114話 甲板下層部の会合
レシャが目を覚ましたのは二日後のことだった。
意識を取り戻し、己が生き残ってしまったことを知ったレシャは取り乱して暴れた。
看病に着いていたネモの側近カルベネの腰から短剣を抜いて自害をはかり、ノーラルドに取り押さえられたところを駆けつけたブレスが「動くな」と言霊で縛った。
動きを封じられたレシャは倒れ込み、絶望に染まった目でブレスを見上げ、「殺してくれ」と嘆願した。
「イルダが死んだのに私だけ生きていくことなど出来ない」
「レシャ、落ち着いて。イルダは無事だ」
ブレスの言葉を聞いたレシャの目が大きく見開かれる。
茫然と言葉を失ったレシャに、ブレスはことの次第を淡々と説明した。
「だからイルダは生きている。君が後を追おうとして毒を飲んだことは、まだ伝えていないけど」
不安定なイルダにこれ以上の精神的負荷をかけることは、どう考えてもいけないことだ。
彼は相変わらずブルータイガーの甲板下層部で、ローレライの歌によって眠らされている。
「……どうして……私たちは終わりにしたかったのに。貴方に私たちの選択を止める権利などない!」
血を吐くような悲痛な怒りの叫びにいっとき目を伏せ、ブレスは再びレシャと向き合う。
「その件については話し合いが必要だと思う。いいか。君とイルダと兄と私で、これまでのことと今後のことについて話し合おう。話し合いの場においては自由に発言してくれて構わない。主従はいったん横においておくんだ。そんな形式に拘っていられるような状況じゃあ、ないですからね」
「……いったい何を、企んでいるのですか」
不信に満ちたレシャの声に、ブレスは細く息を吐く。
今のレシャは、もはやイルダの言葉しか信じられなくなっているのだ。
「私はただ、レイダ先生の忘れ形見である君たちに、報われて欲しいだけです」
父親の名を出したことでレシャはやや冷静を取り戻したように見えた。
それでも未だ警戒の目を向けるレシャに、ブレスは手を差し伸べる。
「イルダは飛べません。話し合いをするにあたって、ブルータイガーまで同行願えますか」
「……拒否権などないのでしょう。言霊で命じれば良いものを」
「あれはどうしても必要な時しか使わない。世界の理をそう軽々しく曲げることを繰り返しては、後が怖いですからね」
ヘリオエッタが現れた際に「父に命じられて来た」と言っていたことから察するに、主神サタナキアは全てを見ているのだ。
それを思えば慎重に成らざるを得ない。
レシャは薄暗い目でブレスを睨みあげた。
心を閉じてしまったレシャに、ブレスの言葉は届かない。
それでもいまのレシャには、彼自身が言っていたように選択肢がない。
無言のまま身体を起こしたレシャは、ふらつきならがもどうにか自力で立ち上がった。
手を貸そうとしたブレスの腕を振り払い、強ばった面もちで船の縁まで下がる。
「……じゃあ、行こうか。イルダのところへ」
〈遮断の腕輪〉で気配を絶った黒ローブのネモにちらりと視線を向け、ブレスは頷く。
レシャが妙な気を起こした時は、ネモが止めてくれる手筈になっている。
立ち会いは必要だが、部外者がいてはイルダもレシャも本音では話せないだろう。
故に彼には、腕輪の力で消えていてもらうことになった。
こうして向き合っていても仕方がない。
ブレスはレシャに背を向け、猫になったミシェリーが肩に飛び乗るのを待って風に呼びかけ、飛び立つ。
レシャがよろよろと後ろを飛びながらついて来るのをちらりと確かめ、あとはもう振り返らずにブルータイガーを目指した。
ローレライの膝に抱かれて眠るイルダを見るなり、レシャはわき目も振らずに駆けよって膝を着いた。
「イルダ……本当に生きて……?」
「ああ。精神的に不安定だから眠ってもらっているけど、これから起こすよ」
縋るような目で、レシャがブレスを見上げている。
イルダの金髪を優しい手つきで撫でていたローレライが、問うようにブレスにむけて首を傾けた。
「……そうだね。レシャが声の魔力の影響を受けるかもしれないから。ごめん、ローレライ」
いいのよ、とばかりに目を細めて彼女は微笑む。
沈黙のままイルダの額に手を翳したローレライは、眠りの魔法を解呪した。
分解された魔力が青い燐光を放って散り散りになり、蛍のように宙を漂う。
閉ざされていたイルダの瞼が震える。
薄く開いた褪せた青い目が、ぼんやりとさまよった末に彼の兄弟の姿を捉えた。
「……レシャ……?」
乾いた唇を開き、ひび割れた声でイルダは双子の弟を呼んだ。
声を聞いたレシャは無防備に弱々しい顔を歪め、潮の匂いのする床板に手をついてうつむいた。
イルダの頬にぽたりと涙が落ちる。
鼓動を確かめるように胸へ伸ばされたイルダの手を、レシャがつかみ取る。
一度は死を決めて手放した兄弟の手だ。
それが、こんなにあたたかいだなんて。
「……あ、あぁ、うあああぁ……っ!」
嗚咽はやがて泣き声に変わり、レシャは全身で泣いた。
頬を涙が流れる度に、苦しみは安堵へ、絶望は親愛へ、悲しみは再会の喜びへと変わってゆく。
己のために泣いてくれるレシャを見て、イルダは何を思っただろう。
黙って兄弟の泣き顔を見上げていたイルダは、やがてその面に仄かな笑みを滲ませた。
困ったような呆れたような、けれど温もりのあるイルダの笑みは、嵐が過ぎ去った晴れ間のように淡く輝いて見えた。
レシャが落ち着き、ブレスのもらい泣きが収まると、マリーの〈耳〉を経由してフェインを呼んでもらった。
どうにか身体を起こしたイルダはローレライに支えられ、その傍らにはレシャが付き添っている。
ふたりがイルダを見る目は限りなく優しい。
ローレライは数日をイルダと過ごし、情がわいたのだろうか。
フェインはマリーを伴って現れた。
相変わらずブレスの肩の三日月の徴が怖いらしいマリーはブレスを見てたじろいだが、初日のように後ずさりはしなかった。
それだけで救われる思いがしたブレスである。とは言え。
「あの、身内だけの話し合いのつもりだったのですが、どうしてマリー様が……?」
「だって立ち会いは必要だろう。中立の者がいなきゃ、ただの喧嘩で終っちゃうかもしれないし……あれ?」
マリーの視線が気配を絶っているネモに向けられ、彼女はこてんと首を傾げた。
無言のネモが〈遮断の腕輪〉を掲げて状況を示す。
「絶対に見つからない」と言霊を吹き込んだ腕輪も、さすがに女神の目を誤魔化すことは出来なかったようだ。
「あー、そういう……うん、でもフェインには味方がいないから、どっちみちあたしはここに残ることにするよ」
「味方がいない、ですか?」
「うん、だってレシャはイルダの味方で、イルダはフェインを憎んでいて、フィーはイルダの気持ちを尊重したいと思っているだろ? だれがこの子を守るのさ」
当然、といった様子で腰に手を当てるマリーの隣で、当のフェインは困ったような気落ちしているような、なんとも微妙な表情を浮かべていた。
そうか、フェインは己が孤立したと思っていたのか。
しかしそれは思い違いである。
「誰ってそれは、私ですけど」
「んぇ?」
マリーが再び首を傾げる。
「ですから、私は兄を糾弾しようと思って皆を集めたわけじゃないんです。寧ろ逆です。もう二度と不幸なすれ違いが起こって誰かが苦しい思いをしなくてすむように、今後のためにも本音で話し合っておこうと思ったんです。この話し合いによって一番安心出来るのは、兄さんですよ」
そりゃあ過去のことがある以上、耳の痛い思いはするかもしれないけれど。
ブレスの言い分を聞いたイルダとレシャが、困惑の表情でブレスを見上げた。
もちろん、彼らの気持ちをないがしろにする気は毛頭ない。
とにかく、とその場にあぐらをかき、ブレスは拳で軽く床を叩いた。
コンコンという軽い音が、やたら場違いに聞こえる。
「座ってください。床であれですが」
「ああ……それは別に、構わないが」
すとんと腰を下ろし、同じくあぐらをかいたフェインを見、レシャが微かに目を見張った。
正三角形の距離に既視感を覚える。
ネモと反対側の壁際に、マリーが腕を組んで寄りかかった。
いざ本題に入ろうかと思うと、今更のように緊張する。そんな自分自身に苦笑しながら、やはり人の上に立つ資質はないなと改めて思う。
「では、そうですね。つらい話になりますが、すれ違いの原因となったレイダ先生の話から……」
エトルリアで死ぬ前にイルダから聞いた話をもとに、ブレスはイルダの心中を代弁する。
本音で話し合おうと言ったところで、今のイルダにはフェインに恨みを訴えるだけの気力もない。
「以上がイルダの事情です。イルダ、間違っていないか?」
「……ああ」
同意する彼の声は、当時を思い出したためか暗く低い。
追いつめてしまっては本末転倒なので、ブレスは事務的にレシャを指名する。
「では、レシャ。君の話を聞かせてくれ」
「……本当に、本心を打ち明けてしまってもいいのでしょうか」
レシャの目はフェインに向けられていた。怖々とした彼の目を受け、フェインは顎を引いて頷く。
「なにひとつ隠す必要はない。言いたいことを言ってくれ」
俯いたレシャの睫が震える。もともとイルダほど意志の強くないレシャにとって、己の心内をさらけ出すことは負担が大きいことだろう。
それでもレシャは話してくれた。
初めは言葉を選びながら、だんだんと取り繕ったものを脱ぎ捨てて、傷口の膿を吐き出すように彼は話した。
「父上の記憶を奪えと命じられ、私は炎帝の命に従いました。あの場では従うしかなかったですが、今でも思い出す度に胸が痛みます」
イルダとレシャを置き去りに、去ってしまった父。
幼かった当時のレシャは混乱し、ひどく傷ついた。
けれどレシャにはイルダというかけがえのない兄弟がいた。
イルダがレシャの心を守ってくれたから、レシャは闇に落ちずに済んだ。
久しぶりに相対した父は変わり果て、見る影もなかった。
これが本当にあの父なのか。
厳しくも懐が深く、皆の尊敬の的であったあのレイダなのか。
引きずり出されたその男を見たレシャが抱いた感情は、得体のしれない者を前にしたような嫌悪と恐怖だった。
今思えば、いつか己もこうなるのではないかという恐怖を、父親のその姿に投影してしまっていただけだったのかも知れない。
「私は結局最後まで父上の顔を見ることが出来なかった……だが、記憶を奪い、それを読んだことによって全てが……全てが、変わったんだ、イルダ」
己の家族を見据え、レシャは喉を震わせた。
涙のあとが残る赤く潤んだ目を、イルダは静かに見つめ返す。
「何を見た、レシャ」
「父上の想いの全てを」
震える口元で微笑しながら、レシャは数え上げる。
彼の芯である揺るぎない忠誠。王家に仕える者であることの誇り。
そして、守らなければいけないものの数々。
王家の生き残りである王子と王女を守らなければいけないというレイダの思いは、息子たちの将来を憂いるが故のものだった。
ウォルグリア家の魔術師の力は大きいが、それ故に仕える主人を誤れば世界へ損害を齎すことにもなりかねない。
レイダはその未来を憂いていた。もちろんそれだけが帝国を出た理由の全てではなかったけれど、出奔した後もレイダはたびたびふたりの息子を思い、無事を神々に祈り続けていた。
「忘れられていたわけではなかったのだ。置き去りにされた事実は変わらない、でも父上は常に私たちの未来のために動いていた。
イルダ、私はそれが……とても嬉しかった。父上を憎まずに済んだことに、安堵した。そして真意を知ったからには、父の意志を継がなければならないと思った」
「レシャはレイダの記憶を奪ったのではない。受け継いだんだ。宮廷魔術師は代替わりの際、記憶の継承が行われる」
フェインは静かに述べる。
水蝕の魔術師の通り名を持つレシャは、そうして父親の半分を受け継いだ。
「半分……?」
「そう、半分だ。皇帝はレシャに記憶を奪わせる前に、イルダの〈水鏡〉の力でレイダの能力を移し取らせただろう」
フェインの静かな言葉に、イルダは目を茫然と見開く。
「確かに……それは、その通りだ。父上の知り得た魔術の数々を、私は……」
イルダに半分。レシャに半分。
レイダは双子の息子に半分ずつ、己の全てを受け継がせた。
確固とした自我を持つイルダには力を。
気が優しく揺らぎやすいレシャには芯となる意志を。
ふたりがそれぞれ、長所を伸ばし、足りないものを補えるように。
うめき声をあげ、イルダはその場で顔を覆った。
魔力を失ったイルダは、父親の残してくれたものを、もはや役立てることはできない。
「……そうして記憶を取り込んだことによって、父上の意志は私の一部となった。フェイン様を玉座に導き、本来在るべき私たちの居場所を取り戻すことが私の使命となった。
イルダ、私も必死だったんだ。父上の思い描いた未来は幸福だった。私はどうしてもそれを手に入れたかった。だが、イルダがいなければそんなものに意味はない」
「なぜだ……私はもう、何の力も使えない役立たずだ。父上の真意を知ったところで、いまさら……父の望んだように生きることなど……」
「それでもレシャは、君がいないと生きられないんだよ、イルダ」
あの日の己の迂闊さを思い出し、ブレスは強張った顔を俯けた。
イルダの胸に深々と突き刺さったナイフ、毒を飲んで倒れたレシャの虚ろな顔。
浮かんだ光景を振り払うように首を振り、ブレスは淡々と事実を述べる。
「レシャは君が自害をはかった日に、時を同じくして毒をあおった」
「オリビア様!」
傷ついたイルダにそれを暴露するのか、とばかりにレシャが勢いよく顔をあげ、非難の目でブレスを睨む。
イルダは血の気の引いた顔で、己に寄り添う兄弟を見上げた。
「……レシャ……嘘だろう……?」
「今までの話を聞いていたはずだ、イルダ。レシャの行動はすべて君とレシャ自身の幸福な未来を取り戻すためのものだった。
それがレイダ先生の望みだったから。だからこそ、君が欠けた未来に希望などない」
「……オリビア様の言う通り、私はあの日お前に……刃物を、わ、渡して……同時に人生の価値を失ったのだ、だから……っ」
「馬鹿なことを……!!」
恐怖に染まった目を見開き、イルダは震える声でレシャに叫び、襟首を両拳で掴んだ。
縋り付くように双子の弟の胸に額を押し付け、彼は喉の奥で手負いの獣のように呻く。
「私はそんなつもりでお前に頼んだのでは無い……! 足手纏いの裏切り者など切り捨て、フェインの作り上げた国で足枷なく生きて欲しかったから……ッ」
「勝手なことを言うな、ばか。馬鹿イルダ」
「馬鹿はどっちだ!!」
ブレスに言わせればどっちもどっちである。
ようやく分かり合えた双子が涙を浮かべながらも喧嘩を始めるのを見、胸につかえていた重い石が消えたような気がした。
ふたりはもう大丈夫だ。
一時はどうなることかと思ったが、イルダもレシャも、今回の出来事で一蓮托生だと身に染みて解ったはず。
イルダの魔力喪失の問題はあるものの、レシャがいる以上、もう無茶はしまい。
問題はフェインだ。
レシャの話を聞いて、ブレスにはどうしても腑に落ちない疑問が残った。
「……兄さん。兄さんは言いましたね。皇帝はイルダとレシャに半分ずつレイダの力を継がせたって。イルダの口からそれを聞いた時は、皇帝は酷いことを命じたものだと思いました。でも、兄さんの言い方ではまるで、皇帝はレイダ先生の意を汲んでそんな命令を下したように聞こえる」
ブレスの言葉に、イルダとレシャが息を呑んで沈黙した。
食い入るような目のふたりと、困惑するブレスの視線を一身に受け、フェインは静かに皆を見つめ返している。
「私たちに、隠していることがあるのではありませんか?」
息が詰まるような沈黙に響いたブレスの問いに、フェインは諦めと苦悩の混じり合った苦い笑みを浮かべた。