108話 ヘリオエッタの降臨
神という存在と出合ったのはこれで三柱目だ。
冬の翼カナリアに、秋の娘サハナドール。そして今度は、夏を冠するヘリオエッタ。
末っ子から順だ、と気づき、ブレスは顔を伏せたまま苦笑する。これで姿を見ていないのは、春の乙女プライラルムのみ。
ちなみに父神サタナキアは世界の外に存在するため、この世界に現れることはない。
ヘリオエッタは何を思ったのか帆船の縁から立ち上がり、大股で歩み寄って裸足でブレスの肩を踏んだ。肩の骨が、みしりと不穏な音を立てる。
重いのではない。ヘリオエッタが発している目に見えないなにかが、肉体に負荷をかけている。
うめき声を押し殺したブレスの頭上で、ヘリオエッタは「何がおかしい」と平坦な声で問った。
この人は絶対に怒らせてはいけない人だと直感した。
「答えよ。俺は虚言を好まぬ。嘘を申せば貴様の腕を踏みつぶすぞ」
(うわぁ)
傍若無人というか、有無を言わせないというか、なんというか。
彼が苛烈な性格であることは聖典に記されているし、カナンから話を聞いて知ってもいた。
しかしまさか、こうも強引で乱暴者だったとは。
この男はやるといったらやる。
腕を失うのはまっぴらだったので、ブレスはおとなしく考えていたことをさらけ出した。
「つまらないことです。私がはじめて出合った神精は、カナリア様でした。次に出合ったのはサハナドール様。そして此度、ヘリオエッタ様が現れた。下から順に、と思ったものですから」
「下らぬ」
だから、そう言ったじゃないか。
勇気を出して話したことをばっさりと切り捨てられ、ブレスはがくりとうなだれた。
なにはともあれ、肩から足をどけてもらえたので良しとしよう。
骨にひびが入っている。痛む部分に手をあてて〈治癒〉を刻印し、目線を上げると、ヘリオエッタは踵をかえして船の縁に戻り、再び腰を下ろしたところだった。
今夜はそう簡単には消えてはくれないらしい。
「来い」
こちらに目もくれず、ヘリオエッタは命令する。
当然、拒否権はない。
疲労と魔力痛で軋む体に風を纏い、一馬身ほど距離をとって膝を着こうとすると、今度は「やめろ」と嫌がられてしまった。
「俺はへりくだる人間は好かん」
「……では、どうしろと」
「座れ」
と言って彼が拳で叩いたのは、船の縁、要するに彼の隣である。
正直言って近づきたくない。ちょっと機嫌を損ねるだけでこちらの肩を潰そうと思い立つような相手だ。
「私を脅さない、害さないと約束してくださるなら」
「なぜ俺が人間ごときと制約を交わさねばならぬ」
(ですよね……)
予想通りの答えだ。いやだなぁ、怖いなぁ、と逡巡していると、ヘリオエッタはゴンと音を立てて船の縁を殴った。
大波に揉まれるように大きく船が揺れる。
船を破壊されるよりはまだ、肩が潰されるほうがマシだ。
己の身を守ることを諦め、ブレスは示された通りの場所へそっともたれ掛かる。
「座れと、言ったはずだが」
「申し訳ありませんがここのところ体力の消耗が激しく、縁の上で姿勢を保つことが難しいのです」
「そうか」
今度の言葉は聞き入れてもらえたらしい。
よくわからないお方だ。
初対面の神様と横並びになる、という希有な体験を実感しながら、考えていたのはイルダのことだった。
昨夜のうちに行けなくなることを伝えておいて正解だった。
様子を見に行けずに、心配ではあるけれど。
「俺と共に在りながら他の者の身をあんじているな」
「ええ。気がかりなものですから」
「我が出来損ないの弟妹に仕えるくだらぬ愚か者かと思えば、存外度胸のある人の子だ」
出来損ないの弟妹? まさかカナンとマリーのことではあるまいな。
思わず頬のひきつったブレスを横目で眺め、ヘリオエッタは青白く輝く双眸をかすかに細めた。
まるで面白がっているかのような反応だ。
いったい何がおかしいのか。
怒らせてはいけない相手だと解ってはいても、多忙であったここ数日の疲労のために、感情がうまく抑えられない。
カナンやマリーを馬鹿にされて聞こえないふりをしていられるほど、ブレスは物わかりが良くないのだ。
(だめだ、落ち着け、ここは船の上だ。俺だけじゃない、大勢がこの船で眠っている)
機嫌を損ねて罰を受けるのが自分だけならばまだしも、と沸き上がる不快感をどうにか押し殺し、深呼吸をひとつ。
話題を変えなければ。
「前回、ヘリオエッタ様がディアナベールについて問われたのは、先触れだったのですね」
ディアナベール。解ってしまえばなんということもない、それは人の名前である。
彼は賢者の都エルシオンで、解呪の教師をしている魔術師だ。
夢喰いの魔獣シクタムをカナンに押しつけられたちょっと不憫な人物で、人狼ハオ・チェンと月光のもとで模擬試合を行った。
デイナベル。それがブレスが知っている、音である。
彼はエルシオンにやってくる前、ヘリオエッタの神殿で神官をしていた過去がある。その際に神殿の主であるヘリオエッタの加護を得て、証として月光の剣を授かった。
つまるところ、「ディアナベールを知っているか」という問いかけは「知っているのならば我が正体も解るはず」というヘリオエッタの遠回しな自己開示だったのだ。
神々は自ら名乗りなどしないのである。
ブレスの推測を聞いたヘリオエッタは、「デイナベルだと?」と眉間を寄せて剣呑に目を光らせた。
「俺が下賜した名の音を勝手に変えるとは、あれも礼儀を忘れたか」
「違うと思いますよ。デイナさんは魔術師ですから、大切な名前をおおっぴらに掲げるような真似はしません。きっとヘリオエッタ様以外に、その音で呼ばれたくなかったのでしょう」
あくまで同業者の想像ですが、とハズレだった時の逃げ道を付け加えてちらりと横目を向けると、彼はやや不服そうに「人間の忠誠心は解らぬ」と呟いた。
誤解がとけたのならよかったと思う。デイナベルがとばっちりを食うのはあんまりだ。
ほっとすると同時にひどい倦怠感に襲われて、ブレスはずるずると甲板に座り込んだ。
疲労や魔力痛だけが原因ではない。この男が纏う力が、明らかにブレスの肉体を痛めつけている。
「……すみません、すこし気分が……」
「ああ。神気を抑えるを忘れていたな。人の身にはきつかろうよ。下界に降りたのは久方ぶり故、許せ」
これが魔力にあたるということだろうか。
ひどい目眩と吐き気に苛まれ、ブレスは背を丸める。本当なら甲板に転がってしまいたい。
もう、さっさと帰ってくれないだろうか、このひと。
無礼きわまりない事を考えていたのがばれてしまったせいか、ヘリオエッタはおもむろにブレスの頭をがしりと掴んだ。
五指が食い込む痛みに危機感を覚え、反射的に体内の臓器に〈蘇生〉を刻印しようとするが、「邪魔をするな」という面倒そうな一言であっけなく魔力を払われてしまう。歯が立たない。
頭蓋骨が砕かれるのではないかとパニックに陥りかけた時、ヘリオエッタはやっと手を放した。
「……あれ?」
先ほどまで軋んでいた体がすっかり軽くなっていた。もうどこも痛まないし、疲労感さえ消えている。
筋肉痛も魔力痛も、ひび割れた肩の痛みも、ヘリオエッタの放つ得体の知れない圧力で受けた損傷も、すっかりきれいに治っていた。
呆然と座り込むブレスの上から、「これで座れるだろう」と淡泊な声が降ってくる。
「……いま、私を治してくださったのですか?」
「それがなんだと言うのだ」
至極面倒、という声音で答えた目の前の男を、思わずまじまじと見てしまった。
乱暴者かと思えば一瞬で肉体を治療するこの男の気まぐれさに、まったくついて行ける気がしなかったのだ。
わけがわからない。ブレスは考えることをやめた。
恐らくこのひとは、その時々、己のやりたいように行動しているだけなのだ。となれば、考えるだけ無駄というもの。
カナンやマリーの兄だと思うからいけなかった。
神と名のつく存在と、話が通じる事が当然だと思いこんでいたのがそもそもの間違い。
無言のまま、おとなしく船の縁に腰を下ろしたブレスを見、ヘリオエッタは満足げに目を細める。
「貴様はディアナベールと似ているな」
また脈絡のない事を話し出した男に、ブレスは疲れた頭をゆるく振って答える。
「デイナさんは紅葉の目にきれいな焦げ茶の髪の佳人ですよ。どこが似ているというのですか」
「みてくれの話をしているのではない。中身の色と、胸に宿る星の話をしているのだ」
「星……」
「あれの星も混じりけのない金色だった。貴様の星もそうだ。些か光が強すぎるが、若さ故だろう。年月を重ねれば、貴様もあれと同じように様々なものを見る目を得ることになろう」
暗闇でものがよく見えないように、強すぎる光のなかでもものはよく見えない。
抽象的だが言わんとすることは察せられた。
思わず我が身を省みるブレスの横で、ヘリオエッタは立ち上がる。
間近で見て気づく。彼の髪は黒ではない。
紺碧だ。真夏の、深く濃く冴え冴えとした天の青だ。ラピスラズリのような。
月光を浴びて輝く長髪と青月長石の双眸の、なんと神々しいことか。
「ルミナスの名を下賜する」
「……へ?」
目を奪われていたブレスは、またしても唐突な彼の言葉に我に返った。
言うだけ言って帰ってしまうつもりでいるらしいヘリオエッタの背に向けて、慌てて声を上げ追い縋る。
「ま、待ってください、私はカナリア様の弟子です! というかそもそも、ヘリオエッタ様はいったい何をしにいらっしゃったのですか?」
船の縁を大股で歩いていたヘリオエッタは、面倒そうに振り返ると再びブレスの肩を足蹴にした。
先ほどの骨折を思い出して硬直するブレスに、彼はほんのわずかにに唇の端を上げ、告げる。
「俺はただ、父上に行けと命じられた故来たのみ。何をしろともするなとも命じられておらぬ以上、何をしようと俺の勝手だ」
なんだそれは。本当に意味がわからない。
思考停止、絶句するブレスにくるりと背を向け、ヘリオエッタは船首のあたりからふわりと飛び降りた。
暴風が巻き起こり、二本角の四足の大蛇が巨体をうねらせながら現れる。古代の生き物、龍だ。
「またいずれ出会うだろう。俺に仕える前に死ぬなよ、ルミナス」
龍の角を掴んだヘリオエッタは、唖然と立ち尽くすブレスにそれだけを言い残すと、夜空の彼方へと去っていった。
本当に嵐のような男だ。というか。
「輝く者って、なんだよ……」
名前負けし過ぎて誰にも名乗れない呼び名が、ひとつ増えてしまった。