105話 娘たちの反乱
ボルド・オルターナーは、海牢へ続く階段を降りながら口笛を吹いていた。
愛しい愛しい潮の精霊の娘、世にも珍しい白人魚。
妻であり不老の薬の源、彼女の名前はマルガリーテース。
機嫌良く階段を降りながら、ボルドは先に降りた赤毛の魔術師の末路を思い、愉悦に浸る。
生意気な小僧。もはや二度とその口を開くことは出来まい。
マルガリーテースの血を取り込んだボルドは海の力に守られている。
人魚の血に守られている者に、海に属する生き物の魔法は通じない。
赤毛の魔術師は忌々しいことにローレライの珊瑚を持っていた。娘のひとりが、あの魔術師を選んだということだ。
小僧が何に選ばれたにせよ、所詮は人間の子供。ローレライの珊瑚の守りの力も、精霊の眷属である白人魚の前では気休めにもなるまい。
ボルドは唇を歪めて笑む。小僧は死んだ。マルガリーテースの怒りの叫びに貫かれて、死んだ。
それはどうでもいい。愉快ではあるが、些事だ。
欲しいのは猫だ。あの、尾が別れた艶やかな黒い毛並みの、おそらく妻よりも長い年月を生きた希少価値の高い猫妖精。
「……美しいものは、よいなぁ」
目の届かぬところにあるものまで欲しようとは思わない。だが、それが目の前に現れたならば、手を伸ばさずにはいられない。
マルガリーテースはそうして手に入れた。大枚を叩く価値のあった、特級品だ。
もちろんいまでもボルドは彼女を愛している。七百年を過ごしても、損なわれることのなかった白人魚の美しさを。
あの黒猫もコレクションに加えるとしよう。
機嫌良く階段を下り終え、ボルドはにぃっと唇をつり上げる。海水の縁に座っている黒猫の背中を、舐め回すような目つきで見つめながら、ゆっくりと足を進める。
飼い主が海に引きずり込まれて途方にくれているのか、黒猫はじっと座り込んで身じろぎもしない。
ボルドは手を伸ばした。黒猫が振り返る。
「……あぁ?」
金色だったはずの両眼が、見慣れた海の目に変わっていた。違和感が危機感にすり替わり、ボルドは一歩足を引く──が。
背後に娘が立っていた。
珊瑚の髪の海の目をもつローレライは、人魚の美貌に冷たい微笑みを浮かべてボルドの横腹を何かで刺し貫いた。
熱を感じた。視線を落とす。腹から刃物が突き出ていた。
シャツに広がる赤い染みとともに、じわじわと、恐怖心が迫り上がる。
「わたしたちの魔法は通じない。でも、人間の武器だったらどうかしら、お父様?」
くすくすと耳元で娘が笑う。水辺を振り返れば、黒猫が座っていた場所には海の目を持つもうひとりの娘。
まやかしの魔術だ。誰がやった。あの小僧か。
それだけではない。
鉄格子で塞がれていたはずの水辺から、次々に娘たちが上がってくる。
濡れ髪を肌に張り付かせ、虹色の鱗の光を纏い、海の目を残忍な衝動に染めて、ローレライたちはボルドを取り囲んだ。
「なん……なんのつもりだ、馬鹿娘どもがぁあ!」
目を血走らせて怒鳴るボルドへ、ひとりのローレライがあざ笑うように告げた。
「もはやお前の娘ではない」
一斉に飛びかかり剣を振り上げる海の乙女たちの中で、ひとりの男の絶叫が響く。
人魚にも人間にもローレライにもなれなかった使用人の混血児たちは、姉妹らが支配者を圧倒する様を、目に焼き付けるようにしてぎらぎらと見つめていた。
やがて静寂が訪れ、ただ波の打ち寄せる微かな音のみが残った。
かつて檻であったこの洞窟での出来事を知る者は、海の眷属と、ひとりの赤毛の魔術師だけ。
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ぶは、と海面から顔を出し、ブレスは思い切り空気を吸い込んだ。
シャツの中に潜っていたミシェリーもずぶぬれでブレスの肩まで這い上がり、うんざりした様子で海水をはね飛ばす。
死ぬかと思った。白い人魚の望み通りに刻印で鉄格子を破壊し、洞窟から脱出したはいいものの、人魚はブレスの手を取ったまま洞窟から船着き場まで一度も海面に上がらなかったのだ。
おかげで意識がブラックアウトする寸前だった。
咳込みつつぜえはあと荒い呼吸を繰り返すブレスを、白い人魚は心なしか申し訳なさそうに見ている。
「あのね、人間は! 水中で息が、出来ない生き物なんですからねっ」
「……すまなかった」
殊勝な様子に溜飲を下げ、空を見上げる。まずい、もう夕暮れだ。
ここからどう行けばネモのいる宿まで早いだろうかと焦っていると、頭上を人影が横切った。
「いた! フィル、こっちよ!」
「エチカぁ……!」
これが天の助けか。思わず情けない声が出てしまったが、エチカは気にした様子もなく海面すれすれまで降りて来る。
「どうしようかと思ってたんだ、助かったよ……」
「なんでよ。飛ぶなり二角獣を呼ぶなりすればいいじゃない」
「出来たらやってる。無理、疲労困憊、たぶん陸に上がったら一歩も歩けない」
「……最後の連絡の後なにがあったの」
青灰色の目が心配そうにブレスをのぞき込む。人魚の叫びを浴びたせいだ。気遣いはありがたいが、今はそれどころではない。
「頼む、エチカ。ルナ、じゃなかった、ダイアナを貸してくれ。人魚の涙は数秒で真珠になっちゃうらしくて、ネモ様に涙を飲ませるにはこの人を連れていくしかないんだ」
「この人ってだれよ」
エチカが怪訝に眉を寄せる。あれ、と思い見回すと、白い人魚はブレスの後ろに潜って隠れていた。
「ちょっと! 恥ずかしがってる場合じゃないんですよ!」
水中に向かって声を上げると、白い人魚は恐る恐るといった様子で海面から顔を出した。彼女を見たエチカの顎がかくんと落ちる。
「な……なにがどうなってそうなったのよ……っていうか! 必要なのは人魚の涙じゃなくてローレライの涙なんでしょ!」
「この島のローレライはみんなこの人の娘だから、この人の涙のほうが効きが良いらしいよ。それにローレライたちはいま……その、忙しいし」
微妙に言葉を濁すとエチカはぴくりと眉を動かしたが、はあ、と大きく息を吐いて首を振った。
「後で聞くわ。わかった、そちらの、人魚さん? 一緒に来てくださる?」
「大丈夫です、彼女は信頼出来る仲間ですから。エチカ、用が済んだらすぐにこの人を海まで送ってあげて」
「わかったわ。約束する」
きっぱりと頷いたエチカの様子を見て、信用に足る相手であると思ってくれたのだろうか。白い人魚は腕を伸ばし、エチカはしっかりと彼女の手を掴んだ。
「いい、ひとまず陸に引っ張り上げるわよ。〈姿隠し〉の印を描くけど、お願いだから攻撃したりしないでちょうだい、人目を引いたらまずいから。で、フィルはどうするの」
「俺はなんとか、〈耳〉を通じてマリー様に助けてもらうよ」
「そう、考えがあるならいいわ。それじゃあ、また後で」
「ネモ様を頼む」
「ええ」
白い人魚を連れてエチカが去り、ブレスは大きく息を吐いた。
立ち泳ぎをやめて水面に大の字に浮かびながら、己の懐を探って〈耳〉を取りだし、話しかける。
「……マリー様、任務完了です、涙は確保しました。いろいろあって、いま船着き場のあたりの海を漂っているので、助けてください……」
『ちょっと! まだ寝ちゃだめよ! 溺れるわよ!』
胸の上に乗ったミシェリーの肉球がばしばしと頬を叩く。痛いんだか幸せなんだかよくわからない。
疲れ切ってクラゲのように漂っていると、すぐにマリーの寄越した救助隊がやってきてブレスを引き上げてくれた。
甲板に倒れ込んだブレスをのぞき込み、豪奢な赤毛の魔女が呆れ顔でため息を吐く。
「フィー、病み上がりなのに無茶しすぎ」
「あはは……一時間たったら、起こしてください……」
返事を聞く間もなく、すとんと意識が落ちた。
起こしてもらった時には、空にはすでに星々が瞬いていた。
〈耳〉の通信で話を聞くところによると、ネモは無事ローレライの呪いから解放されたらしい。
「ネモ様、ぎりぎりだったわよ。わたしたちが到着した時、ネモ様ったら宿を出ようとしてたの。引き止める側近たちを魔術ではね飛ばしながらね。人形を召還してフェイン様と一緒にどうにか押さえ込んだのだけど、近くでみたら、ネモ様の目に魚が泳いでいた。たぶんもう少し遅かったら、海に身投げしていたんじゃないかしら」
ぞっとする話だ。白人魚の涙を摂取して正気に戻ったネモは、己が側近を傷つけてしまったことにひどく落ち込んではいたものの、体調も精神状態も正常、もうなんの心配もない、とのこと。
白い人魚も、約束通り海に送り届けてくれたそうだ。
「結局、魔力にあてられるってどういう事だったんだろうな」
「さあね。たぶん、体内に入り込んだ異質な魔力に対して拒絶反応を起こすようなものだと思うけど……でもあの時のネモ様はそれだけじゃなかったわよ。あれは人魚の呪いだったわ」
「ああ、それはたぶん、そうだ。ローレライは故意にネモ様を呪ったんだって」
屋敷の地下、洞窟の狭い海の牢獄に閉じこめられていた白い人魚の話をすると、エチカはしばし絶句して、そうだったの、と呟いた。
「最後の連絡で、ミシェリーから人魚の存在は聞いていたけど……そんな事情があったなんて」
「うん。結果的にはあの人を助ける事が出来たから好かったけど、ローレライたちにはすっかり利用されたよ。まったく」
「母親が閉じこめられている限り、ローレライたちはあの男に従うしかなかった……でも、それでこの島のバランスは保たれていたわけよね? この島、これからどうなるのかしら」
「さあね、知らない。それは彼女たちが決めることだ。俺は嫌だな、誰かの犠牲を代償に平和を買うだなんてさ」
「けど……」
〈耳〉の印の向こう側で、エチカが言葉をのむ。彼女の言わんとすることはわかる。現実は、そう甘くはない。
たいていのものは犠牲を払わなければ手に入れることは出来ない。けれど。
「望んで差し出すとか、納得して協力するとか……今回のことは、そういうものじゃなかった。一方的な支配と搾取だった。それを仕方ないで済ますような人間には、なりたくないんだ。
きれいごとだけど……だってさ、必要だろう? 役に立たない正論を並べて、きれいごとを信じる奴が少しくらいはいなきゃ。
そうじゃなきゃ、百年後にはきっと正しいことなんかひとつも残らない。本当は善も悪もないけど、でも概念だけは残さなきゃいけない。そうじゃなければ、きっと秩序は崩壊する」
「百年後なんて……まったくもう」
生き残れるかもわからないのに、とエチカが優しく笑った。ブレスも苦笑を浮かべる。
「言うだけならタダだからさ」
「もういいわ。わかった」
「わかったって、なにが?」
「あんたがどんな人間なのかってこと。諦めたわ」
「なにそれ」
仕方なさそうに笑うばかりのエチカは、結局答えてくれなかった。まあいいか、と思う。ブレスはエチカを信じている。
「じゃあ、おやすみ。動けそうだったら明日、こっちに戻ってきてね。ネモ様が話したいみたいだから」
「ああ、わかった。それじゃ、また明日」
〈耳〉の印に込めていた魔力を散らし、ブレスはふう、と息を吐く。
ずいぶん忙しい一日だった。ボルドが結局どうなったのかは定かではないが、おそらく無事ではいられまい。
捕らえられていた人魚を助けた代わりに、ひとりの人間が死んだ。
「平穏と犠牲。結局、きれいごとか……」
自嘲に目を伏せると、黒猫がやってきてブレスの手の下に潜り込んだ。
金色の目がいつも通りにブレスを見上げている。
『イルダに会いに行かなくていいの。約束したんでしょう』
「……そうだね。ありがと、ミッチェ」
毎晩会いに行くと約束をした。終わってしまったことはどうにも出来ないけれど、すべき事があるならばそれに向き合おう。
「さて、今夜もどうせあの部屋で寝落ちするだろうから、毛布でも持って行こうかな」
『……はぁ。もう、本当にどうしようもないひとね……』
「それ、エチカも似たようなこと言ってたんだけど、なんなの?」
『どうせ言ったってわからないわよ』
他愛のない話をしながら船を渡り、イルダのいる甲板下層部を訪ねる。
またか、という諦め顔のイルダを相手に今日あった出来事を面白おかしく話しているうちに、いつの間にか眠ってしまったのは予想通りのこと。
予想外だったのは、気配を感じて夜中に目を覚ましてしまったことだ。
気づいているのはブレスだけで、ミシェリーもイルダも眠っている。
「……なんだ?」
人の気配ではない。人魚やローレライとも違う。なぜ誰も気づかないのか。
強いものだ。本来であればずっと遠くに在り、ブレスの手も届かない、見ることも許されないような、そういう存在だ。
一瞬の迷いを捨てさり、ブレスは立ち上がる。
用があるから来たのだろう。呼んでいるからブレスを起こした。
呼ばれているのならば、行かなければならない。
扉を開け、甲板への階段を登る。青白い満月が頭上に煌々と輝き、癒しの光を降り注いでいる。
その月光の下、帆船の縁の一角に、ひとりの男がいた。
長い黒髪を頭の高い位置でくくったその男は、ゆっくりとブレスに首を向ける。
青い目。海の目ではない。宝石の目をしていた。
サファイアだろうか。いや、違う。これは月の石だ。
青白く光を反射する、青月長石の両眼。
「ディアナベールを知っているか」
その男はブレスを見据え、淡々とそう問いかけてきた。