125話 カナンとの対決
帝都を目指して飛ぶにつれて、吹雪はますます激しさを増し、過酷になっていく。
ろくに前も見えないままそれでも飛び続けることが出来るのは、カナンたちを閉じ込めている結界が、強い光を放っているからだ。
雪の中で明かりを灯すと、光は乱反射をして余計に前が見えなくなるが、ただ明るい方へ向かって飛べばいいのなら目印にはなる。
ひたすらに明るい方を目指して飛びながら、魔術師たちはやがて帝都をかこむ結界へとたどり着いた。
ウォルグランドの魔術師たちによって張り巡らされた結界が幾重にも重なり、巨大な水晶の柱のようになっているその空間に、巨大な黒い影が帝都と共に閉じこめられていた。
耳をつんざくような竜の泣き声が響きわたる。
閉じこめられていることに、気づいているのかいないのか。
テンテラは時折結界に身体をぶつけ、体勢を崩し、身体を傷つけ、それでも泣き叫びながら飛び続けていた。
必死で結界を守っていた魔術師たちと、フェインが連れてきた魔術師たちが交代を始める。
愕然と帝都を見上げながらイルダが呟いた。
「これは……まさかこれほどとは……」
「……ああ。可哀想に」
恐怖に駆られたイルダの目が、すがりつくようにブレスを見た。
風の盾で雪を防ぐことも忘れて、イルダはブレスのローブを掴む。
「い……行かないで下さい。駄目だ、あんな……あんなところへ向かって、戻れるはずが……」
「心配してくれてありがとう。でも行かなければ。大丈夫だよ、カナン先生は敵じゃない」
そのために来たのだ。この冬を収めなければ、フェインの未来も、レイダが望んだ双子の未来も、ウォルグランドの未来も消えてしまう。
「そうだよイルダ、大丈夫だよ。フィーのことはあたしがちゃんと守るからさ」
並んで結界を見上げながら、にこりとも笑わずにマリーが言う。
「兄上もこんな気持ちだったのかな。いや、そりゃ無いか」
「どうでしょうね。ヘリオエッタ様も案外、マリー様が心配だったから怒ったのかもしれませんよ?」
「アハハ、ないない。兄上に限ってそれだけは無いね。鬼みたいだったもん、あんとき」
やれやれと仕方なさそうに首を振り、マリーはブレスに手を差し伸べた。
「んじゃ行こっか、フィー」
「そうですね」
迷い無く手を取ったブレスを見て、マリーが困ったように微笑む。
「あー、んっと、イヤだったら断っても良いんだよ?」
「早く行きましょう」
「……はーあ、ほんとそういうとこ、そっくりだよ……」
誰に似ているのかを訊ねる前に歩き出したマリー。秋の娘に手を引かれ、ブレスは幾重にも張られた結界の壁を通り抜けてゆく。
冬を収めなければ出られない。引き返すことが出来るとすれば、それはカナンを止めた時だ。
もはや後戻りは許されない。
結界のなかは、生身では歩くことも出来ないほどの冬に満たされていた。
マリーが張ったふたりぶんの小さな結界に守られながら、ブレスは彼女に連れられて飛ぶ。
「いい、絶対に手を離すなよ。吹き飛ばされてあっというまに凍死しちゃうからね」
前だけを見据えながら、マリーは進む。
怖いくらい真剣な女神サハナドールの横顔を見つめ、ブレスは頷く。
キュルルルルと泣き叫ぶ竜の子の悲鳴が響きわたり、頭上を黒い影が横切った。空を覆うほど大きな黒い竜。
二度目の脱皮をしたとは聞いていたけれど、これほどまでに巨大になるだなんて。
広げた翼が魔術師たちの結界を擦り、弾かれた翼から鱗や羽毛が剥がれ落ちた。
吹雪に巻かれてあっというまに見えなくなったそれを振り返り、ブレスは悲痛に顔を歪める。
ぼろぼろじゃないか、テンテラ。
「フィー、集中して。いっかいあいつらの上に出るよ」
「ッ、はい」
いまは感情に揺れている場合ではない。
サハナドールは吹雪を諸ともせずに空を昇り、魔術師たちの結界の天井すれすれまで上昇する。
「雪が邪魔で見えないから、ちょっと払うね」
ブレスを振り向き、「怖がらないで」と呟いた次の瞬間、彼女の姿が変わり始めた。
額が割れ、極上のガーネットような赤い眼が縦に開く。赤毛だった髪が目の覚める様な深紅に染まり、ざわざわと伸びて広がった。
こめかみから金色の角がまっすぐに伸びて鹿のように枝分かれし、やわらかな秋風が彼女の身体にまとわりついて目尻や手足に紅葉色で複雑な模様を描く。
息をのむほど美しかった。
目を奪われるブレスの前で、サハナドールは両腕を広げて秋風を呼び、カナンの吹雪を吹き飛ばした。
けれど足りない。秋風と冬風が結界のなかで拮抗して、小さな世界がふたつに割れる。
「ん……ッぐぅ、くっそ、やっぱ駄目か、そうだよな、もうじき秋も終わるこの時期じゃ、良くて同格だ。もうちょっと時期が早けりゃな!」
「でも視界は良くなった。これなら先生たちがどこにいるのか見えます! 声が届くかもしれない!」
「そうだね、近づいてみよう。手を離すんじゃないよ!」
「はい!」
深紅の巻き毛を靡かせながら、サハナドールが猛然と竜に迫る。
カナンはどこにいる。
秋風が雪を吹き飛ばす中で目を凝らせば、雪に混じって白いものが尾を引いて視界の端で動いた。
いた。
「先生! カナン先生!!」
ブレスは叫ぶ。カナンは本来の姿に戻っていた。
額にエメラルドの目を開き、異様に長い純白の髪を引くその姿に、けれど翼がない。
すれ違う一瞬、その残骸が見えた。
僅かに残った翼の付け根の骨がむき出しのまま、血に汚れた羽毛が僅かに残っているだけ。
──なんでだ。なんで先生は、俺なんかのために翼を捨てたんだ。そんなふうに助けてもらってもちっとも嬉しくなんかない、悲しいだけだ。挙げ句にこんなふうに止まれなくなって、先生は馬鹿だ。馬鹿すぎて涙が出る。
「フィー! あんまり身を乗り出すな、結界からはみ出るっ!」
「先生、エミスフィリオです! わからないんですか! 先生が生かしてくれたから、生きろって言ったから、生きて戻って来たんじゃないか!!」
「このっ、危ないって言ってるだろうが!」
ブレスの襟首をつかみ、サハナドールが身を翻した。つい先ほどまで浮かんでいた空を、漆黒の竜の凶暴な顎が過ぎる。
それでもなお腕を伸ばし、ブレスは叫んだ。
「だいたい先生は何やってるんですか! うちの国を助けてくれるんじゃなかったんですか!? 帝国もろとも滅ぼすだなんて、予定になかったでしょう!!」
「もうそれただの文句じゃん!?」
素っ頓狂な声を上げるサハナドールを振り返り、ブレスはキッと女神を睨んだ。
大声で叫んでいる内にだんだん腹が立ってきたのだ。
「そうですよ、言いたかったことが山ほどあるんです。だって言うのにあのひとちっとも聞きやしない。ああもう!」
ゴウと風を切って竜の翼が通り過ぎていった。
そのままぐるりと旋回したテンテラは、鼓膜が破れそうな音量で泣き叫びながら鋭い牙をむき出しに迫ってくる。
どうやら見つけて貰えたらしい。
「マリー様、正面に向かって飛んで下さい!」
「おま、正気か!?」
正気ですともと頷きながら、ブレスは限界まで息を吸い込んだ。
何をしようとしているのかを察したサハナドールが、ひきつった笑みを浮かべて真っ正面からテンテラに向かいたち、自失したまま竜に乗っているカナンの正面に跳び乗った。
背の異物に身をよじるテンテラから振り落とされる前に、ブレスはカナンの両肩をつかみ、腹の底から全力で言霊を放った。
「止まれカナリア!!」
落ちた。テンテラから振り落とされ、サハナドールの手が離れる。
ああ、寒いな。冬なんか嫌いだ。先生の馬鹿野郎。
「フィー!! だめ、いやあぁぁっ!!」
悲鳴じみたサハナドールの呼び声を聞きながら、ブレスは墜落していく。
体勢を立て直して飛ばなければ。
けれど力が入らない。言葉に魔力を込めすぎたのだ。
怒り狂ったテンテラが戻ってくるのを見つめながら、たくさんの人の顔が頭を過ぎった。
だめだった。帰れそうにない。いろんな人に謝らないといけないけど、そんな時間もなさそうだ。
諦めて目を閉じかけたその時、ちらりと視界に白いものが映った。遅れて、額に目のある純白の男と視線がかち合う。
「僕に命令しようだなんて、本当に君は生意気だ」
「……っ」
顔が歪む。視界が滲んだ。
泣くんじゃない、と困った調子のカナンの声を聞きながら、カナンの腕に掬われて、ブレスは空へと戻っていった。
「こんの大馬鹿! ダブル馬鹿!! ほんっとうにどうしようもない、この、ッ、ど馬鹿どもが!!」
怒りと安堵がごちゃ混ぜになったぐちゃぐちゃの顔でマリーが怒鳴る。
ごめんサハナ、と軽い調子であっさりと謝ったカナンが、ますますマリーの怒りの火に油を注いでいる。
「先生……とりあえずこの雪、止めて下さい……」
ぐすぐすと鼻を鳴らすブレスのお願いを聞いたカナンが、ああ、と呟いてくるりと手首を翻す。
あまりにもあっけなく止んだ冬風と雪。
頭上を見上げたマリーが腕を天にのばし、大きくかき混ぜるようにぐるりと動かした。
重く垂れ込めていた灰色の雪雲が、マリーの呼んだ秋風に流されて散ってゆく。
そんな様子を眺めつつ、ブレスは思った。
神様ってずるい。
「あんなに、あんなに冬だったのに……なんなんですか、もう……」
「……エミスフィリオ、もう泣きやんでくれないか」
「お前のせいだろうがっ!」
思いっきり振りかぶった手でそのままカナンの頭を叩き、宙でよろめいたカナンを見、マリーが大きなため息をつく。
「フィー、大丈夫? すっごい顔色悪いけど」
「……たぶん、低体温症と魔力の使いすぎです。なんで凍死しなかったんだろ、俺……」
影に宿る海のけものが、守ってくれたのだろうか。
「ああ。では、魔力が戻れば自力で体温を上げることはできるか」
「できますけど……」
「よし」
頷いたカナンはそのまま躊躇なく指先を切って、問答無用でブレスの口に突っ込んだ。
なにが「よし」だ。
この血のせいで翼を失ったことをよもや忘れてしまったわけではあるまいな。
「げほっ、何するんですかっ、またナーク神に罰を受けたら……」
「あれは血の効力を知らない者の目の前で行った故のこと。君はもう知っているでしょう」
「……そう、ですね?」
言われてみれば、思い当たる節があった。旅の道中に何度か飲まされたあのひどい味の薬だ。
やたらと効きの良いあの薬にも、カナンの血が混じっていたのだろうか。
何も知らないブレスに飲ませていた時には、カナンも罰を受けることはなかった。
逆に言えば、すでに知っている者に血を使っても、問題はないということか。
なんてややこしい。けれど血の力は、たしかにブレスの消耗した身体を癒してくれた。
身体に〈加温〉を刻印して体温を上げ、なんとか自力で浮き上がると、カナンはそっと手を放した。
改めて向かい合って気づく。カナンの目が、マリーと同じ金色に変わっていた。
「その目……」
「待ちなさい。話はあとにしよう」
つと眼下に目を向けて、カナンが呟く。
漆黒の竜は寄り添っていた主人を見失い、大きな身体で迷子の子供のように彷徨いながらキュルルルと悲しそうに泣き、カナンを探しているように見える。
「あの子を僕の影に戻さなくては」
「……はー、今日はそこまでやる予定じゃなかったんだけど、確かにね。あの子が居たんじゃ、結局彼らは結界も解けないわけだし……あの子もぼろぼろだし、可哀想だし」
「とは言え、どうしたものか……今の僕では説得も出来ない」
痛ましげにテンテラを見つめるカナンを、マリーはじろりと眺めた。
カナンが怪訝に眉を寄せる。
「……あのさカナン、今回のこと、反省してる?」
「は? それは……そうだね」
「そうだね!? そうだねじゃないわ!! お前が制御を失ったおかげでうちの子たちがどんだけッ……って今は喧嘩してる場合じゃないんだった、はぁ」
「結局なんなんだ、サハナ」
うるさそうに首を背けたカナンを睨みつつ、マリーはちょいちょいと手招きして何事かを耳打ちする。
幾度か目を瞬いたカナンは、「まさか」「馬鹿な」「冗談だろう」と言った類の言葉を一通り並べたあと、「本当なのか」と呟いてブレスを見た。
なにが?
「あほか、フィーに言えるわけないだろ。フィーにはアレの正体は教えてない。万が一にも変に懐かれたらやばいじゃん」
「そうか。しかし……」
「それっきゃないでしょ? 兄上もこれしかないからアレを寄越したんだろうよ」
「時期的にも、ちょうど良かったということか。エッタはすごいな」
「ほんとだよね。あたしらとは大違いだわ」
揃って苦笑を浮かべ、ふたりはブレスを振り向く。
だから、なにが?
凄まじく嫌な予感がする。
逃げなければいけないと本能が叫んでいる。
宙に浮かんだまま一歩ぶん下がりかけたブレスの肩を、しかし両側からカナンとマリーが押さえた。
「な、なに? なんです、怖すぎるんですけど……?」
「君の影にいる生き物に、テンテラを説得してもらうんだ。それにあたって、まずは君の中からその生き物を引っ張り出さなければならない」
「……はあ」
どうして生まれたばかりの海の生き物にそんなことが出来るのか。
全く理解が追いつかないが、カナンとマリーが出来ると言うのならば出来るのだろう。
「じゃあなんです、その生き物を出せばいいんですよね? なんでおふたりとも、そんな怖い笑顔なんですか?」
「えっとねぇ、知らない方がいいよ?」
誤魔化し笑いを浮かべて額の目を閉じたマリーの隣で、カナンが無言で頷く。
やはり逃げるべきだったのではないだろうか。
ひしひしとそれを実感しながら、ブレスは目の前に神々が居ることも忘れて思わず神に祈ってしまった。
どうか無事に生きて帰れますように、と。