112話 絆が望ませたもの
レシャがイルダと会いたいと言っている。
この言葉を聞いたブレスは、進歩だ、と思った。
レシャはエトルリアでの一件以来、ずっとイルダとの接触を避けていた。
それはフェインも同じではあるが、フェインが己を裏切ったイルダと距離をとることはそうおかしなことではない。
本来ならばもっと早くに兄弟間のみぞを埋めてくれたほうがイルダのためには良かったのだが、レシャにも気持ちの整理というものがあった。
その整理が着いたからこそ、レシャは兄弟と向き合うことを決めてくれたのだろう。
「そうですか、それはよかった……! 早速ブルータイガー号に飛んで、イルダに確認をとりますね」
「良かった、か。本当にこれで良いのかな……」
ほっとしたブレスに対し、マリーはなにごとか懸念を募らせている。
ブレスが〈耳〉の前で首を傾げていると、マリーは不安を誤魔化すように「ま、返事を聞いたらまた連絡してよ」と言って通信を切った。
マリーは何を心配していたのだろう。
考え事をしながら、いつもと同じようにミシェリーを懐に入れようと手を伸ばす。
そこで思い出した。今の彼女は人型だ。
「……えっと、どうする?」
「なにが?」
「だからその、猫に戻るか、ここに残るか」
大きな金色の目のなかで、瞳孔が針のように細くなった。ちらりと見えた犬歯に本能的危機感を覚え、思わず一歩たじろぐ。
ミシェリーはそんな宿主を見て脱力し、もういいわ、と人型のまま船室を出た。
取り残されたブレスは途方にくれてエチカを見下ろす。
「……なんでいまミッチェ、怒ったんだ?」
「はあぁ、呆れた。嫌に決まってるじゃない、猫のままじゃなきゃ一緒に歩いてくれない男なんて。わたしがあの子の立場だったらフィルなんかとっくに振ってるわ」
「ええっ、そんな違うよ! だって猫じゃないと運んであげられないだろ!」
「あんたね……ミシェリーは妖精なんだから、多少は精霊を呼べるでしょ。手でも繋いでいれば、一緒に飛べるわよ。フィルはあの子をちょっと補助してあげればいいの」
「そうなの!?」
なんてことだ。だったらそうだと言ってくれればいいのに。
慌てて部屋を飛び出しミシェリーを負うと、彼女は少女の姿のままで船の縁に立っていた。
ブレスを振り返ったミシェリーは躊躇なく手を差し伸べる。
「わたし、耳はいいの」
意思の強い金色の目がまっすぐにブレスを見つめている。
本当に彼女には適わない。
「そっか。わかった、一緒に行こう」
くしゃっと笑いながら小さな白い手を握り返すと、ミシェリーは満足そうに目を細めて頷き、ブレスとともに縁を蹴って海上へと飛び立った。
イルダは少女の姿のミシェリーを見ても何も言わなかった。
ぼんやりとした目でちらりと見、それっきりだ。
木箱に凭れて退屈そうにしていたローレライは、ぱっと立ち上がって微笑む。対照的である。
「夜まで来ないと思っていたのに、私に会いに来てくれたの?」
「……あーうん、それも無くはないけど、用があるのはイルダのほう」
「つれないわねぇ。──あら?」
海の目がつっと動き、はじめてミシェリーを捉えた。
ローレライは張り付けたような笑みをそのままに、ふうん、と上から下までミシェリーを眺め、くすっと笑う。
「まあまあね。私の方が綺麗だけれど」
「負け犬の遠吠えが聞こえるわ。ああ違った、魚だったわね」
「うふふ。この糞ネコ」
ばちばちと火花を散らしているローレライとミシェリーを見ないことにして、ブレスはくるりと背を向けた。
どうしてこのふたりは顔を合わせるたびに睨み合いを始めるのか。
ため息を堪えつつ、檻のなかのイルダと向き合う。
ブレスは眉を顰めた。
いつにもまして、彼の顔には表情がない。
それだけではなかった。視線が虚ろで、何も見ていないのだ。
この世への興味や関心をすべて燃やし尽くしてしまったような横顔で、イルダは檻の隅に凭れている。
「イルダ、大丈夫か」
「……あぁ」
無感動な答え。もはやひとかけらの生気も感じられないその声に、心が凍り付くような思いがした。
イルダは限界だ。
毎日顔を合わせていたのに、話していたのに、どうしてこうなるまで気づかなかったのか。
否、違う。変化には気づいていた。
口数が減ったことや、怒りや苛立ちが希薄になったことに、気づいてはいたのだ。
ブレスがそれを、受容の段階にいるのだと、思い違いをしていただけで。
勘違いも甚だしい。
怒りを力に生きてきたイルダが怒りを失えば、生きる力を失うも同然じゃないか。
背後の喧噪が遠のく。ブレスは鉄格子に触れ、額を押しつける。
こんな檻、壊そうと思えばいくらだって壊せる。
(けど、でも。こんな状態のイルダを自由にしたら)
最悪の結果が頭を過ぎり、目を閉じた。
だめだ、いまは出来ない。
「イルダ、聞いてくれ。見なくていい、耳だけ向けてくれたらそれでいいから」
ぴくりとも動かないイルダに向けて、ブレスが出来ることは話しかけることだけだった。
「君の兄弟が会いたがってる。レシャが、君と話したいと言っている。レシャはずっと君を気にかけていたんだよ。ずいぶん時間がかかってしまったけれど、彼はやっと決めたんだ。だから会ってやってくれないか。話さなくてもいいから、レシャと。少しだけでいいから……」
言葉に詰まった。石のように動かなかったイルダの口元に、微かな笑みが浮かんだのだ。
レシャが来ると聞いて、安堵したかのように。
「イルダ……?」
「ああ、会おう。呼んでくれ」
イルダは微笑んでいる。だというのになんだろう、この不安を掻き立てられるような彼の纏う空気は。
「……わかった」
答えながら、〈耳〉を取り出してマリーへ返答する。
向こう側にいたらしいレシャが、静かな声音で「今から向かいます」と告げた。
甲板に降り立ったレシャの顔を見て、マリーの反応が芳しくなかった理由が解った。
イルダに負けず劣らずひどい顔だ。
数日はまともに眠れていないであろう隈、それなのに不自然に力のこもったその目の光。
覚悟だ。レシャは何かを決めてやってきた。
「イルダは、どこですか」
有無を言わせぬ口調に、ブレスは言葉を飲んだ。
何を話すつもりなのか、何を考えて現れたのか。
訊かなければいけないことは沢山あるのに、眼光の強さに気圧されて何も言うことが出来ない。
このレシャをあのイルダに会わせていいのだろうか。迷いが生まれる。
けれど、会わずに解決する問題ならば、イルダはあの状態になってはいない。
ブレスにも彼らにも、選択肢などない。
「……甲板下層部に」
わずかに目元をゆるめて微笑み、レシャは歩き始める。
その後ろについて歩きながら、ブレスは言いしれぬ不安を押し殺していた。
ドアを開け、光を閉じこめたままのランプを手渡すと、レシャは迷いなくイルダの檻に向けて歩いていった。
立ち止まったレシャを、イルダは静かな目で見上げている。
泣きだしそうに表情を崩したレシャが、痩せたな、と呟く。
イルダは同じ歳の兄弟に、疲れ切った苦笑で答える。
「こう長く閉じこめられれば、痩せもする」
「ああ……待たせてすまなかった」
「まったくだ。お前はいつも、決めるのが遅すぎる」
「本当にそうだ。私は……いつも迷って、頼って……」
「そうだな。だが、もういい。来てくれたのだから」
「……イルダ」
名を呟き、レシャは檻の前で膝を折った。イルダが側に寄り、その耳元で何かを呟く。
うつむいたレシャは一度震える唇を噛み、そして頷いた。
幾度かやりとりをし、レシャは立ち上がって沈黙する。
鉄格子を掴む兄弟の手に触れ、イルダは「もう行け」と静かな口調で促した。
レシャは縋るように兄弟の手を掴む。イルダは何も言わなかった。
やがてレシャは顔を俯けたまま、ブレスの横を大股で通り過ぎて去った。
同じように俯いたイルダが独り取り残されたその檻を、ドアの横でじっと見つめながらブレスは言う。
「また夜に来るよ、イルダ」
イルダは答えなかった。
ブルータイガー号の船の縁に腕をかけ、ミシェリーと並んで水平線を眺める。
ちらりと横目で見た少女の顔は、つまらなそうに冷めている。
「なあ、ミシェリー」
「……なによ」
不機嫌な声音。
「耳がいいって言ったな」
「……そうね」
「さっきのふたり、何を話していた?」
「それを聞くのは、反則なんじゃないの?」
「ミシェリー」
静かに、けれど意志を込めて名前を呼ぶ。
ミシェリーは微かに顔を歪め、「わたしに怒らないで」と弱々しく呟いた。
「わかったわ。言うから。お願い、やめて……怖いの」
ほとんど泣き出しそうな声だった。
思念が繋がっている彼女には、ブレスのなかでとぐろを巻く緊張や不安が直接的に感じられるぶん、感情の影響を受けやすいのだ。
妖精であるミシェリーにとって、人間の抱える負の感情は負担が大きすぎる。
深呼吸をしてどうにか感情を落ち着かせ、瞼を閉じ、ルシアナが返してくれた胸のなかの金色の星に触れた。
この星はいつもあたたかい。
冷え切っていた手足に温もりが戻る。
「ごめん、ミッチェ。怖がらせるつもりはなかったんだ」
ちらりとブレスを見上げ、彼女は頷く。
黒く長いまつげを伏せ、ミシェリーはため息とともにブレスの問いに答えた。
「レシャはイルダが死を望んでいることを知っていたの。会うときは最期の別れになると、お互いに解っていたみたい。レシャは刃物を用意すると約束したわ。お前がこの船にいない時間に、また来るって」
「……待ってくれ。おかしくないか?」
会うときは最期の別れ。
だというのに、また来るって?
ブレスははっと息を飲み、来た通路を全力で駆けて戻った。ほとんど体当たりをしてドアを破り、部屋に飛び込む。
ローレライが立っていた。微笑みを絶やさない彼女が無表情に、茫然として、駆け込んできたブレスを見てその指先ですっとイルダの檻を指し示した。
檻の中でイルダが倒れている。苦しげなうめき声と咳、喘鳴とともに吐き出される赤い血の泡。
胸に深々と突き刺さったナイフを見て、血の気が引いた。
「この子、胸を……心臓を突こうとしたの……私、咄嗟に声を放って刃をそらして……でも、肺に刺さってしまった」
「ローレライ、ありがとう。それで良かったんだ。ミシェリー、〈耳〉でマリー様とネモ様に状況を説明して。それからレシャから目を離さないように伝えて」
思い詰めたレシャが何を考えるかなんて、他人であるブレスにさえ解る。
鉄格子に〈腐食〉を刻印し、もろくなったそれを思い切り蹴っとばして破壊すると、ブレスはイルダの胸に刺さったナイフを掴みもう片手で胸に触れた。
「や……めろ、余計な、ことを……ッ」
「うるさい、黙っていろ! 動くな!」
抵抗するイルダに言霊をかけて縛る。ビクリと身体を震わせたイルダはしばらく抵抗しようと震えていたが、やがてひどい顔色で動かなくなった。
酸欠で気を失ったのだ。
「ねえ、その子……死ぬの?」
「死なない。ナイフを抜くのと同時に肺に〈治癒〉を刻印する。ローレライ、もし彼の呼吸が止まったら息を吹き込んでやって。血を吐くだろうから、顔は横向きにしておいて」
「サハナドールと連絡がついたわ。レシャが服毒して倒れたそうよ」
「遅かった……ッ」
悔しさで視界が歪む。見ていたのに、気づかなかった。
あの時、檻の前でレシャが膝を折り、イルダがレシャに近づいた時に、すでにナイフはイルダの手に渡っていたのだ。
会話はローレライやミシェリー、ブレスを騙すための嘘だった。
そしてレシャは、己の兄弟をたった独りで逝かせるつもりなど、初めからなかったのだ。
「向こうに戻る。ローレライ、彼を頼む。俺の〈耳〉を置いて行くから、なにかあったら言ってくれ」
壊れた檻をこえてイルダの近くに膝をついたローレライを背に、ミシェリーと共に空を加速して戻る。
強ばった顔のエチカが、ネモの指示に従って甲板を走っていた。
「ネモ様、私も手伝います。レシャは何を飲んだんです。何をすればいいですか」
「倒れる前の症状を鑑みるに恐らく神経毒の類いです。呼吸が弱い。既に意識がないので複数の薬物を飲んでいる可能性が高いですね。何の毒にせよ肝臓や腎臓がやられる可能性がある。その前に呼吸不全や心不全で死ぬかもしれませんが」
「だからどうすればいいんですか!!」
「落ち着きなさい。要は臓器を守りながら呼吸を確保すれば良いのです。体外に毒物が排出されるまで命がもてば、一応彼は助かります」
それはそうだ。ネモの低い声と鋭い目に冷静さを取り戻し、ブレスはレシャの腹部と額に手を当てる。
体中の臓器に〈治癒〉と〈蘇生〉を刻印したところで、エチカが水と炭を持ってきた。
無理矢理水を流し込み、ネモが魔力で胃に流れ込んだ水を動かして吐かせる。
幾度かそれを繰り返した後、粉末にした炭を水で溶いたものをゆっくりとレシャの喉に流し込んだ。
意識がなく嚥下できなくとも、魔術師は水を動かすことには慣れている。
流し込んだものが喉につまらないように食道の上を辿るネモの手が、魔力を纏って淡く発光している。
腸に流れてしまった毒を炭が吸着してくれれば、肝臓や腎臓の損傷も少しは抑えられるはずだ。
「私の側近が呼吸器を持ってきていますから、シルバーホースまで彼を運びます。青年、手伝ってください」
「はい……ッ」
「後悔は後になさい。そんな役に立たないもの」
ネモが正しい。奥歯を噛みしめ、ブレスは顔を上げる。
ネモと二人でレシャを抱え海上を飛び、シルバーホースに降り立つと、〈耳〉で状況を把握していたネモの側近たちは速やかにレシャの身柄を引き取った。
「あなたのせいではない」
顔を歪めてレシャを見送るブレスにそう言い残し、ネモは側近たちと共に船室へこもってしまった。