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116話 真珠星の乙女 

 

 ミントのさわやかな香りで目が覚めた。


 夢現(ゆめうつつ)のまま寝返りを打つ。

 肌寒さを覚え、けっ飛ばして足下のほうで丸まっていた毛布を引き寄せる。


 船室のカーテンが静かに開けられ、夜明けのかすかな光が差し込んできた。

 ブレスはぼんやりと目を開ける。


 寝台で毛布にくるまったまま、朝のお茶の用意を黙々と行う従者の背をしばらく黙って眺める。

 ふと動きを止め、イルダは振り向いた。


「おはようございます、オリビア様」

「……うん。おはよう、イルダ」


 従順に目礼するイルダを見て、ブレスは思う。

 一体どうして、こんなことになってしまったのだろうか、と。


 イルダがブレスに仕えることになるにあたって、ブレスはネモのいるシルバーホース号からブルータイガー号に移ることになった。


 そもそも、シルバーホースに乗っていたのは、エトルリアで死んだブレスの身体の調子をネモが観察するためである。


 完全復活したブレスはその後もなんとなくシルバーホースに居座っていたけれど、ここのところの事情を思えば、移動がもっとも理にかなった選択だった。


 ブルータイガーにはイルダがいるし、ローレライもいる。


 和解したとは言え、一度は裏切ったイルダをエトルリアのネモの側近たちは受け入れてはくれない。

 そしてローレライはここのところ、どういうわけか内面が変化しつつあるようだ。


「今日はレモンバームも入れたのか。良い香りだね」

「心が落ち着く作用がありますから」


 寝台から起き上がり、あくびをかみ殺しながらイルダが入れてくれたお茶を飲む。


 ここ最近は秋も深まり、肌寒い。ミントには血流をよくして身体の冷えを改善する効果もある。

 イルダは本当によくものを考えている。


 お茶を飲み終わって目が覚めると、ブレスは日課であるミシェリーのブラッシングをする。


 膝に乗った大きな黒猫を撫でながら艶やかな毛をとかすのだ。

 そしてそのブレスの赤毛を、背後に立ったイルダがとかすのである。


「ああ、まただいぶ髪が伸びましたね」

「……そっか、それは良いことだよな、うん」


 慣れない。ぎこちない。なんとも妙な気分になる。


 伸びた髪がじゃまにならないように、魔術師の髪紐を編み込むのもイルダだ。


 その後、ブレスはこれまたイルダが用意してくれた衣服に着替える。

 直立して待つイルダは、何時に起きているのか知らないがすでに完璧に身支度を整えている。


 ブレスは思う。


 これは誰だ。これは本当にイルダなのだろうか。

 実はイルダはあのあと抹殺されていて、まったくの別人が成り代わっているのではないか。


 もちろんあり得ないことは解っている。

 解っているが、彼は誰がどう見ても変わりすぎである。


「なあミッチェ、アレ、あのままでいいんだと思う?」


 茶器を下げに船室を出ていった隙に黒猫に話しかけると、ミシェリーはくわっと大口を開けてあくびをひとつ。


『本人が好きでやっているのだから、いいんじゃニャいの』

「そうなのかなぁ」

『お前、人の上に立ったことがないから居心地が悪いだけでしょう。西に行ったらお前は王の子として振る舞わなければいけないのよ』


 それはその通りだ。

 なんとも頭の痛い話ではあるけれど。


『いまのうちに慣れておかなければ、西でフェインの足を引っ張りかねないわ。本当のお前を知っているイルダだったら、失敗しても許してくれるだろうけど、国民の前ではそうもいかないのだから』

「たしかにね。ああぁ緊張する、どんな顔してひとの前に立ったらいいんだよ」


「普段通りのオリビア様でまったく問題ないかと思いますが」


 突然背後に立ったイルダの気配に、飛び上がって驚いた。


 澄まし顔で生け捕りにした魚を入れた桶を抱えた彼は、「待て」を命じられた忠犬のようにブレスの動作を窺っている。


「フェイン殿下がオリビア様を軽んじない限りは、オリビア様は素のままでいらしたほうが皆も親しみやすいかと思います」


「そ、そうか……普段通りね。じゃあとりあえずその、オリビア様っていうのやめないか? 敬語だと他人行儀すぎて、居心地が悪いんだ。そういうのは人前だけでいいんじゃないかな、ネモ様の側近たちもそんな感じだったし」


「…………どうしてもと、おっしゃるなら」


 ものすごく渋々ではあったものの、承諾してもらえた。これは進歩だ。

 胸をなで下ろしつつ、ブレスは桶の中の魚をナイフでしとめながら付け加えた。


「あと、気配を消すのはやめてくれ。心臓に悪い」

「……ああ。それは失礼した。つい、魔術師としての癖で」


 気まずそうではあったもののやや肩の力が抜け、イルダは「私もまだまだ未熟だな」と苦笑した。

 ずいぶん柔らかい笑みを浮かべるようになったものだ、と思う。


「では、調理場へ行ってくる」

「ああ、よろしく。イルダのぶんも調理してもらうといいよ。一緒に食べよう」

「……それはいくらなんでも、気安すぎるのでは?」

「でも、食べてるのを見守られても居心地悪いだけだし」


 仕えると言われたって、なにしろブレスはイルダのことをほとんど何も知らない。

 それはイルダだって同じはずだ。


 まずは一緒に食事でも食べながら、話をして友好を築こう。

 互いの考え方や好き嫌いの癖なんかを知る必要もあるだろう。


 そういったことをすっ飛ばして仕えた結果がフェインへの裏切りだったのだから、ブレスとしては、上辺の礼儀なんかより余程大切なことだと思う。


 結局最後には説得されたのか、イルダと共に食事をとることがブレスの日課となった。


 少女の姿になったミシェリーも同席して、三人で出会いを語り、楽しみと苦しみを語り、将来を語った。


 戦争へ向かう途中だからこそ、いましか出来ない話がある。

 戦いが始まれば、夢を見ることは許されない。


 現実と向き合った先にあるかもしれない幸福を、大切なミシェリーと、そして出来たばかりの友人と語らう時間は、ブレスにとって掛け替えのない有限の夢だった。




 ブルータイガー号に移ってから日課となったことはもうひとつある。

 それはローレライの教育である。


 彼女は、己の魔力がどれだけ人間に害を及ぼすかを軽く考えているふしがある。

 マルメーレ諸島で気軽にネモを呪ったことからも解る通り、彼女にとって人間は下位の生物なのだ。


 人間の一匹や二匹が声の魔力に当てられて死んだとしても、彼女にとっては些細なこと。

 彼女曰く、「だって、弱いものが生き残れないのは自然の摂理じゃない?」。


「海のなかではそうだったかもしれないけど、人間の世界では弱いからってうっかり死なせていいことにはならないんだよ」

「そうなの? それってなんだか、強いほうが損になってしまうのではないかしら。弱いもののために我慢を強いられるなんて」

「損得の問題じゃなくて……」


 なんと説明をしたものだろうか。

 言葉を選ぶブレスの横で、イルダが「秩序だ」と言った。


「人間の世界では人間が定めた法によって秩序が守られている。殺してはならないのは、法によってそう定められているからだ。

 海の眷属の世界にも、秩序を保つための決まり事があっただろう。地上と海ではその決まり事が違うのだ。

 お前が人間と居たいのならば、その決まり事に従わなければならない。そうでなければ、地上のものはお前の存在を許しはしない」


 ローレライはイルダの言葉を聞いてゆっくりと海の目を瞬いた。

 やがて困ったように首を傾けた彼女は、イルダを見つめて答える。


「……わからないわ。私、地上の決まり事を知らない。どうしよう。ねえイルダ、あなた、決まり事を知らない私を追い出す? どうしたら一緒にいさせてくれるの?」

「使役になればいいのではないの」


 と、つまらなそうに言ったのはミシェリーだった。


「魔術師の使役に下れば、思念が繋がるでしょう。その女が地上で悪いことをしてしまいそうな時は、イルダがそれを止めてあげればいいのよ」

「……私が? オリビア様ではなく?」


 怪訝に眉を寄せるイルダに対し、ミシェリーは不機嫌に目を眇めてブレスの腕をつかむ。


「これはだめ。わたしのものだもの」

「ミ、ミッチェ……ッ!」


 不覚にもときめいてしまった。


 ああ、撫でたい。今すぐミシェリーを撫でくり回したい。

 しかし彼女は人型である。

 人目のある場所で、まさかそんなことをするわけにもいかない。


 いろいろな感情を押し殺し、ぶるぶると震えながら床を凝視している宿主をちらりと横目で見、ミシェリーはため息をひとつ。


 一瞬で黒猫の姿に戻ると、とことこ歩いてブレスの膝の上で丸まった。


 とたんにミシェリーを撫で回し始めたブレスを見、なるほど、とイルダが苦笑する。


「ローレライ。お前がそれでいいのならば」

「そうねぇ。仕方がないわよねぇ。よくってよ、私、乗り換えることにするわ。あなたに」


 返事を聞いたイルダが浅く指先を切り、ローレライがイルダの指を口に含んだ。


 さんざん舐め回した後でやっとイルダの手を解放し、仕上げにぺろりと艶っぽく唇を舐めた彼女は、「名前は?」と訊ねる。


「そうだな。海に関連するものからとろうか」

「別にかまわないけど、お母様と同じ名前はイヤよ」


 七百年を生きる潮の眷属の娘、白人魚マルガリーテースの名を知るのはブレスとネモだけだ。

 名を知らないイルダには難題だろう。


 イルダは少しの間だまりこみ、指先で顎を撫でながら眉間を寄せる。


「では、スピカはどうだろうか。〈春抱く乙女座〉に属する最も明るい星の名前だ。真珠星とも呼ばれている。海のものでありながら天に、地上にいるお前には、よく似合うと思うが……」


「……スピカ」


 ローレライはその響きを、小さな声で呟いた。

 虹色の鱗が散りばめられた彼女の頬が、喜びでほのかに赤く染まる。


「そうね。人間が考えた割には、まあまあ素敵。気に入ったわ」


 イルダを見つめ、彼女は己の胸に手を当てて微笑む。


「私はスピカよ。あなただけの、いちばん明るい真珠星」


 後にも先にも、これほど綺麗に笑う彼女の姿は見たことがなかった。


 こうしてスピカの名を得たローレライは、イルダの使役となって格段に行儀や素行が改善された。

 ミシェリーの提案は採用して正解だった、というわけだ。


 彼女がイルダの使役に下って心底安堵したらしいマリーは、「イルダについて回るくらいだったら甲板下から出てもいいんじゃない?」とネモに話を持ちかけた。


 ローレライが徹底的に苦手なネモはものすごく渋り、すさまじく嫌な顔をしたものの、三日間の熟考の末に最終的には彼女の自由を認めることを決めたようだ。


「ただし絶対に主人であるイルダから離れてはなりません。イルダは責任をもってその生き物を管理するように」


 〈耳〉を通してそう命じられたスピカは、心底うれしそうな顔で珊瑚色の髪を背中に流した。


 イルダと片時も離れたくない彼女にとっては、願ってもない命令だったに違いない。



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