107話 海中に潜む物
船に戻り、ブレスの報告を聞いたネモは無言で額から机にダイブした。撃沈だ。
出来の良い脳細胞をもっと大切にして欲しいが、実に率直な反応だ。
正直言ってブレスもまったく同じ心境である。
「もう二度とローレライとは関わるまいと思った矢先にこんな……私、はじめてかもしれません、〈何者でもない者〉となってから心が折れそうになったのは」
「ネ、ネモ様はその、ローレライたちとの相性が悪いみたいですし、大丈夫ですよ、私でなんとかしますから」
「馬鹿おっしゃい、相手はいにしえの人魚の血を取り込んだ男なのですよ。もはや人の形をしているかどうかもあやしいというのに」
「いにしえの人魚って?」
ネモの話によると、悪霊犬バーゲストが鉤爪とツノを失い、ニーズヘッグの子孫たちが単なる蛇の魔物に成り下がったように、人魚も退化して多くの力を失ったのだそうだ。
知恵、感情、魔法の制御、そしてその血肉に宿る、不老の効能。
「ええっ、じゃあ人魚を食べると不老不死になるって伝説は事実だったんですか!」
「昔の話ですから、伝説は伝説です。それに不死にはなりません、あくまで歳をとらないだけで」
「でもボルド・オルターナーは生き返ったんですよね? いや、死んでなかったのかな」
「これは推測ですが、おそらく七百年に渡って白人魚の血液を摂取し続けたことにより、肉体に変化が起こったのでしょう」
たった一度口にしただけで不老となる人魚の血を、ボルドは七百年も飲み続けた。
頻度は定かではないが、十回や二十回ではあるまい。百や二百でもきかないかもしれない。
人魚の血がボルドの身体に蓄積され、死の危機に瀕するという特殊な状況に追い込まれることにより、血の力が男の肉体に変異をもたらしたとしたら。
「……一体、何になったのでしょうね、その男は」
妙に冷静なネモの声に、鳥肌が立った。
まずいことになったのは確かである。
この付近に、未知の怪物が解き放たれてしまったのだから。
「ってことがあったんだけど、やっぱりこれって俺のせいだと思う?」
夜間、イルダの監禁されている甲板下層部。
ブレスが訪ねてくることに関しては諦めた様子ではあったものの、さすがに今夜の話にはついて来れなかったらしい。
鉄格子の向こう側でイルダは遠い目をしている。
「貴様につき合わされている連中が気の毒になるような話だな」
「俺だって好きで巻き込まれてるんじゃないよ!」
とは言え、言われてみれば確かにこの島に上陸してから起きた問題はすべてローレライ経由ではある。
ローレライに目を付けられてしまったために、と自分でも思うのだから、ネモたちは言わずもがな。
「だからさ、イルダ、ごめん。もしかしたら明日の夜は来られないかもしれない」
「別にもとから頼んでなどいない」
「そりゃそうだけど、約束は約束じゃないか」
好かれていないことは解っている。それでも魔術師が一度それを口にした以上、守らねばならない。
言霊を使うブレスならなおのこと、言葉は大切に扱わなければ。
イルダは浅くため息を吐き、壁際の鉄格子に凭れる。
かつて彼の目に渦巻いていた怒りや苛立ちは消えていた。
今のイルダの双眸は、空虚さや疲弊、寂寥で暗く沈んでいる。
じっと己を見つめるブレスに何を思ったのか。
イルダは顔を背け、目を閉じた。
急ぐつもりはない。
ブレスはイルダが話してくれる気になるのを、待つだけだ。
片づけなければならない問題があると思うと寝付けず、ブレスは甲板に上がって夜の海風にあたる。
見慣れた海。はじめて船室から出た時はこの広い海を見て世界が明るくなったような気がしたが、いまとなってはその感動もどこへやら。
ぼんやりと頭上の月を見つめながら、唇が勝手に音を紡ぐ。
「ディアナベール」
月の光。輝く青月長石の両眼を持つ、人ならざる強きもの。
宝石の目を持つ人物を、ブレスはもうひとり知っている。
マリーの目がそうではないから、兄弟だとは限らないとも一度は思った。
けれど、あの圧倒的な存在感や、人を寄せ付けない一線を引いたような空気には覚えがある。
彼の纏う空気は似ているのだ、シャムス聖王国で見た、本来の姿のカナリアと。
(だとすれば、あのひとは……)
そして彼の問いかけ、ディアナベールという言葉の示す者は。
物思いに耽りながら海面に揺れる月の光を見つめていると、ふと波間で何かが動いたような気がした。
「うん……?」
この島には人喰い人魚は近づかない。ローレライか、白い人魚が訪ねてきたのだろうか。
よく見ようと身を乗り出して海面をのぞき込むと、水面の近くで白い鱗がかすかに月光を跳ね返してきらめく。
白い人魚? だとしたら顔を見せないのは何故だろう。
甲板の上からではよく見えない。降りて確かめようか、と思ったが、いくら何でも浅慮だろう。
眉を寄せ、目をこらす。見えそうで見えない。海面で飛沫が跳ぶ。
白い人魚の尾がうねるのが、今度は確かに見えた。
だが上がってこない。様子がおかしい。まるで水中でもがいているかのように、彼女はばたばたと尾鰭をうねらせ、泳ぎ回っているのだ。
次の瞬間、海面を貫いて彼女の白い指が延びた。
助けを求めるようにブレスに伸ばされたその腕を、何かが掴んでいた。
「……襲われているのか!」
船の縁に足をかけながら、ブレスは懐を探って〈耳〉の石を取りだし叫ぶ。
「ネモ様、ブルータイガー号付近に異変が発生! 恐らく変異したボルド・オルターナーが白い人魚を襲っているものと思われます!」
「すぐに向かいます。君はその場で待機しているように──」
ぼそぼそとした返答を聞いた時には、すでにブレスの身体は船の縁を乗り越えて空中だった。
(あれ、また早まったかもしれない……ま、報告しただけマシか)
光を呼び、派手に水しぶきを上げて飛び込むと、夜の闇に覆われていた海中がぱっと明るく照らし出された。
イルダのいる場所で眠っているミシェリーを念話でたたき起こし、ブレスは目を凝らす。
流れる血を赤い帯のように引きながらもがいている白い人魚に、多い被さっているもの。
その姿を捕らえるなり、ブレスは恥も外聞もなく目を剥いて絶叫した。
当然海中では大した音にはならなかったが、念話で繋がっているミシェリーが「何事なの!?」と恐怖に駆られた声で応えた。
(ミシェリー! 半魚人だ! 半魚人がいるぅ!!)
(何を言っているの、お前は!?)
(何って、半魚人は半魚人だよ!)
ローレライに切り裂かれた傷を覆うように所々鱗が飛び出し、もとは人間であった肌色の皮膚を広範囲にわたって覆っている。
水掻きのある両手足に鋭い爪、サンショウウオのような尾、水中で爛々と獲物を見据えて光る魚の目。
ブレスの悲鳴を聞いたのか聞かなかったのか、ボルド・オルターナーの顔をした半魚人は噛みついていた白人魚の肩から顔を上げ、ぎょろりとブレスを見た。
(わあああああ!! こっち見るなぁ!!)
(ちょっと、落ち着きなさいよ!)
これが落ち着いていられるものか。
鮫のようなギザギザの歯をむき出しにすごい早さで泳いでくる怪物に向けて、ブレスはほどんど半泣きになりながら手当たり次第に魔術を放って応戦する。
渦潮を起こし、細かな気泡で目くらましをして、隙あらば刻印し、術が発動しているうちに水面に戻って息を吸う。
呼吸しているうちに脚を掴まれて水中に引きずりこまれ、迫り来る牙に大騒ぎしながらその口に炎をぶち込むが、水中ではお湯になるだけだ。
それでも魚の肌にやけどを負わせるには十分だったようで、半魚人は狼狽えたように後退する。
半狂乱になりながら白人魚のところまで移動して、肌に触れて〈治癒〉を刻印する。
血のにおいをまき散らしていたら他の肉食生物まで集合しかねない。
(息がっ……!)
恐怖と酸欠で思考が飛びそうだ。
とにかく息をしなければと海面を目指すが、ボルド・オルターナーの理性が失せた目がすぐそこに迫っていた。
ああ、もうこの男は人ではない。
男の目にはもはや食欲への執着しか映ってはいなかった。その目にとらわれ、ブレスはいっとき、男を哀れんでしまった。
数秒の隙。目前に迫る爪と牙、そして。
男の背後に、ネモが飛び込んできた。ブレスと同じように派手に水しぶきを上げ、気泡とともに海中へ現れたネモを、何故かボルド・オルターナーは認知しなかった。
ところどころに青の混じる灰色の目が、ブレスの呼んだ光を反射して奇妙に光っている。海中に揺れる彼の長い黒髪が、ざわりと魔力を含んで渦巻いた。
思わず目を奪われるブレスの前で、ネモはゆらりと腕をあげる。
手のひらに描かれた召喚の刻印から放たれた鉄の銛が、次々とボルド・オルターナーを串刺しにする。
苦悶の表情、海中を赤く染める血の臭い、人間ではなくなってしまった男の断末魔。
すべてを記憶に焼き付けるように見つめていたブレスの目を、白い人魚の指先がそっと覆った。
息をしなければいけなかったことを思い出したが、すでに水を蹴る気力は失せていた。
眩む視界。人魚の細い指の隙間から、ネモが限界まで腕を伸ばしているのが見える。
その手を掴むことも出来ないまま沈んでゆくブレスの口を、白人魚の冷たい唇が覆った。
歌が聞こえる。
地上では聞くことの出来ない、人魚の歌声だ。
海底に沈んだ古い遺跡、石造りの神殿の折れた柱にもたれ、ブレスは目を覚ました。
水中で溺れなくなった理由はひとつだけ。白人魚の口づけを受けてしまったからだろう。
「……これって浮気になるのかなぁ」
ミシェリーは許してくれるだろうか。抵抗出来る状況ではなかったのだから、見逃してくれるだろうか。
ふう、とため息をつくが、口から気泡は生まれなかった。
これは肺が水浸しになっているということではなかろうか。
水中で呼吸出来るかわりに地上で生きられなくなった、などということはあるまいな。
「あら、起きたのね」
聞き慣れた声が背後からブレスを呼んだ。
振り返れば、もはや見慣れたローレライが、珊瑚の髪をゆらゆらと揺らしながら海の目でブレスを見つめていた。
「約束を守ってくれてありがとう。お礼にディアナベールについて教えてあげるわ」
「ああ……それはいいよ、もう答えが解ったから」
あらそう、とつまらそうにローレライは呟く。彼女の両脚は虹色の鱗でなめらかに覆われていた。
人魚のような尾鰭を持たない代わりなのか、背には蝶の翅のように広がる美しく長いヒレが一対、彼女の髪と共に波に揺られている。
「それが本来の姿? 水中の妖精みたいだ。綺麗だね、ローレライ」
「……そう言ったのは、お前でふたりめよ」
どうしてか少し寂しそうにそう答え、彼女はブレスを手招いて水中を歩き始める。
泳ぐのではなく、歩いているのだ。
ちょうと地上にいたブレスが、風を纏って身体を動かしていたように、ローレライは水を操って水中を進んでゆく。
(そうか……うまく泳げないんだ。あの背に生えた翅みたいな大きなヒレが、海流の影響を受けるから)
人為的に生み出された彼女たちは、自然環境に適応した形を得ていない。
美しいけれどどこか歪な生き物であるローレライが島を守り続けて生きてゆくことを決めたのは、生まれた島以外に居場所が無いからなのかもしれない。
ローレライに導かれ、ブレスは男の遺骸を抱いて歌う白い人魚のもとへたどり着いた。
ローレライたちによって切り裂かれ、ネモの銛に貫かれて穴だらけになったボルド・オルターナーの肉体はひどい有様だ。
それでも白い人魚は優しい眼差しでボルドを見下ろし、彼の為に歌っている。
「心配しないで。お母様の息吹をふきこまれたお前に、もはや海の眷属の魔力は通じない」
ローレライの言葉に、人魚の声に宿る魔力の怖さを思いだし、ブレスは苦く笑った。言われるまですっかり忘れていた。
白い人魚の周囲には海の乙女たちが集い、まるで男の死を悼んでいるように見える。
不思議だ。彼を憎んでいたであろう彼女たちが、ボルドのために歌うなんて。
人魚の歌が止み、目を閉じて聞き入っていたブレスは顔を上げる。
白い人魚は凪いだ微笑を浮かべてブレスを呼んだ。
ローレライが手を差し伸べる。ブレスは彼女に連れられて、白い人魚のもとへ降り立った。
「この男は、どうなるんです?」
「食べる。皆で分かちあって」
「……へえ」
少々意外で、けれど簡潔な答えだ。
「私たちは人は喰らわない。だが、これはもう人ではなくなった。皆で分かち合い、血肉を取り込み、人魚の血の力は相応しい者のもとへ還るだろう。私の娘たちのもとへ」
「それがあなたたちの、人魚の葬りかたなのですね」
「そうだ。すべてのものは取り込まれ、必ずいつかは世界の一部に還る。血は一族に還り、美しかった過去の記憶は私の胸へ。けがれは潮が清め、すべての憎悪は海流が〈死海の渦潮〉のもとへ運んでいった。ボルドはもういない。いないけれど、ここに在る」
そっと己の胸元に手を当て、白い人魚は静かな笑みを浮かべる。
ブレスはそんな彼女の姿を見つめているうちに、己の目の前でボルド・オルターナーが死んだ時に受けた衝撃が癒されていくのを感じていた。
海に抱かれる男の肉体に、一切の無念も遺恨も残っていないためか。
死んで空っぽになってしまえば、みな同じだからか。
いつか訪れる己の死を、重ね合わせて見たからか。
心のままにブレスはボルドに歩み寄り、海底に膝をついて安寧の眠りを祈った。
過ちを犯した男だ。
けれど、どんなに悪人であろうとも、長い年月が人を歪めようとも、同じ人間であった以上は捨て置くことなど出来なかった。
魔術師の〈証〉古代王アリエスの石に触れて祈るブレスを見おろして、白い人魚は愛しそうに、我が子の髪を撫でるようにブレスの赤毛に触れる。
「潮と絆を結び、そして私の娘に選ばれた特別な人の子。友好の証に、そなたに私の真名を教えよう。そなたが私を忘れぬ限り、そして潮の絆のとぎれぬ限り、マルガリーテースと娘たちはそなたの友だ」
マルガリーテース。その言葉の意味は真珠。
美しい名前だ。
「地上の友がそなたの帰りを待っている」
「……はい。あなたがたに、母なる海女神のご加護がありますように」
白人魚、マルガリーテースと別れたブレスは、ローレライに手を引かれて海面へ昇り、地上へ戻った。
朝焼けのマルメーレ諸島。
浜辺で待ってくれていたらしいネモたちが、ローレライと手を繋いで現れたブレスを見て呆然としている。
「ちょっとだけ仲良くなりました」
ひとりの男の破滅をきっかけに。
ほろ苦く眉を下げて微笑するブレスに何を思ったのか、ネモは何も問わずに頷き、フェインはずぶぬれの弟の背に手を当てる。
「大変だったわね。お湯にでもつかって、ゆっくり休むといいわ」
「ありがと、エチカ」
ミシェリーが肩に飛び乗り、毛並みが濡れるのにも構わずにブレスに額を押しつける。
去り際に振り返ると、ローレライはじっとブレスを見つめていた。
人魚の美貌に妖しい笑みを浮かべ、彼女は海の目を細めて首を傾げる。
彼女の唇が「またね」と呟き、ブレスは苦笑を滲ませた。
船に戻り魔術で真水を呼び、髪と身体を流して気が抜けたのだろう、船室の寝台に倒れ込むと夢も見ずに深く眠った。
目が覚めたのは月が登った真夜中過ぎ。
訪れたあの気配に起こされなければ、朝まで眠っていたかもしれない。
(また、呼ばれてる)
筋肉痛と魔力痛で軋む身体に風を纏い、ブレスは甲板へ出た。
明るく冷たい月光のもとで、あの黒髪の男が船の縁に腰をかけてブレスを見ている。
両眼の青月長石の輝きと再びまみえ、予感が確信へと変わる。
サタナキアの息子はふたり、冬を造りしカナリアと、そして。
「……春の女神が生み出したものを育て、この世に夏をもたらしたお方。恵みの雨と月の癒しをお与えくださる海の守護神にして、主神サタナキアの第二子ヘリオエッタ様のご降臨、望外の喜びに存じます」
遠く離れたところで跪くブレスを、夏の風雷ヘリオエッタは無表情に見下ろした。
補足:〈死海の渦潮〉カリュブディスについて
この世界の海にはバミューダトライアングルのような「行ったら帰って来られない」海域があり、死海と呼ばれています。
死海には大渦を起こして周辺の生き物全てを海水ごと飲み込んでしまう怪物が棲んでおり、海の眷属たちはその怪物のことを〈死海の渦潮〉カリュブディスと呼んでいます。
人間はこの大渦を起こす怪物を恐れていますが、この怪物が穢れたものを全て飲み込んでくれるお陰で、この世界の海は綺麗なのです。