121話 国境、強行突破?
昼頃まで歩くと、空気が変わった。
冷たい風が吹きすさび、空は灰色の雲に覆われ、真冬のように薄暗い。
「……ちょっと見てくるわね」
凍えそうな風に毛織物の外套を体に巻き付けながら、エチカが翡翠のコンパクトを開く。
流れ出した砂が風に逆らって、地面の上をさらさらと流れて行った。
「ねえリリカル、前に様子見したときもこんなに寒かったの」
マリーの問いに、リリカルははためく外套を押さえながら不安げに首を振る。
「ううん。やっぱり、魔術師たちの結界は綻び始めているみたいだ」
「やっぱりか。やれやれ、これはお姫様を助けるよりもカナンを止めるほうが先だね」
目を閉じていたエチカが、小さな声で「あ」と呟いた。
「……冬だわ。冬が帝国の壁を越えて広がっている……もう周辺に民間人はほとんどいない。残っているのは、逃げ遅れてしまったひとたちだけ……このままだとみんな、薪が尽きたら凍死してしまうわ」
「それはまずいな」
自分の外套に〈加温〉の印を描きつつ、ブレスは乾いた大地に膝をついて両手で触れる。
「フィー、なにやってんの?」
「ちょっと待ってください。ええと……うん? あ、これかな……」
大地を伝って薄く広がっていた魔力が反応を捉える。
指先に感じる人々の体温と心臓の鼓動。
ブレスは眉間を寄せて意識を集中する。
薪がないなら人間のほうを温めればいい。
捉えた生命の反応を網のように魔力で繋いで、ブレスは一息に〈加温〉の刻印を流した。
刻印を発動させるには魔力が必要だ。
髪紐を少しだけほどき、己の赤毛を二十センチほど切り取って、ブレスは精霊に呼びかける。
「炎よ……」
魔力の網を遡って、家々の暖炉の炎に宿っていた火の微精霊たちがやってきた。
火の粉のようにはじける小さな灯が、ぐるぐるとブレスの周りを飛び回る。
ブレスは苦笑した。火の精霊は元気がいい。
「足りなくなったら戻っておいで」
『対価は支払われた』
耳元で熱風が鳴り、手にした赤毛が燃え上がって消えた。
ふう、と息をつき、ブレスは膝を叩いて立ち上がる。
よろけたところを、イルダが無言で支えてくれた。
「とりあえず、これで壁の外で凍死者は出ないでしょう。現時点で逃げ遅れたひとたちだけですけど」
さすがに広範囲で的を絞って刻印を流すのは、負担が大きいようだ。
疲れたなあと思いつつ顔をあげると、ブレスの刻印を受けたらしい一同が妙な生き物を見る目でブレスを見ていた。怖い。
「あのさマリダスピル、刻印師ってこんなんだっけ?」
「いや、あたしの知ってる刻印師じゃあないな、これは」
「マリー様、フィルは出会ったときから変だったわ」
「ひどいですよ……せっかく頑張ったのに」
どうして誰もほめてくれないんだ。
ブレスの内心を感じ取ったミシェリーが、皮袋から顔を出してフスンと鼻息を吐く。
『だからあれ、ほめ言葉なのよ』
「どこが……?」
「こんなん」とか「これ」とか「変」とか、どう解釈してもほめられている気がしない。
「うわーすごいや。本当に温かくなった。ここから先はあんまり人間もいないみたいだし、居ても家に籠もってるだろうから、国境手前まで飛んでいかない?」
リリカルが外套を脱いでくるくると回りながら提案する。
そうだねえ、と頷いたマリーの同意によって、一行は一足飛びに国境付近まで進んだ。
いよいよ国境である。
イルダの〈変貌〉の魔術によりそれぞれ変装を終えると、アスラシオンに化けたイルダが言った。
「私の〈変貌〉は短時間しか保たない。この人数であれば恐らく一時間だ。長々と関所に引き留められるようであれば、私を置いて先に行ってくれ。私ひとりであれば、〈変貌〉をかけ直せば何日でもこの姿で居られる。状況を見て別人になれば、逃げることも可能だ」
「最悪そうなってしまったとしても、助けに行く。追い詰められたって早まるなよ、イルダ」
ブレスの言葉を聞いたイルダが、アスラシオンの顔で仄かに笑った。
不気味だ。中身がイルダだと解っていても寒気がする。
(……お前、いくらなんでもこの男にびびりすぎなんじゃないの)
(仕方ないだろ! トラウマなんだよ!)
ミシェリーの念話に答えつつ、ブレスはいかにも寒そうに毛織物の外套を体に巻き付けた。
本当はぽかぽかに温まっていたとしても、この天候で平然としていては不自然すぎる。
「楽しいねぇ、こんな命がけのお芝居なんてなん百年ぶりかな」
化けたマリーがにんまりと笑う。
レシャはレシャのまま、なんとも複雑げな表情でそれを見つめていた。
「では、行くぞ」
すっと冷たくなった声と顔。
アスラシオンを纏ったイルダが、城壁に向かって大股に歩き始めた。
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冷え切った城壁の上、見張りに立っていた兵士が暗録色の目を眇める。
数人の人影が、大柄な男を先頭に歩いてくる。
どう見ても彼らはこちらへ、国境門を目指して向かってきていた。
「……おい、見ろ」
寒さに震えながら反対側を見張っていたもう一人の兵を呼びつけ、男は顎をしゃくる。
先頭の大男、金色の髪の魔術師に支えられながらなんとか歩いている赤毛の魔術師、それから大男の部下らしき男たちが数人。
「あれは……まさか! そんな!」
顔色を変えて梯子を降りて行く兵を横目に、男は険しく眉を寄せる。
「アスラシオン、なぜ戻ってきた……?」
眼下の一行が門の前で止められたのを目視して、男は城壁の内側に飛び降りた。
出て行こうとする者は多いが、入ってこようとする者はいない。
あの男はそれほど忠節を尽くすひととなりだっただろうか。
暗緑色の目の男は、消息の途絶えていた将の生還に騒然とする男たちの中を突っ切って、そっと壁際にもたれ掛かった。
⌘
妙な男がいる。
外門が開かれ、アスラシオンの顔に見覚えがあったらしい兵に通された城壁の中で、ブレスはうつむいたまま横目を走らせた。
対処に追われる者、困惑して指示を仰ぐ者のなかで、その男だけがじっとこちらを見つめていた。
鋭い目つきをしている。帝国人にしては珍しい、暗い緑色の目だ。
微動だにしないその男を、国境警備兵は誰ひとりとして気にかけない。
「いつまで待たせる気だ?」
アスラシオンの低く残忍な声に、近くにいた兵士たちが表情を強ばらせた。
「貴様どもがのろまな為に、潮騒の魔術師がこんなところで死んでみろ。炎帝陛下がどのような処罰を下すことか、さぞかし見物だろうなぁ」
嘲笑を含んだその言葉に、兵士たちは顔色を変えた。
ついでにブレスの顔色も変わる。
イルダの演技力が堂に入りすぎていて、本物にしか見えない。
いまにも倒れそうな様子でレシャにもたれ掛かっていたフェインが、土気色の顔でその場に膝をついた。
うつろな目のフェインは、レシャの必死の呼びかけにも反応を示さない。
ちらりと背後のフェインに視線を向けて、アスラシオンは無情にも「立たせろ」と命じた。
命令を受けた部下ふたりが、容赦なくフェインの襟首をつかみ、乱暴に体を引き上げた。
やめてください、とレシャが悲壮に叫ぶ。
「おい、馬を用意しろ。このまま歩かせていては、潮騒の魔術師は宮殿まで保たぬ」
「し、しかし、ただいま帝都付近は、非常に危険な状況でして」
「おお、そうか。そうであろうなぁ、見ればわかるとも。……それがどうした!!」
腹の底から響く怒号。
びくりと身を竦ませながら、ブレスは必死で己に言い聞かせた。
大丈夫、アスラシオンは死んだはずだ。
あれはイルダ。
イルダのはずだ。本物にしか見えないけれど。
(イルダはすごいなぁ……)
現実逃避をしつつ、再びちらりと壁際の男に視線を向ける。
先ほどまでいたあの男が、居なくなっていた。
「……ッ!」
首筋に殺気を感じ、ブレスはとっさに身を屈めた。頭上を重く鋭いものが、ぶんと音を立てて通過する。剣だった。
避けなければ首が飛んでいた。
鳥肌がたつ。
「ほう、避けるか」
「何をする!?」
とっさに声を上げると、ブレスの声を聞いたアスラシオンが反射的に振り向いた。
鬼のような顔で手近な兵の腰から長剣を抜いたアスラシオンは、剣を構えたその男と素早い身のこなしで斬り結ぶ。
「……?」
剣を受けた男の表情が変わった。
くるりと回転して剣を避けながら、男は薄い唇に指をあてがう。
空気を切り裂くような指笛が高く鳴り響いた。
いつの間にか開け放たれていた内門から、古びたローブを纏った魔術師たちが、その合図を待っていたかのように次々と飛び込んでくる。
「なにこれ、どういうこと!?」
部下に化けたエチカが混乱して叫ぶ。
「解らない、けどとにかく門は開いてる! 逃げろ!」
「そうはさせるものか、帝国人め」
顔の解らないローブの男が、変装したブレスの前に立ちはだかって低い声で言った。
(……あれ?)
違和感に動きを止めたブレスのみぞおちに、渾身の拳が叩き込まれる。
意識がとびかけた。
ぐらりと傾いだブレスをローブの男が担ぐ。
必死に顔を上げると、同じように担がれたレシャと、変装した幾人かが見えた。
──イルダは。
魔術師たちに取り押さえられたイルダは、アスラシオンを纏ったまま凄まじい形相でブレスに腕を伸ばしていた。
「……ひっ」
怖すぎた。
もしかしたら、ブレスが手を伸ばせば届いたかもしれない。しかし出来なかった。
中身がイルダだと解っていても、反射的に身体が凍り付いてしまったブレスは、一瞬の機会を逃して宙を運ばれて行く。
ごめんイルダ。本当にごめん。
心の底から謝りつつ、痛みのために力の入らない体でどうにかもがく。
「……くそ……中途半端に殴りやがって……ッ」
みぞおちの痛みに息も絶え絶えになりながら、なんとか〈治癒〉を刻印しようとするも、虚しく。
「大人しく寝ていろ」
妙な匂いのする布で口と鼻を覆われて、ブレスの意識は落ちた。
目が覚めると、なぜか寝台の上に寝かされていた。
それなりに上等なものだとわかる寝具だ。
あやうく状況を忘れて二度寝するところだった。なんという罠だろうか。
毛布をけっ飛ばす勢いで起き上がり、みぞおちに走った鈍痛に呻く。
〈治癒〉と〈無痛〉を刻印して立ち上がり、部屋を見回すが、誰もいない。
「どこだ、ここは……」
それなりに大きな屋敷に見えるが、窓は分厚いカーテンで覆われている。
慎重にカーテンをめくると、窓の外は雪景色だった。
冬だ。ということはここはここは壁の中、帝都の近くなのか。
「……うん?」
肩に垂れている髪が赤毛に戻っていることに気づく。髪紐もほどかれている。
火の精霊に差し出したときに切った髪が、もう元の長さまで伸びていた。
よく見れば、着物も上等なものに変えられている。
西の衣ではない、中央と同じような魔術師の服装だ。
──これはどういうことだ?
怪訝に眉を寄せたそのとき、部屋の扉が開いた。
知らない顔の女が、湯気のたつ食事を持って立っている。
女はブレスを見るなり、目に涙を浮かべてその場にひざまずいた。
彼女はそのまま、とつとつと何事かを話し始める。
西の言葉だ。何を言っているのかさっぱり解らないが、「フェイン」という響きだけは耳に残った。
「……これ、もしかして兄さんと間違われているんじゃ……」
どうも嫌な予感がする。
引き留めようとする女の横を通り過ぎて、ブレスは魔力の気配を追った。




