104話 囚われの丘
この屋敷を知っている。
ローレライは言っていた、この島の顔役に会いたければ丘の上の青い屋敷に行くといい、と。
「なんで島のお偉いさんの家にローレライが?」
『権力を持つ者同士が繋がっていることは、別に珍しくないわ』
「そうだけど……」
島の秩序を保つために、やりとりをしているのだろうか。
けれど、どうやって?
この島の人間は確かにローレライに守られてはいるけれど、彼女たちは声を聞いただけであのネモが死に瀕するような、危険な生き物だ。
人間が対話できるとはとても思えない。
「とにかく行ってみるしかないよな。なんか、すごい嫌な予感するけど」
『またそれなの。まったく、魔術師って生き物は、勘だの予感だのと……』
「ミッチェの嗅覚みたいなものだよ」
生意気ね、フスン、と息巻く黒猫をルーチェから抱き上げ、ルーチェを撫でて労い、影に戻す。
目の前の扉には、真鍮で出来た人魚を象ったドアノッカー。
ふう、と一呼吸で心を落ち着かせ、ブレスは屋敷の扉を叩いた。
「おや、珍しい。我が家に客人がやってくるとは」
若い女の使用人に案内され、通された客間。
ソファに座って待つこと数分、現れたのは日に焼けた肌の精悍な男だった。
プラチナブロンドの短い髪に、真っ青な目。青いけれど、目のなかに魚は泳いでいない。
鍛えられた体つきや纏う空気がどうもアスラシオンを彷彿とさせる。
アレと同種の人間だったら嫌だなぁ、と一瞬妙な顔になったブレスをどう思ったのか、男は片頬だけで笑って握手の手を差し出した。
「私はこの島の主にして父、ボルド・オルターナー。君は、魔術師かな?」
「初めまして、オルターナー卿。仰るとおり、私は魔術師です。未熟者ではありますが」
「魔術師の習慣は知っているよ。みだりに名乗らないのだろう。なに、私は気にしない」
「……それはどうも」
握手に応えながら、作り笑いを浮かべる。物わかりが良すぎる人間は二通り、従順か嘘つきか。
男は向かいのソファに腰を落ち着けると、それで、と訊ねる。
「魔術師殿が、この屋敷に何用でいらした? たったひとりで」
まるでひとりで来たことを嘲るような言いぐさだ。愚かだと言いたいのか、間抜けだと言いたいのか。
ミシェリーのしっぽがぴしりとブレスの腕を打つ。ボルド・オルターナの目が数秒だけ黒猫の二本のしっぽに釘付けになった。
「我々の仲間が、ローレライの魔力にあてられ倒れました。古き大魔女に助けを求めたところ、彼女たちの涙が唯一の治療薬であるとわかったのです。それで私は、ローレライの気配を追いこの館へ」
作り笑いの下で油断なく目の前の男の変化を観察する。
先ほどからイライラと尻尾をうねらせているミシェリーの額を撫でつつ(彼女もアスラシオンを思い出してしまったらしい)、ブレスは相手の答えを促す。
「率直に申しますが、いまこの館にいるローレライとお会いしたい。可能でしょうか、オルターナー卿」
「いま、この屋敷にいる、と? 確信がおありのようだ。しかし仮にいたとしても、問題がある。果たして君に、彼女たちと会話することが出来るかどうか」
もう片方の頬もつり上げて、オルターナ卿は見下した笑みを浮かべた。
(やっと本当の表情を出したな)
この男は気位が高い。島の主にして父、と大言を吐き、ブレスを子供だと思って挑発している。
しかし、その言葉のおかげで何がこの男の自信を過剰に高めているのかが解った気がした。
おそらくこの男は話せるのだ、人魚の魔力を持つローレライと、言葉を通じて。
ならばこちらにも手だてはある。
ブレスは作り笑いを浮かべたまま懐を探り、あるものをテーブルに置く。それを見たとたん、ボルド・オルターナの余裕が一瞬にして崩れた。
「……それは。その珊瑚は、どこで手に入れた?」
「これは昨日、彼女たちの神殿で証として授けられたものです。上陸の許可を頂くため、挨拶に伺ったおりに」
「挨拶、だと」
「美しい声でした。歌を聞くことが出来ないのが惜しいですよね。人魚の呪いがなければ、世界中の誰ひとりとして叶わぬほどの歌い手でしょうに」
ボルドは口を閉じ、開きかけ、再び閉じた。もはや先ほどまで充満していた余裕は消え失せている。
「それで」
珊瑚を懐にしまい、ブレスは再び視線を上げてボルドを射抜いた。
声音はあくまでも柔らかく、笑みを絶やさずに話を続ける。
「彼女たちを呼んでいただけるのでしょうか、オルターナ卿」
「……チッ。おい、地下へ案内してやれ」
苦々しい表情を浮かべて、ボルドはそう吐き捨て、顔を背けた。
ローレライと話せることがこの男の自尊心を支えているのならば、同じ力を持つブレスを無碍には出来ない。
それを否定すれば、己自身を否定することと同義だからだ。
「ご親切に感謝を」
にっこりと笑いかけると、ボルドは引き攣った作り笑いを浮かべた。
皮肉は通じたらしい。
案内役の使用人に続いて地下への階段を下りながら、ブレスは空気を嗅ぐ。ほのかに磯のにおいがする。
「あの、どこまで降りていくんです?」
先を歩く若い女に声をかけるが、彼女は返事をしてはくれなかった。虚ろな水色の目を揺らしながら、首を振って下を指し示すだけだ。
ミシェリーと顔を見合わせ、おとなしく付いて歩く。
この屋敷は丘、言いようによっては崖の上に立っている。
地下に降りていくということは、崖の中を降りていくということだ。
地震でもおきれば崩れ落ちそうだと心配になってくるが、ローレライとつき合いがあるくらいだ、魔法に護られているのだろう。
『水の音が聞こえる。潮のにおい……ねえ、この先にあるのは海よ』
「ああ。こんなところにローレライの気配がある理由が解ったね」
この屋敷は地下道を通じて海と繋がっているのだ。
地下階段を降りていくうちに、何人かの使用人と合流した。
この屋敷の使用人は皆、若い女だ。
似たような顔立ちに、揺らめく水色の目を持つ彼女たちは、いくら話しかけてもひとことも言葉を返してくれない。
(ミッチェ。彼女たち、血が混じっていると思わないか?)
念話で話しかけると、ミシェリーは無言で頷いた。
やはりそうなのだ。
人魚ではない。ローレライでもない。しかし、人間でもない。
階段を降りるにつれて、胸のなかの嫌な予感が膨らんでいく。
マリーは、ローレライが人魚と人間の混血であると言っていた。
だとすれば、なぜ、混血が生まれた?
吟遊詩人の残した伝説には、陸に上がった人魚が人間と恋に落ちる物語や、人魚に選ばれた男が海に迎え入れられる物語もある。
けれどこのあたりの人魚は人を食らう。知能も低い。人間と恋愛関係にはなりそうにはない。
どんなにひかれる物を持っていたとしても、餌に恋はしないだろう。
先を行く混血の使用人の女が足を止めた。行き止まりは洞窟だった。
天井に下がるつらら石、足下をぬらす海水、岩にこびり付く金色の貝殻、そして。
洞窟の奥は海に繋がっていた。水の中から現れたのは、濡れ髪を肌に張り付かせたひとりの女。
小さな魚の泳ぎ回る海の目を持ち、珊瑚の亡骸のような白い髪のその女は、ブレスを見るなり薄い唇をそっと開いた。
(──まずい!)
女が耳をつんざくような声を発するのと、ブレスが言霊で「黙れ!」と叫んだのは同時だった。
全身の骨がきしむような衝撃ののち、ブレスはよろめいてその場に膝をつく。
背が冷や汗でびっしょりと濡れ、指先がしびれて震えていた。ああ、きっとあの時ネモはこんな状態だったのだ。
顔を上げれば、ほんの数メートル先には喉を押さえて取り乱している白い髪の女がいた。
白地に虹色の鱗を散りばめた、魚の下半身をもつ女だ。
案内人の混血の女たちは、衣服が濡れるのにもかまわずに彼女に駆け寄り、ある者はうろたえ、ある者は敵意のこもった目でブレスを見つめ、人魚を守るように寄り添っている。
深呼吸を幾度か繰り返し、ブレスは立ち上がる。
「……ミシェリー、大丈夫か」
『なんとかね。お守りのおかげ』
「よかった。じゃあちょっと聞きたいんだけど、人魚に人間の言葉って通じると思う?」
『お前、あれと話をするつもりなの?』
正気を疑うような目で見上げるミシェリーに、ブレスは真顔で頷く。
ミシェリーに〈耳〉を通じてエチカたちへの状況説明を頼み、ブレスはゆっくりと洞窟の人魚に歩み寄った。
最奥には海面が見える。しかし人魚に自由はない。
洞窟の出口は鉄格子で塞がれていた。
ボルドは彼女をここに閉じこめているのだ。
声を封じられた人魚は恐ろしい形相でブレスを睨みつけているが、その表情には怯えが見えた。
己の最強の武器が通じない相手、と警戒されているのならそれは少々過大評価だ。
「オルターナー卿はローレライたちと話せるようだけれど、あなたとも話せるのですか?」
岩に腰を下ろしながら、ブレスは人魚と相対する。
(というかあいつ、ローレライに会わせてくれと言ったのにこんな場所に案内させるなんて。さては生きて帰さないつもりだったな、こんにゃろ)
言霊が使えなかったら確実に死んでいた。おのれ、ボルド。嘘つきめ。
内心で恨み言を吐いていると、白い人魚が微かに敵意をゆるめた。
思念は読みとれるようだ。
もしや彼女も、あの男に恨みがあるのだろうか。
「……言葉は、わかりますか?」
側女たちがこくこくと頷く。白い人魚も、ゆっくりと頷いた。
「あなた方と話がしたい。攻撃しない、こちらに害を成さないと約束するなら、あなたに声を返します。約束してくださりますか?」
『ちょっと! それは早計なんじゃニャいの!?』
「信用してもらうためには、まずこちらから信用しないと」
それに魔術師と魔物が約束を交わすということは、人間同士の口約束とはわけが違う。契約の一種なのだ。
白い人魚は人間の言葉を理解できるくらいには知能もあるし、感情もある。それならば、約束は有効なはず。
白い人魚は、魚影の泳ぐ海の目でじっとブレスを見つめ、何かを考えている。
やましいことは何もないので、彼女の探るような目を正面から見つめ返すと、やがて人魚は小さく顎をひいて頷いた。
「本当に? 約束を破った場合、一生声を失うことになってしまいますよ」
その代わり、今ブレスが彼女に声を返せば、ブレスはもう一生彼女の声を奪えなくなる。
人魚は再び頷き、一度海に潜ると底から綺麗な丸い石を持って戻り、濡れたそれを差し出した。
約束の証、ということだ。
大きさの割には軽いその石を受け取り、ブレスは頷いた。「解放する」と呟く。
人魚はほっとした様子で肩を落とし、側女たちも安堵の表情を浮かべた。
「人魚にとって声は命よりも大切なもの。礼を言う、賢明な人間の子よ」
透き通ったか細い声が言う。
思わず目を丸くするブレスに向かって、白い人魚は弱々しく首を振る。
「すべての人魚が人間を喰らうわけではない。私は七百年前、〈北の最果て〉の氷の海から浚われてやってきた、古い血族の人魚だ。この家の主が見せ物小屋から私を買って、助けてくれた」
「買うことを助けるとは言わないでしょう」
ブレスの言葉に、彼女は悲しげに微笑んだ。
「当時の私は人間を知らなかったのだ。それに……はじめは優しかったのだ、あの男も。けれど、私の血を飲み、生きながらえ、変わってしまった。ボルドは怪物だ。私などより、ずっと恐ろしい」
「……待って。待ってください、ボルド?」
人魚を相手に会話できた驚きや感動が一瞬で消え失せ、ブレスは耳を疑った。
「先ほど上で会ってきた男の名もボルドなんですけど、じゃああの男、七百年もこの島で生きているんですか?」
「そうだ。私は妻、妻だった、昔は。血で結びついてもいいと思った。今は違う。彼はいま、私の血を得るためだけに、私をここに閉じこめている」
「妻……じゃあ、ローレライたちは」
「みな、私とボルドの娘だ。この子等も。すべての混血の娘が、力を持つとは限らない」
ローレライや側女たちは、すべてこの人魚から産まれた。ボルド・オルターナーが「島の主にして父」だと言っていたのは、言葉通りの意味だったのだ。
虫酸が走る話だ。
『ちょっと。目的を忘れてない?』
険しい顔で眉間を寄せるブレスに、ミシェリーが釘を指した。
そうだ、時間がない。
ネモを助けるために、涙を求めてやってきたのだから。
「あの、よろしいでしょうか。実は、我々の大切な仲間のひとりがローレライの声の魔力にあてられて、今日中に彼女たちの涙を飲まなければ死んでしまうのです」
白い人魚はわずかに目を見張った。
海の目が、光を透かした海面のようにゆらゆらと揺らめいている。
「私の娘は、理由もなく人間に害を成しはしない。娘の魔力の影響を受けたのならば、娘は故意にそうしたのだろう」
「……そうか、なるほどね。俺たちをここに導くためにってこと」
解っていたつもりだったが、あのローレライは想像以上のくわせものだ。
神殿に現れた彼女はネモにわざと呪いをかけ、この屋敷の存在を吹き込んだ。
すべては母であるこの人魚のもとに、ブレスを誘導するために。
「じゃあ、取引をしましょうか。我々はローレライの涙が欲しい。あなたは、その対価に何を望む?」
手のひらで転がされたことへの少々の腹立たしさと、してやられたことに対する一種の感心を混ぜて、ブレスはにっと笑う。
ここまでお膳立てされたのだ。娘の策に乗らない手はない。