111話 仕える者たち
翌朝は晴れ。朝焼けの海上をシルバーホース号に向けて飛んでいると、隣にエチカが並んだ。
「おはようフィル」
「うん、おはよう」
「昨日のこと、聞いたわよ。マリー様に」
呆れ混じりのエチカの口調に、ブレスは苦笑を浮かべる。
マリーはローレライの件をエチカに愚痴ったのか。
「前から思っていたけれど、フィルって人間じゃないものとの縁が繋がりやすいわよね。カナン先生とのこともそうだし、マリー様も、その猫妖精もそう。ルーチェはブランだったころからフィルにべったりだったし、今度はローレライでしょう」
「別に俺だけじゃないよ。魔術師の魔力は魔物にとっていい餌だから、一時的に使役に下りたがる夜の生き物は多いだろ。それに先生と出合ったのは、春の君がそうさし向けたからだ」
「フィルがウォルグランドの子だったから、よね。わたし、ずっと不思議だったのだけれど……春の君がカナン先生とお前を出合わせて、お前をフェイン様のところへ導いて、フェイン様がウォルグランドの新たな王となったとして。
春の君は何を望んでそんなことをしたのかしら。春の君が歴史を動かしている理由は、いったい何なの?」
「うん……それは俺も、ずっと考えてる」
そもそも春の乙女プライラルムの画策で、フェインは本当に王位を得ることが出来るのだろうか。
物事の過程で、カナンの神格を失わせることが目的であったということはないだろうか。
もしくは、ウォルグランドの血を絶やすために血族を一カ所に集め、まとめて帝国に殺させることが、望みなのではないか。
疑い始めればきりがない。引き返すことが出来ない以上、ブレスたち人間は女神の起こす時代の波にもまれるだけだ。
ただ翻弄されて海の藻屑となるか、それともなんとか乗り越え、波を乗りこなすことが出来るかは、最終的にはこちら次第ではあるのだろうけれど。
「先生は人間の考え方がわからないって言っていたけど、結局俺たちも同じだよな。女神の望みなんて解らないよ」
「ええ、本当にそうね」
もはや少女ではなくなった、年相応に成長した物憂げな横顔で、エチカは不安そうに呟く。
「離れているウォルフやデイナも心配だわ。彼らが巻き込まれることが、いちばん怖い」
「……ああ」
ブレスが帰る場所。シルヴェストリの協会のある町を思い、いっとき目を閉じる。
ずいぶん遠くへ来てしまったものだ。
無事を祈ることしか出来ない現状が、もどかしかった。
シルバーホース号に戻り、ハーブや葉物野菜の苗の調子を確かめながら鉢植えに水をやる。
鶏が生んだ卵を回収した後は、一日分の兵士たちの飲み水を樽に満たす。
そうこうしているうちに船乗りや兵士たちが起き出してきて、各々の持ち場に着き、船や武器の点検やら各船との通信やらで甲板は賑わう。
ブレスは彼らと挨拶を交わしながら、〈誘引〉を刻印した網を海に投げ込んでマアジやカンパチを捕らえ、自分用に一匹をほふり、生きたままの数匹は海水をすくった樽の中に、残りは調理場へ預ける。
自分で食べるものは自分でほふることが魔術師たちの習慣なので、ネモやフェインたちのために生かしたままの魚をわけておくのだ。
調理場で塩焼きにしてもらった肉付きのいいマアジを香草と一緒に食べていると、空が青く染まり、ネモが部屋から顔をだす。
起床時間はブレスとそう変わらないが、責任者であるネモは身支度に時間がかかるため、部屋を出てくるのは少々遅めだ。
「おはようございます、ネモ様」
「……はい。おはようございます」
挨拶を交わせば疲れた声が返ってきた。
いつものことではあるものの、今日の疲労は昨晩のローレライの一件があったためだろう。
とはいえ、わざわざ面と向かって苦情を言うような男ではない。
ネモがのそりとした動作で樽から魚を選び、ナイフでひと突きしてしとめると、側近の若者がそれを調理場へと運んでいった。
晴れの日の、いつも通りの朝である。
各線との定期連絡を終えたネモが食事につくのは昼。
冷めた魚料理をあたためなおしてちまちまと食しながら、西大陸の地図とにらみ合い、時折ぶつぶつと独り言をいいながら策を練る。
「ネモ様、せめて食事の時くらいはお休みください」
見かねた側近頭が机上から地図を取り上げると、「ああっ」と声を上げてネモは痩せた腕を伸ばした。
「返しなさい、ケルビム。見えそうで見えなかったものが、いまようやくこの辺りに」
と言って己のこめかみの辺りを指さすネモに、側近たちはそろってため息を吐く。
彼らは長いことネモに仕えているが、何年経っても主の言っていることの半分も理解できない。
「いけません。食事を終えて仮眠をとって頂かなければ、これはお返しできませんよ」
「先日倒れられたばかりなのですから、もっとご自愛くださらなければ」
地図を取り上げた側近頭ケルビムの援護にまわったのは、ナルクスとノーラルド。
三人の側近に一度に諫められ、ネモは諦め顔で地図を求めて伸ばしていた腕を力なく下ろす。
仕方なく魚をつつきながら、ネモはふと目を伏せた。
仕事を取り上げられてしまうと、どうしてもこの場にいないもうひとりの側近のことを考えてしまう。
ローレライの呪いを受けて自制心を失っていたとは言え、己の手で危うく殺してしまうところだった若者のことを。
「……リュトスの怪我の具合は、どうです」
「カルベネが付き添って看ていますので、ご心配なく。傷は塞がっていますし、熱も下がりました。貧血が収まれば、復帰出来るでしょう」
「そうですか」
「ああ、そういえば私、リュトスから伝言を預かっていたのでした」
と言い出したのはノーラルド。
はっと顔を上げた主にノーラルドは少々おどけた様子で、若く生真面目なリュトスの真似をして見せる。
「頼むから食事を三食……きちんと三食とって下さい……私が復帰した時にネモ様がまた痩せていたらと思うと、おちおち寝てもいられませんのでっ……だ、そうです」
ぺこりと頭を下げたノーラルドの後頭部を、ケルビムが丸めた地図でぱこんと叩いた。
ナルクスはその隣で笑いを堪えつつ、「無礼だろうが」とノーラルドの足を踏んでいる。
「……三食は厳しいので、ひとまず二食で許してくださいと伝えて下さい」
「はい、ネモ様」
微苦笑を浮かべるネモに、応えたナルクスが一礼して部屋を出る。
ため息に肩を落としたネモの背に、ケルビムは穏やかに語りかけた。
「あまり気に病まれますな。リュトスはおのが役割を全うしたのです」
「そうですとも。褒めてやってくださいよ、ネモ様。自分が未熟だったばかりに傷を負ったせいで主人が凹んでいると知ったら、リュトスがどんな顔をするやら」
ノーラルドの軽口に、「処置無し」と諦め顔で首を振るケルビム。
ふたりのやりとりとに苦笑を深め、ネモはおとなしく銀食器を手に取った。
魚を食べ終わった頃に戻ってきたナルクスが、ドアを開けるなり告げる。
「三食が無理なら合間に軽食をとって下さい、だそうです」
「……リュトスはまるで下町の母親のようですね」
ネモの呟きを聞いたノーラルドが吹き出し、大声で笑った。
ネモの遠征に着いてきた側近は五人。
側仕え筆頭であるケルビムが、長旅に耐えられそうな者を選んだ。
皆それぞれなにかしらに秀でている有能な一面を持ちながら、傲らず忠誠心の厚い彼らは、従者であると同時に友であるとネモは思っている。
最もつきあいの長い側近頭のケルビムは人を纏め上げる能力に秀でている。
人望厚く管理能力に優れ、ネモの側近たちはケルビム抜きではたち行かない。
ノーラルドは十年前にエトルリアの王都が移された際、スティクス領の騎士志願者の中からケルビムが引き抜いた男だ。
剣の腕が立ち、陽気で笑い絶えず、面倒見が良いので年若い者からは兄貴分として慕われている。
ナルクスはノーラルドの幼なじみであり親友だ。幼い頃からノーラルドの大ざっぱな面を補ってきた彼は、目端のきく慎重な性格で、異変あらば獣のように鼻が利くため、危機を察知する能力に長けている。
カルベネはスティクス候の衛生兵のなかで最も学のある人物だった。穏やかな気性でありながらけして物怖じせず、いついかなる時も冷静沈着。
側近たちが一通りの学を身につけているのはカルベネの教育のたまものである。
そしてリュトス。二十四歳にして同行を許された彼は、燃えるような忠誠心を持った若者だ。
生真面目で義に厚く、ネモを心から慕っている。
ノーラルドに剣の稽古を受け、ナルクスの観察眼から学び、カルベネからあらゆる物事を吸収したリュトスは、もう数年すればさぞかし優秀な側近となるだろう。
その若さ故、とっさの判断を誤ることがままあることは、欠点ではあるものの。
他にも長旅に着いて来たがった使用人は大勢いた。
なにしろ戦に負ければ、いや勝ったとしても、第一陣として送り込まれるネモたちは生きて帰れる可能性は高くはない。
屋敷に残される者たちは今生の別れとばかりにネモの出立を惜しみ、嘆いた。
本来の館の主であるアナクサゴラスが居心地の悪そうな顔をするほどの彼らの想いを背負って、五人の側仕えはこの遠征に同行している。
ネモは、側近たちの覚悟を引き受けている。
例え己が死んだとしても生かして帰す。
互いにそう思い合っているが故に、彼らの絆は強いのだ。
──そんな彼らの関係をここ最近で知ったブレスは、思うことがある。
兄であり、これから新たな王としてたとうとしているフェインは、本来主君として持つべき何かが欠けているのではないだろうか、と。
「仕方ないことだと思うけれど。お前の兄は、幼いころに王族としての教育もされずに捕虜となってしまったのだから」
「それは……まぁ、そうなんだけど」
船室で指輪や腕輪に刻印しつつ、思っていたことを打ち明けると、ミシェリーは豊かな黒髪にブラシをかけながらこともなげに答えた。
彼女の言葉は正しい。フェインは王族として育ったけれど、それは悪い意味での話だ。
敵国に人質として生かされていた期間に、兄が然るべき教育を受けていたはずがない。
「でもレシャやイルダは、たぶん幼い頃からレイダ先生に主君に従うことについて言い聞かせられていたと思うんだ。だからレシャは、無条件で兄さんを助けてくれる……でも、それってなんというか、長続きしないと思うんだよ」
一方通行の忠誠心は報われない。イルダは彼の父であるレイダを見てそれに気づいてしまったから、フェインから離れてしまったとも言えるのではないか。
臣は奴隷ではない。主従は上下関係ではあるけれど、信用の上に成り立っている。
己が信じるに足る主人であることを、フェインはレシャに、示し続けなければならないのだ。本来ならば。
「でも、王族として生きるつもりはないって宣言している俺が、しゃしゃり出ていくような問題じゃないような気もするしさぁ」
「個人的な問題だものね。兄としての矜持もあるでしょうし」
「そうなんだよ。……ところでミッチェ」
首を傾げてブレスを見上げるミシェリーは、少女の姿をしている。
「どうして人型をとっているんだ?」
「……どうって別に。わたしは人型になりたいときは人型になるわ」
「うん、それはミッチェの自由だけど。なんというかその、落ち着かないというか、そわそわするというか……」
微妙に目をそらしたブレスを見、ミシェリーは剣呑に金色の目を細めた。
ヘアブラシを置くと、さらさらの黒髪を揺らしながら歩み寄り、ずいっとブレスに顔を近づける。
「っ……!」
「お前……猫の時はわたしの体中好き放題に触るくせに、この姿だと目も合わせられないわけ?」
「す、好き放題触るってなんだよ! まるで俺が変態みたいじゃないか!」
「あぁら、わたしは事実を言っているだけなのだけれど」
「黒猫を撫でるのと女の子に触るのじゃ人間の俺からしたらぜんぜん実感が違うんだってば!」
「どっちもわたしよ!」
「知ってるよ!」
「……ちょっと、なに痴話喧嘩してるのよ」
気づけば薄く開いたドアから、エチカの半眼が覗いていた。
ブレスは慌てて立ち上がりつつ、ノックくらいしてくれよと苦情を言う。
「したわよ。というか、さっきからずっとマリー様がフィルに〈耳〉で話しかけているんだけど、全然気づいていないんだもの」
「ええっ!」
「だから私が見てくるように言われたのよ。まったく、わたしはウォルフと離ればなれだっていうのに、昼間っからいちゃいちゃいちゃいちゃ……チッ」
エチカの怨嗟を聞きながら、動揺してもつれる指でマリーに繋がる〈耳〉を引っ張り出す。
「あーもう。やっと出てくれたの」
「すみませんマリー様、ちょっと立て込んでいまして……」
「痴話喧嘩してたわ。ミシェリーと」
「エチカ! 余計なこと言うなよ!」
「えー、なにそれ面白そう、あとで教えてエチカ。で、連絡した用件なんだけどさぁ」
隙あらば〈耳〉に言葉を吹き込もうとするエチカと攻防しつつ、マリーの言葉を聞くことによると。
「レシャが、イルダに会いたいって言ってるんだよねぇ」
〜ネモの側仕えたちまとめ&イメージ〜
ケルビム…まとめ役のベテラン、穏やかな狼。
ノーラルド…陽気、剣を持たせれば虎。
ナルクス…気のきく細やかな伝書鳩。
カルベネ…冷静で賢いフクロウ。
リュトス…若く生真面目なシェパード犬。




