106話 ディアナベールを知っているか
ディアナベールを知っているか。
聞いたことがあるような気もするし、ないような気もする。なんとなく引っかかる響きではあるが、曖昧だ。
知っているとも知らないとも答えられない。答えればそれは嘘になってしまう。
この男は嘘を許さない。それだけは何故か、確信があった。
故に、ブレスの答えは。
「わかりません」
「それは知らないということか」
「いいえ。知っているのか、知らないのか、自分でもわからないということです」
「そうか」
問いかけてきたときと同じように、男は淡々と答える。
人では無い者が、こんなところにいったいなにをしに現れたのだろう。
ブレスがそれを考えていると、海風に乗って、かすかに歌声が聞こえてきた。
ローレライの歌声だ。この歌声を聞くと呪いにかかってまずい事になるのだったか。
男は、つとそちらに顔を向ける。
つられたブレスも、歌声の流れてくる方向を見た。
「……あれ?」
視線を戻した時には、その男は消えていた。
「なに難しそうな顔してるの?」
翌日宿屋に戻ったブレスを見、開口一番にエチカが言った。ブレスはううん、と唸って首を振る。
昨晩の事が気になりすぎて、あのあとほとんど眠れなかった。
「エチカ、ディアナベールって知ってる?」
「なにそれ」
「たぶん、なぞなぞ」
きょとんと首を傾げるエチカ。「なんとなく聞き覚えがあるような気もするけど」と呟くエチカに、ブレスはそうなんだよ、と頷く。
似たような音を、聞いたことがあるような、ないような。
「……ま、いっか。とりあえず、ネモ様に会わなきゃいけないんだっけ」
「え、ああ、そうね。ネモ様はネモ様で、色々考えてたみたい」
「考えるって、なにを?」
「それは本人に聞いてよ」
面倒そうにぴしゃりとはねつけるエチカに、それもそうかと頷きつつ、ブレスはネモの寝泊まりしている部屋のドアをノックした。
「ネモ様、エミスフィリオです。ただいま戻りました」
ドアを開けたのは側近のひとり。彼は額に包帯を巻いている。
ブレスの顔を確かめた彼はほっとした表情を浮かべ、部屋に通してくれた。
さほどの広さもない部屋を見回し、ブレスは呆気にとられて固まってしまった。
部屋の隅っこの方で、ネモがほの暗いオーラをまき散らしながら、どんよりと沈み込んでいる。
頭から旅外套をかぶって床に座り込むネモに、側近たちもどうしたものかと困っていたようだ。
エチカが面倒臭そうにしていた原因はこれか。
「……えっと、すみませんが、その」
「外に出ていましょうか。部屋の前におりますので」
「助かります」
主人でもないのに人払いをするのは気が引ける。
彼らは察してくれた様子で、自ら部屋を出て行った。
静かにドアが締まる。
「あの、ネモ様。とりあえず椅子に座りませんか」
「いえ……私は、人間失格ですので……」
「う、うーん?」
なにがあったのだ、なにが。
どん底まで落ち込んでいるらしいネモを前に、途方に暮れる。
この男がこんなふうに負の感情を露わにしている現場に居合わせたのは、初めてではなかろうか。
(……いや、前にもあったか)
スティクス候の屋敷で、誘拐の話を持ちかけられた時にも、このひとはこうして座り込んでうなだれていたっけ。
そう思うと、肩の力がすこんと抜けた。ネモという男の性質を、もうひとつだけ理解できた気がする。
ブレスは人ふたり分の空間を開けて、ネモの横に座り込む。
「仕方ないじゃないですか。誰も、ネモ様のことを責めてなんかいませんよ。主人が海に連れて行かれなくて良かったって、ほっとしています。見ればわかるじゃないですか、そんなの」
言葉を聞いたネモの薄い唇が、ゆっくりと自嘲げに歪んだ。
「……いっそ、責めてくれた方が楽なのですよ。こんなところまで着いてきてくれた彼らを傷つけてしまったというのに、誰も私を罰しない」
「罰が欲しいのですか」
「ええ。罪は償わなければなりません。君は居なかったので、知らないでしょう。私は危うくリュトスを殺めるところでした。私が、この手で。私の魔術で」
ブレスは目を見張る。エトルリア王国指折りの魔術師が無意識のまま暴走する、という事態を軽く見ていたことに今更気がついた。
魔術師であるフェインやエチカでさえネモを押さえ込むために苦労したのだから、魔術から身を守るすべもない側近たちは、どれだけ被害を被ったのか。
「せめてこの〈証〉が……古代王アリエスの石が罰を下してくれることを願いましたが、聞き入れて頂けなかったようです」
魔術師の証であるペンダントを胸元に握りながら、ネモは呟く。
「じゃあ、無罪ってことなんじゃないですか」
「傷害罪ですよ。無罪なはずないでしょう」
「一般の法ではそうですけど、呪いの影響による特殊な事例では、罪に問われないことも多いはずです」
ふ、と呼気の漏れる音がした。そんなことはネモだって百も承知だ。
その上で良心の呵責に苦しんでいるのだから。
「あなたは、苦しまなかったのですか」
不意に、ぽつりとネモが問った。
「翼の──冬のお方の犠牲を知った時、あなたは苦しまなかったのですか」
「……それは、もちろん……」
苦しんだに決まっている。
声の震えに気づいたネモが、顔を伏せて「余計なことを言いました」と呟く。
いいえ、と首を振りながら、ブレスは細く息を吐いて気を落ち着かせた。
覚悟はとうに決めてある。
「でも、だからこそしっかり歩いて、先生のところまで行かないといけないんです」
ネモは仄かに目を見張り、そして瞑目した。
ブレスの答えに、彼がなにを思ったのかは定かではない。
やがてネモは深く息を吐いた。
背中の壁に後頭部をつけて天井を仰ぎ、「責任の取り方はひとつではない」と呟く。
その通りだとブレスも思う。
「こんなところで立ち止まっている場合ではありませんね」
再び青混じりの灰色の目を開いた時には、ネモを押しつぶそうとしていた暗いものはほとんど払拭されていた。
のそりと立ち上がり、ぎこちなく苦笑を浮かべる男を見上げ、ブレスも立ち上がる。
「あなたには助けられっぱなしですね、青年」
「なにを仰るやら。お互い様じゃないですか」
部屋から出てきたネモを見た側近たちは、安堵の面持ちでネモを出迎えた。
小休止はお終いとばかりに次々に指示を下すネモは、すっかりいつも通りに見える。
この島での目的は兵糧の補給。それをすませたら、急いで発たなければならない。
自らも旅外套を翻して市場に向かおうとするネモの背に、ブレスは慌てて呼びかけた。
「ネモ様、ディアナベールって知っていますか?」
「はて……月光の隠語かなにかですかね」
怪訝な顔でそう答え、ネモは宿屋を後にした。
月の精霊のベール、月光か。なるほど。
惜しいところまで近づいている気がするが、あと一歩が届かない。
「月の光……うーん、というかあのブルームーンストーンの目って……いや、まさかな。……あれ? だとしたら……」
『ちょっと、なにブツブツ言ってるのよ』
「あ、ごめんミッチェ」
自力で肩まで這い登ってきたミシェリーを撫でながら、ブレスも宿屋を出て市場へ向かう。
あの白い人魚の叫びにさらされた時に、身につけていた刻印のお守りは殆ど壊れてしまっていた。
叫びにさらされたのはほんの一瞬だったのに、すごい威力だ。
この際なので、買い込めるだけ装飾品を買い込んでおこう。
いつなんどき危険に晒されるかわからない仲間たちに、少しでも護りの魔術をかけられるように。
仕事の出来る男、ネモのおかげでその日のうちに殆どの交渉ごとが終わり、あとは船に品物が運び込まれるのを待つばかりとなった。
役割を果たしたネモは、さすがに疲れた顔をしている。昨日の失態のぶんまで取り戻そうと無理をしたのが、一目見てわかった。
イルダとの約束を護るため、夕方にルーチェに騎乗したブレスを見て、ネモは「私も船に戻ります」と告げてブレスと並んだ。
やることはやったので、ローレライのいるこの島から離れて船室でゆっくり休みたいとのこと。無理もない。
ネモが影から呼び出した魔獣は、ブレスの知らない魔獣だった。
馬と言えば馬だが、四肢が枝分かれして八本脚になっている。
「これはスレイプニルです。馬の中では最も速く、空も駆ける」
「それはすごい。あ、ルーチェ、ごめん」
他の馬を褒めるのを聞いて不機嫌になった愛馬を宥めつつ、急ぐ理由もないのでのんびりと船着き場への道を常歩で進む。
昨日今日と動き回っていたブレスも、なんだかんだあって疲れていた。
うとうとしながら揺られていると、おもむろにネモが口を開く。
「昨夜のことですが」
「もういいじゃないですか、昨日のことは」
「いえ、そうではなく。私が話したいのは、あの人魚のことです」
「ああ、あの人」
いまごろなにをしているのだろうか。海に戻った彼女は、自由を謳歌しているのだろうか。
「人魚からあなたへ、伝言です。約束の証に預けた卵はとても大切ないきものだから、孵化したら海へ返してやってほしいと」
「……たまご?」
卵なんてもらっただろうか。
約束の証、という言葉から記憶を遡って思い出す。
たしか、声を返す時にあの人魚は白くて丸くて軽い石をくれたっけ。
あれが卵だったのか。
懐に入れたまま忘れていた。落としたりつぶしたりしていたらどうしよう、と思ったが、卵はきちんとブレスの懐に収まっていた。
ひとまずほっと息を吐く。
「これ、なんの卵なんです?」
「あー……それについては何も答えてくれませんでしたね」
訳ありなのだろうか。けれど、矯めつ眇めつ眺めてみても、嫌な印象は受けない。
魔術師の勘が反応しないのならば、持っていても問題はないだろう。
「あの人がそう言うのなら、その通りにします。そうしなきゃいけないような気もしますし」
「同感です。彼女は……う」
彼女は? 突然言葉を詰まらせて止まったネモに、ぼんやりと眠い目を向ける。
珍しいことに、彼は三白眼を見開いて顔をひきつらせていた。
この顔を見れば予想もつくというものである。
ネモにこんな顔をさせる生き物なんて、そうはいまい。
「……あとは任せました、青年」
一言そう言い残すなり、彼は八本脚の軍馬スレイプニルで船着き場の方向、空の彼方へ消えていった。
置き去りにされたブレスは、ため息を吐きつつ前方へ目を向ける。
「うちのネモ様をあんまり脅かさないでくださいよ」
「あら、ごめんなさいね」
くすくすと艶っぽく微笑したローレライは、珊瑚色の髪を指先に絡めつつ妖しげに目を細め、「話があるの」と囁いた。
現れたローレライは、神殿で言葉を交わし、純金の珊瑚をくれたあのローレライだった。
ローレライたちは皆似たような色を宿し、似たような顔立ちをしているが、彼女だと判る。
この島の神子と話をするのに、騎乗したままというのも不敬だろう。
ブレスは下馬すると、その場に膝を着こうと腰を屈めた。
その様子を見、彼女はブレスを止めた。
「やめて、必要ないわ。わたしたちが何者か知ってなお、疎まないでいてくれるのは嬉しいけれど」
「疎むって……ああ、この島の人たちは知らないのか。君たちの生い立ちを」
「ええ、そう。知らないから、敬ってくれるの。表向き、オルターナー家は潮の精霊の加護を得て海の乙女たちと交渉し、島を護ってもらう代わりに居場所を与えるという契約を結んだ、ということになっている……いえ、なっていた、かしら。もうあの家はからっぽなのだから」
「そう……」
実際は彼女たちの母親を監禁して己の娘たちを従わせていただけ。
島の住民たちが知れば、いい気はしないだろう。
信仰が砕かれるも同然だ。
「私たちはこの島を護り続ける。少なくとも、この島の人々に拒絶されるまでは、神子を演じ続けるわ。民を愛しているから。邪魔者も消えたしね」
「そっか」
それが彼女たちの総意ならば、ブレスが口を出すことなど何もない。
もう今日は疲れているんだけどなあ、と内心でぼやきながら、ブレスはひとつため息をついた。
「それで、本題はなんです? 貴女はそれだけを伝えに来てくれるほど律儀な生き物ではないですよね」
彼女の笑みが深まる。
「そう。問題は消えてしまったこと。私たち、確かに殺したと思ったのだけれど……」
頬に鱗の輝く手を当てて、わざとらしく困った様子で首を傾げるローレライ。
殺したと思ったのに、消えてしまった。
ブレスは言葉から最悪の状況を想像して、ひくりと頬をひきつらせる。
「どうもね、息を吹き返して逃げてしまったようなのよ、あの男」
やはりそういう話だったか。
もう勘弁してくれ、面倒ごとは十分だ。
頭を抱えるブレスを間近でのぞき込み、ローレライは「あらあら」と上辺で言いながらクスクス笑う。
なかばうめき声のような声で「それで、私にどうしろと」と答えれば、彼女は満足げに目を細めてにこりと微笑んだ。怖い。
「ボルドを捕まえて、連れてきて欲しいの。殺してもかまわないわ。もしお前がそれに成功したら、ディアナベールについて知っていることを教えてあげる」