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109話 置き土産と出港

 

「どうしてぇ……」


 目の前でマリーが唸っている。


 困り果てた彼女の様子につられて、ブレスの眉まで下がってしまう。

 うう、なんでそんなことになっちゃったの、と額をおさえるマリーは涙目である。


 事の経緯はこうだ。

 今朝になり、昨夜起きたことを話すべきか話さないでいるべきが迷っていると、寝泊まりしていたシルバーホース号にマリーがやってきた。


 ただ単におはようの挨拶をしにきたらしい彼女はしかし、ブレスを見て目を剥き、顎を外し、真っ青になって船上の限界まで後ずさりしてしまったのだ。


 飛びついて抱擁をかまされることはあっても、避けられたことはない。


 ショックをうけて棒立ちになるブレスと雷に打たれたような顔のマリーの間で、ネモがわけもわからずおろおろし、エチカはマリーに寄り添い、フェインは弟の横についた。


 騒ぎを聞きつけて集まった、操舵手サドと船員一同は思った。

 まるで男ふたりが美女ふたりに狼藉を働いているかのような有様だと。


 しかしその誤解はマリーのひとことによって解かれる。


「なんで……なんでフィーに兄上の(しるし)がついちゃってるの……」


 この言葉を聞いたネモがまず真っ先に状況を理解した。

 ネモは毎日欠かさずに神々に祈りを捧げるほどの敬虔な信徒である。

 サタナキアとその子等の伝承のたぐいには人一倍詳しい。


「あー……皆、職務に戻るように。秋の君と青年は私の部屋へお出で頂けますか。私、一応責任者ですので」


 状況を正確に把握しておく義務がある。


 ネモのその言葉にブレスはしょんぼりと頷き、マリーは視線をさまよわせた末にぎこちなくカクカクと首を振った。

 そして今に至る。


 とりあえず茶でもどうぞ、とハーブティーをいれるネモを挟み、マリーはうなだれ、ブレスは落ち込んでいる。

 おかしい、なにも悪いことなんかしていないというのに。


 嫌われてしまったのだろうか、とちらりと視線をあげると、こちらを盗み見ていたらしいマリーが慌てて視線を逸らした。ぐさりときた。


「……マリー様……」

「あ、あの、あのね、フィーはべつに悪くないんだよ、ただそのぉ……んああ……ちょっと生理的に受け付けないというか」

「!!」


 ものすごくぐさりときた。致命傷だ。もう立ち直れないかもしれない。


 傷心でずきずきと胸が痛む。あふれ出した負の感情が、余計なことをしたらしいヘリオエッタへの恨みとなって渦巻きはじめた。


(おのれヘリオエッタ……いったい何をしてくれたんだ。というかこの調子で先生にも嫌われたらどうしよう。徴を付けられたってなんだよ。もしかしてこれ、弟子失格なんじゃないか? 師弟でなくなったらいったいなにを指標に生きていけばいいんだ)


「わああ、やめて、だめだよフィー! 兄上に敵意なんかむけたら瞬殺だよ、塵も残らないよ、お願いだからやめて、エッタは話が通じないんだから!」


 ブレスの負の感情を察知したマリーの、必死なその言葉で我に返る。

 そうだ。その通りだ。

 彼は絶対に怒らせてはならない存在だ。

 逆らってはいけない。


 気持ちを落ち着かせようと膝の上の黒猫を撫でくり回しつつ、ブレスは深呼吸をし、マリーを見る。


「それで、徴ってなんなんですか?」

「夏のお方は、己に仕える価値ありと評した者に、特別な徴を残して行かれるのですよ」


 答えたのはネモだった。彼はひとり冷静な顔で、ゆっくりと茶を啜っている。


「触れられたのではありませんか。昨晩、それらしきお方か、その遣いの者に」

「……それらしきお方というか、間違いなくご本人でしたね。マリー様の仰る通り、理不尽で話の通じない乱暴なひとでした」

「あたしそこまで言ってない!」

「ついでに言うとあのお方、表情筋がほとんど死んでおられました。機嫌が読めなくて無駄に怖かったです」


 泣きそうな顔で反論するマリーを尻目に、ブレスはため息を吐きつつ己の肩に触れる。


「肩を踏まれて骨にヒビをいれられたあと、頭を鷲掴みにされて体の不調をすべて治して頂きました。それはありがたかったですけど、帰り際にも足蹴にされました。それで」


 大げさで分不相応な名前をもらったことはとばすとして。


「古代の生き物、(タツ)に乗って去って行きました。まだ存在していたんですね、龍なんて。龍って雨雲を呼んで雷を落とすんでしたっけ? だからヘリオエッタ様の冠は風雷なのですか?」

「あなた、海底で人魚の歌を聞いた後に、その上そんな濃厚な夜を過ごしたのですか。なんと羨ましい……」


 ネモの言葉を聞いて少々頭が冷えた。たしかに客観的視点で振り返れば、魔術師としてはなんとも充実した夜である。


「考えようによっては、貴重な体験でしたね」

「ええ、まったくです。夏のお方に足蹴にして頂けたなんて、さぞや甘美なひと時でしたでしょうとも。ああ、神々のおみ足……」

「そこですかっ!?」


 うっとりとなにかに想いを馳せているネモの目は、ちょっとどころではなく理性を失っていた。


 ここのところカナンがいないせいですっかり失念していたが、この男はカナンの湯浴みを美術品のように鑑賞して満足げに失神するような、変態的一面を持ち合わせている。


「え、なに、ネモ、踏んで欲しいの? あたしが踏んであげようか……?」

「おお!」

「おおじゃない! マリー様も変な気を使わないで下さいよ! 話を戻してください、話を!」

「ああ、そうでしたね。ではご褒美はまたの機会にしまして」

「ご褒美……」


 失礼、と前置きをするとネモは立ち上がり、ブレスのシャツを上半分ほど剥いた。


「なっ、なにするんですか!」

「ああほら、これです。ご覧なさい、これが夏のお方の御徴ですよ。美しいですねぇ……」


 突然脱がされて頓狂に叫ぶブレスに対し、ネモはブレスの肩のあたりを指先でなぞってご満悦である。


 背筋がぞわぞわしてたまらず手を払いのけると、そこには繊細な装飾の三日月のような徴が、青く刻み込まれていた。


「どうです。綺麗でしょう?」

「……たしかに、先入観を抜きに刻印の魔術師の目で見るとしたら、きれいな模様だとは思いますけど」


 マリーはこんな徴が怖いのだろうか。

 生理的に受け付けないほどに?


「違うの、フィー……ただの刻印とはわけが違うの。それは兄上の神気でつけられた徴だから、なんというか……気配がするんだよ。匂いみたいに、エッタの気配がフィーの肉体にすごく濃く残ってるの。

 ほらあたし、千三百年前に魔女落ちしてエッタに影の魔女を引き剥がしてもらったじゃない? その時にすごく迷惑かけちゃったし、めちゃくちゃ怒られたしで、あたし、エッタに頭が上がんないんだよね。だからその……どうしてもエッタの気配を感じちゃうと、体が竦むというか……」


 なるほど。つまるところ、すさまじい苦手意識を持っている兄と同じ気配が、ブレスから漂ってくる、ということか。

 鈍いことに定評のあるブレスでも解る、それは避けたくもなるだろう。


 本当に面倒なものを勝手に残していってくれたものだ。

 半眼で徴を突っつきつつ、ブレスはため息を吐いた。


「これ、消せないんですか?」


「わああ!」とマリーが悲鳴をあげ、ネモが「なんという冒涜を!」と白目を剥いた。


 狂信者、じゃなかった、敬虔な信徒のほうはさて置き、ヘリオエッタの実の妹であるマリーがこんな反応をするのだ、許されないことなのだろうと察しもつく。


 うんざりしつつ衣服を整え、三日月の徴をしまう。

 どうしてこう、忙しい時にかぎって厄介な出来事が勃発するのだろうか。


(……まあ、いいか)


 今すぐどうこうなる徴では、ないのだろうから。




 マリーが疲れた様子で部屋を出ていったあと、ブレスはネモと話をした。


 白人魚マルガリーテースとともに海に沈んでいた間は、ミシェリーを通して無事を伝えてはいたものの、それはあくまで詳細を省いた簡単な報告にすぎない。


 マルガリーテースに息吹を吹き込まれて溺れなくなったことや、海に沈んだ神殿でボルド・オルターナーがどのような最期を迎えたのか、そして人魚の言葉によりローレライたちと潮の絆を結んだこと。報告しなければならないことは山ほどあった。


 今後の戦いにおいて、役立ちそうなことはすべてネモに伝えなければならない。

 できることが解っていれば、それだけ戦略も広がるのである。


 何をどう使うのかを考えるのはネモの仕事だ。故にブレスは海底での出来事をすべて話した。


「なるほど……あのローレライたちと、絆を」

「あ、そうか。ネモ様はお嫌でしたか」


「いいえ、とんでもない。戦に私情は挟みません。たとえば我々の軍が撤退を強いられるような事態に陥った時、この島まで逃れることが出来れば、ローレライたちは敵軍から我々を守ってくれるかもしれないでしょう? 

 あなたが友好を結ばなければ、彼女たちは帝国軍も撤退してきた我々も差別なく排除する可能性が高かった。白人魚の一族は大きな盾ですよ。よくやってくれました」


 戦に巻き込むつもりで絆を結んだわけではないけれど、ネモに認めてもらえたことは嬉しかった。


 頭を下げつつ、ブレスはふと思い浮かんだ疑問に眉を寄せる。

 どうしても解せないことがあったのを思い出したのだ。


「ネモ様。あの夜……ネモ様がボルド・オルターナーの背後の海に飛び込んできた時、なぜ彼はネモ様に気づかなかったのでしょうか。わりと派手に音も泡もあがっていたのに、ボルドは振り向きもしなかった」

「ああ、それはですね。これのおかげです」


 そう言ってネモが掲げて見せたのは、彼の骨ばった腕──にはめられている、腕輪。


「〈遮断の腕輪〉です。あなたが、絶対に見つからない、と言霊を吹き込んだ特別製のね。刻印者当人には効き目が無いですから、あなただけには私の姿が見えていたのでしょうが、この腕輪、本当に絶対に見つからないようですよ。いやあ、良い物を頂きました」


 これはまた対価を支払わなければなりませんね、と満足げに腕輪を撫でるネモに、ブレスは笑いながら首を振る。


 あの変異したボルド・オルターナーから助けてもらったのだ。

 これ以上の対価など、とても受け取れない。




 なにが役に立つのかなんて、解らないものだ。


 船乗りたちや兵士たちによって次々と積み荷が運び込まれる喧噪のなか、ブレスは水平線を見つめながら思索に耽る。


「あの腕輪だって、イルダと面会するためにたまたま作った腕輪だったんだよ。まさかそれに助けられるなんて」

『結局、出来るときに出来ることをやっておくのが一番いいのよ』

「それ、エチカが言ってたやつじゃん」


 フスンと鼻息を吐いて肩の上で胸をはるミシェリーに苦笑しつつ、当時のことを思い出して目を細める。


 ──殺れる奴は殺れる時に殺っておかないとあとで後悔するのよ。


 ……うん、何度思い返しても物騒だ。

 表現は物騒だが、その本質は真理だと思う。


 何に助けられ、何に足下を掬われるか。

 未来を知ることが出来ない以上、行動が足りずに後悔することのないように、いま出来ることに向き合うしかない。


「全隻、船出の用意が出来ました、ネモ様」

「はい。では……」


 各船が〈耳〉を通してネモの言葉を待っている。

 音を立てず、大きく息を吸い、ゆっくりと吐いたネモは、普段通りの冷静な声音で命令を下した。


「進軍再開。これよりマルメーレ諸島を発ち、西大陸へ向けて出航します」


 時が再び、動き始める。


9 帰郷の海 終

 ヘリオエッタの残していった三日月マークは隷属印のようなものであって、知る人ぞ知る、暴君の目に止まってしまった不運な人のしるしです。

 お察しの通りデイナベルもそのひとりですが、彼はエッタに仕える神官だったので三日月マークを大切にしています。


 次話からは幕間、イルダとレシャの抱える問題の結末についてのお話です。


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