110話 乾いた密航者
イルダの様子がおかしい。
それはマルメーレより出航し、二日が経過した夜の、とある見張り番の兵による報告だった。
島で買い込んだ装飾具に刻印をしていたブレスは、〈耳〉を通してネモから聞いてそれを知り、現在、はてと首を傾げている。
「どうして私に教えてくれたんです? イルダの主君は兄さんでしょう」
「そうですね。ですが現状、最も彼が気を許しているのが、あなたなので」
様子を見てきてくれないか、とネモは言う。
どうせ夜になれば訪ねるつもりであったので、ブレスはいちもにもなく頷いた。
船室を出ると海は大荒れだった。部屋をでる前から解ってはいた。
大波にゆられてざぶんざぶんと揺れるので、指輪や腕輪が散らかって仕方がなかったのだ。
「行くのはいいんだけど、びしょぬれになるなぁ。ミッチェ、こういうときのための水を避ける魔術とかってないのか?」
『風を纏うといったって、上も下も水じゃあね。魔術師の黒ローブはこういうときのために防水なんじゃニャいの』
「そうだよな。それっきゃないか」
濡れたら風を呼んで乾かせばいい、というのは晴れの日の話。
呼んだ風が湿気っていては、当然着物は乾かない。
ブレスは大雨を諦めて黒ローブのフードを被り、懐にミシェリーを入れて帆を畳んだ船の縁を蹴って飛び立った。
ブルータイガー号に乗船する一同はすでにブレスを見慣れている。
黒マントのフードを脱いで顔を晒し、彼らと挨拶を交わして甲板下の地下室へと直行するが、もう用件を訊ねられることも無い。
びしょぬれの黒ローブをドアの前で脱いで雨水を振り払っていると、ふと物音がした。
珍しいことだ。檻のなかのイルダは猫のように物静かなのに。
「……ミッチェ、なんかいま……」
『そうね、居るわね』
なにが? とは訊けなかった。ミシェリーが雨であることも相まって不機嫌だ。
障らぬ猫に祟り無し。くだらないことを考えながらブレスはドアを開ける。
いつもは無気力に横になってうずくまっているイルダが、今日は体を起こしていた。
見つめ返す彼の色あせた青い目が、気だるげにブレスを捉える。
「イルダ、いま誰かと話していた?」
「……お前が寄越した女ではなかったのか」
「女って?」
イルダが視線を向けた先にあったものは、木箱の山。
この甲板下二層は本来倉庫として使われている場所だから、雑多な積み荷が山となっている。
無言のままその木箱の山に歩み寄れば、ちらりと見えたのはあの珊瑚色の長い髪。
「ロ、ローレライ?」
「……はぁい、数日ぶりね、赤毛の坊や」
ひらりと手のひらを上げた彼女は、天日干しにされた魚のごとく、かさかかさに干からびかけていた。
せっかくの美貌もかたなしである。
どうしてローレライがブルータイガー号に乗っているのか。
訊きたいことはたくさんあるけれど、とりあえず水気を失って弱りかけている彼女のほうをどうにかするのが先だろう。
水を呼ぶことは簡単だったが、真水を呼びかけたブレスを見て彼女はたじろいでしまった。
塩水でなければ受けつけないらしい。
仕方がないので彼女を倉庫から連れだして、雨ざらしの甲板へ連れて行く。
乗組員たちは彼女を見てぎょっとしたけれど、ローレライは気にした様子もなく大荒れの海に飛び込んでしまった。
「大丈夫なのかな。彼女、泳ぐのは得意じゃないはずなんだけど」
『知ったことじゃニャいわ』
ミシェリーが冷たい。
綺麗な毛並みを濡らすのは気が引けるので、イルダの閉じこめられている甲板下へ引っ込みつつ、彼女を待つことにした。
ローレライはすぐに戻ってきた。
人間を翻弄する荒波も、海の眷属である彼女には風のようなものなのか。
すっかり肌の張りを取り戻し、濡れた美しい髪を背中に流しながら、「待たせたわね」と微笑む。
「え、ああ……うん」
おざなりに答えながら、ブレスはどうしたものかと困り果てた。
ローレライが密航者よろしく勝手に乗船していただなんて、いったいなんてネモに報告すればいいのやら。
……ええい面倒だ、とりあえず報告は後回しにしよう。
引き返すことは出来ないし、ローレライに戻る気が無いのならばどうしようもない。
どうしようもないことを悩んでもどうしようもないのだ。
不機嫌にしっぽをうねらせる黒猫を抱き、ブレスはひとまずイルダの檻の前にあぐらをかいた。
小鳥のように可憐な仕草で小首を傾げながら、ローレライも床に座った。
へんてこな正三角形の距離で、イルダが迷惑そうに金髪に指を突っ込む。
「イルダの様子がおかしいって報せを受けて来たんだけど、じゃあそれって、ローレライのせいだったってこと?」
余計なことを、と乾いたイルダの唇が動く。
ローレライの笑みが深まる。ブレスはため息をついた。
「イルダ、妙なことを吹き込まれたりはしなかった?」
「あら、信じてくれないの? わたしはただ、彼とお話していただけよ」
「ううん……貴女の場合は、その声が問題ですからね……」
「彼は大丈夫よ。血が濃いもの」
「血が濃いって?」
あら知らないの、と彼女は頬に手を添え、艶っぽく小指を咥えてみせる。
ミシェリーの荒ぶる思念が針のように突き刺さるのを感じ、ブレスは頬をひきつらせた。
頼むからミシェリーの神経を逆撫でするような言動は慎んで欲しい。
「血が濃い子っていうのはねぇ、いろんな要因が重なって稀に生まれるのだけれど。かんたんに言えば、私たちのような生き物と親和性が高い子のことをいうのよ。
人間ではあるけれど、こちら側にも属している……いえ、むしろどちらにも、何にも属していないのかしら。だから異質な魔力に肉体が拒絶反応を起こすこともなく、するりと通り抜けてしまうのかしらね?」
「……ごめん。悪いけど、まったく意味がわからない」
『要するにお前と同じってことよ』
つんと顔を背けたまま、ミシェリーが不機嫌に言った。
『ネモには効いたこの女の声の魔力が、お前には効かなかったでしょう。イルダもお前と同類なのよ。ついでに言うなら、お前の兄も」
「じゃあレシャも?」
『あれも一応はそうね。イルダより親和率は低いけれど』
「へえ……」
「ねえ。私にわからない人間のお話を、しないでくださる?」
にっこりと微笑むローレライの笑みが怖い。
ミシェリーがとうとう牙を剥いてうなり始めた。女同士で謎の戦いが勃発している。
ため息を吐きつつ黒猫の眉間を撫でながら、ブレスはイルダに目を向けた。
「それで、ローレライはなんて?」
「別に。お前のことを訊かれたくらいだ。それから航海の行き先と」
「ローレライ、一体どういうつもりでそんなことを訊ねたんだ?」
「言わなくてもわかるでしょう? 意地悪ね」
「……わからないから訊いているんだけど」
答えを聞いた彼女は海の目をわずかに見張り、沈黙すること数秒。
ブレスを見つめ、イルダを見、ミシェリーを見、ローレライはなぜか動揺の表情を浮かべた。
膝の上でミシェリーが勝ち誇ったようにフスンと鼻を慣らす。
女の戦いはミシェリーの勝利で終わったようだ。
「わ、私は……ええと、そうね、そうだわ、お母様に着いていくように言われたのよ。助けてもらったのだから、力になってあげなさいって。ほらそれに、お父様のことで協力してもらったことへの対価を、支払えなかったじゃない?」
本当だろうか。白人魚のマルガリーテースは娘をよこすだなんて一言も言っていなかったけれど。
ブレスのじっとりとした視線を受けて、ローレライは目をそらす。
苦し紛れの嘘にしか思えないが、悪意があって着いてきたわけではないようだから、ひとまずは彼女の言葉を飲むとして。
懐からネモ直通の〈耳〉を取りだし、ブレスは魔力を流す。
「エミスフィリオです。ネモ様、イルダの件ですが」
「はい」
応答が早い。内心の躊躇いをごまかし、努めて淡々とブレスは報告を述べる。
「どうやらローレライが甲板下に忍び込んで閉じ込められていたようで、イルダは彼女と話をしていたようです。見張りの兵の報告は、恐らくそれによるものかと思われます」
「…………」
「ネモ様? あの、聞いていらっしゃいます? もしもし?」
ぷつん、と音を立てて通信が途絶えた。
反応がない。ただの屍のようだ。
どうしたものかと〈耳〉の石を見つめていると、途切れた通信が復活した。
ひきつったネモの声が「けしてそれを甲板下から出さぬように」と答える。
「……命令に応じたいのは山々なのですが、彼女、長らく海から離れるとカサカサに乾いて干からびてしまうようなんですよ」
「だったらさっさと海に放流してしまいなさい! 無駄な命は摘まない! 希少な魚は釣っても海に戻す! 常識でしょう!」
「お、落ち着いて下さい。そもそも釣ってないです」
〈耳〉の向こう側でネモが取り乱している。
側近たちの宥める声がこちらにまで聞こえてくるのだから、相当である。
「エミスフィリオ様、申し訳ございませんがネモ様が落ち着き次第、折り返しご連絡いたします」
側近のそのひとことによって今度こそ通信は途絶えた。
微妙な沈黙が場に流れる。
「ええと、私、ずいぶん彼に嫌われているみたいね?」
「当たり前だろ!」
どうしてかしら、と言わんばかりの彼女の言いぐさに、思わず声を上げる。
ネモに人魚の呪いをかけておいて何を言っているのだ。ブレスは頭を抱えた。
彼女は厄介だ。まるで善悪の区別がつかない幼子のよう、けれど持つ魔力は強力で、己の力を使うことに躊躇いがない。
「……ローレライ、この船に乗っていたいのなら声の魔力を使わないようにしないとだめだ。
箱に詰められて、干からびるまで閉じこめられるなんてことにはなりたくないだろ?」
「それはそうね」
少々気落ちした様子でおとなしく頷いた彼女に嘆息し、ブレスは思った。
彼女には教育が必要である、と。
取り留めのない話をイルダに聞かせながら待つこと一時間、〈耳〉からようやく返答があった。
「えー……先ほどは失礼を。取り乱しまして」
「いえ、無理もないかと……」
様々な感情を押し殺したネモの声が、いかにローレライと関わりを持ちたくないかを雄弁に物語っている。
そういえばマリーもローレライを忌避していたっけ。
軍隊の頭ふたりが嫌う生き物を、航海に同行させるというのは相当に困難なことなのではないだろうか。
「秋のお方と話合った結果、ローレライをブルータイガー号から動かさないという条件下であれば、居てもかまわないということになりました。ですので、ローレライの件につきましてはあなたがしっかり監督するように」
「わ、私が?」
「どうせ彼女はあなたに着いてきたのでしょう。責任をとりなさい」
「うっ……わかりました……」
話を聞いていたローレライはつまらなそうに白い脚を組んだ。
纏うものと言えば白い薄衣の簡素なワンピース一枚、しかもその衣服は海水に濡れて透けている。
艶めかしくて目のやり場に困るので、彼女には人間用の服を着てもらうことにしよう。
「いいですね、絶対にローレライを自由にさせないように。解っているとは思いますが、歌うのも話すのも禁止です」
「周囲に人が居なければいいでしょう? ずっと黙っていろだなんて、それはいくらなんでも人魚の血を引く彼女には酷ですよ」
「勝手に着いてきたのは彼女です。嫌ならば帰れば良いでしょう──と言いたいところですが、まあ、あなたが周囲に害がでないように計らうのならば許しましょう。特別に」
「ご配慮、感謝致します」
これでも最大限譲歩してくれたんだからな、とローレライを横目で見ると、彼女はわかってるわよと肩をすくめる。
理解しているのならばいい。
状況を逆恨みして、ネモに害を加える気がないのならば問題はなかろう。
「ローレライは私が知らないことを沢山知っているでしょうから、監督ついでに色々学ばせて貰うことにします。きっと役に立つ知識もあるでしょうから」
「あー……そうですね。あなたがそうしたいのなら、そうなさい。どうぞご自由に」
〈耳〉の向こう側で、ネモがあきれ混じりに匙を投げたのがわかった。
通信が切れる。
「……じゃあ、イルダには悪いけど、しばらく彼女をここに匿うことになったから」
「よくってよ。私は彼、わりと気に入っていることだしね」
彼女の意見は今は訊いてはいないのだが、それを言うとまた余計な諍いを生みそうである。
イルダは鬱いだ暗い顔で、ああ、と短く呟いた。