が死んだのならば、判るはずでしょう』
取り乱すブレスの枕元で、黒猫が片目を開けて呟いた。
「どういうこと?」
『使役とは血の結びつきがある。もし彼女が海のけものにどうにかされていたら、繋がりを通してなにかしらの衝撃とか痛みとか感情とかが感じられるはずよ』
「だけどミッチェ、自分で言うのもなんだけど俺は鈍いんだよ!? だいたい気絶してた間とか寝てる間とかにもしその……そうなってても、判るものなのか?」
なにしろブレスはまだ使役を死なせた経験がない。
困惑しつつも話を聞いていたイルダが、恐らくは、と呟いた。
「私は一度、幼い頃に経験しただけだが……心臓を思い切り殴られたような強い衝撃があった。あれに気づかないということは、ないと思う」
『だったら彼女、わたしと同じようにあの海のけものに弾き出されちゃったんじゃない? わたしだってお前との繋がりを無理矢理断ち切られたんだもの。ルーチェがしがみついていられたら、逆におかしいわよ』
「そうか……生きてるのか……」
はああ、と深く安堵の息を吐き、ブレスは目を閉じた。
魔力が流れる痛みを我慢して体中に〈無痛〉を刻印し、重い身体でなんとか起きあがってベッドから足を下ろす。
ならばやることはひとつだ。
ルーチェを探しに行かなければ。
レヴィアタンの英読みはリヴァイアサンです。悪魔ではない。聖獣です。