103話 特効薬を探せ
ネモという男と共に過ごして解ったことがひとつある。
この男は不調をほとんど表情に出さない、ということだ。
ただ単に表情が乏しいのかもしれないし、スティクス候付きネモとして生きるうちに弱みを見せないよう変化したのかもしれない。
とにかく表情が変わらないまま顔色だけが変わり、そしてそうなった時にはもはや倒れる寸前なのだから、周囲はどうしようもない。
「ローレライの神殿にいた時のネモ様、なんというかちょっと強ばってたんですよ。いま思うと、あの時からずっと調子が悪かったのかなって……」
神殿を出てすぐに立ち直ったように見えていたが、実際はそう装っていただけだったのかも知れない。
エチカやフェイン、ネモの側近たちで寝台の上のネモを囲みながら、ブレスは反省しつつ事情を話している。
「気づかなくても仕方ないわよ。だってネモ様、顔色悪いのがデフォルトじゃない」
心配はしているが呆れてもいるエチカは、ネモの脈をはかりながら身も蓋もないことを言った。
実際、その通りではある。一同苦笑。
「ローレライの魔力にあたったって言ってたんですけど……」
ブレスは魔道学の本を行く先々で読み漁っているが、「魔力にあたる」などという症状は読んだこともなければ聞いたこともない。
こういう時にカナンがいれば話は早いのだが。
そんなことを考えつつ皆を見回すが、誰も心当たりはないようだ。
このなかでは一番の年長者がネモなので、ネモの代では広く認知されていたことが後世には伝わらなかったのかも知れない。
エチカがため息を吐きながら首を振る。
「マリー様に訊きに行くしか無いわ」
「だよね。そうだ、ミッチェは、知らない?」
『知らニャい。だってわたし、ほとんど無敵のサハナドールの飼い猫だったのよ。ひ弱な魔術師のかかる病のことなんかわからないわ』
「ひ弱……」
ネモの側近が顔をひきつらせている。
(こら、ミッチェ。このひとはスティクス領で一番の魔術師だし、彼らの上官なんだから)
毛並みを撫でながら念話で話しかけると、ミシェリーはブレスを見上げて「しまった」という顔をして、側近たちに弁明をする。
『サハナドールと比べたら人間の魔術師はみなひ弱という意味よ』
「……ええ、はい。お気遣いありがとうございます」
黒猫妖精に頭を下げる側近一同を、エチカが面白がって眺めている。
ブレスはミシェリーを腕に抱いて立ち上がった。
マリーに話を聞きに行くのなら、船着き場に戻らなければならない。
「あら、待ってよ。わたしが行くわ、フィルは今朝戻ってきたばかりでしょ?」
「え、でも……たぶん俺が一番早いと思うよ、ルーチェがいるし」
「わたしにだってルナがいるわ。今の名前は、ダイアナだけど」
話を聞くと、エチカはシグリーやカナンと共に王都へ向かう道のりで月毛の二角獣ルナをカナンから譲り受けたらしい。
ルナはエチカによく懐いていたから、使役に下るのも時間の問題だったのだろう。
「そっか。おめでとう」
二角獣がいるのなら、なんの問題もない。
心からお祝いを言うと、エチカはうれしそうに笑って頷いた。
「ありがとう。じゃ、行ってくるわね。フェイン様やみなさんは他にご用はない?」
「もし良ければ、今後〈耳〉の印を使って連絡を取っても良いか伺ってくれないだろうか。君は秋の君と親しいようだから」
「わかったわ、フェイン様。フィルは大丈夫?」
「ああ、そうだな。じゃあ、マリー様の言ったとおりローレライは確かにちょっと怖かったって」
「フィルらしいわね」
呆れ混じりに苦笑して肩を竦め、エチカは部屋を出ていった。レシャが音もなくドアを閉める。
相変わらず沈んだ表情のレシャをちらりと見上げ、ブレスはフェインに横目を向けた。
フェインは横たわるネモの身体を調べている側近たちの動作を、興味深そうに見つめている。
「君たちは医術師か? 手慣れているね」
「いえ……我々はただの側仕えです。このお方の特殊な職業柄ゆえ、魔道や医学、そのほか諸々の知識を一通り学んでいるだけで」
「そうか。優秀な側仕えだ」
感心した様子で頷くフェインと困り顔の側近たちから、ブレスはそっと目をそらした。
彼らが優秀なのは、ネモの足りない部分を補うために側近組で連携しつつ、毎日が全力だったからだろう。
有能だが虚弱、そのうえ休むことを知らないネモに仕えることがどんなに大変なことか、ブレスにはよく解る。
『人のこと言えないんじゃニャいの。カナリアもお前の側にいたとき、似たような気持ちだったのかもしれないわ』
「あ……そうかな。だったらそれは、後で謝って、たくさんお礼を言わないといけないね……」
カナンは春の乙女のもたらす運命と、彼自身の善意によってブレスの目的に協力してくれたけれど、いま思えばブレスは能力が足りないのに突き進むばかりで、カナンやマリーの心情を考えたことがなかった。
神様だからなんとでもなるだろうと、無意識のうちに思っていたのかも知れない。
だが、カナンは友人を失えば悲しむし、己の信仰者が道を間違えれば嫌悪に陥りもする。
弟子が痛めつけられれば、それも計画のうちであったことも忘れてしまうくらいには、激しい感情だって持っている。
自分がいっぱいいっぱいだと、つい協力者の負担を忘れてしまいがちだけれど、それではいけないのだ。
ネモの側近たちと会話するフェインと、背後に佇むレシャを前にそんなことを考えていると、エチカが駆け戻ってきた。
ずいぶん早い。
「おかえり、早かったね?」
「ええ、急いだの。で、マリー様にフェイン様が言っていた〈耳〉の印の通信を伝えたら、じゃあ〈耳〉を通して話すから後でねって」
「そうか。なるほど」
エチカが差し出したのはマリーの魔力で〈耳〉の印が描かれた水晶である。マリーはエチカに伝言するよりも、耳から耳へ直接話したほうが良いと判断したのだろう。
印の描かれた水晶をネモの胸のあたりに置いて、エチカは小さく咳払い
をして話しかけた。
「マリー様? 聞こえますか?」
「聞こえてるよぉー」
すぐに間延びした返答が返ってくる。ブレスは思わず笑ってしまった。
「あ、いま誰か笑ったな? フィー? フィーでしょ、なんだよう」
「すみません、マリー様がいつも通りだと、なんだかとても安心するなと思って」
「え、あ、そう? えへへ、そうさぁ、あたしは大魔女マリダスピルだからね。無垢な心を失った代わりに強くなったこのあたしに、耐えられないことなんか何にもないのさぁ。えっへん」
あんたが相手だと話が進まないじゃないのよ、とエチカがブレスを突っつく。
ごめんごめんと手振りで謝りつつ、ブレスは諸事情を説明して現状を話した。聞き終えた彼女は高い声で叫ぶ。
「ああぁ、だからローレライはやばいって言ったじゃん! なんで会っちゃうかなぁ! もっとこう、間に地元民を挟むとかさぁ!」
向こう側で頭を抱えているのが目に浮かぶようだ。
迂闊だったことについては何も反論出来ないので、おとなしく謝りつつ解決策を訊ねてみれば。
「今日、日が暮れる前にローレライの涙を一粒ネモに飲ませるんだ。いい、絶対に今日中だからね。そうしないとネモ、死んじゃうよ」
血の気が引くような答えが返ってきた。
なんてことだ。
時間に制限がかかる以上、議論は後。
ブレスはふところを探って適当な石に〈耳〉を刻印すると、それをマリーの〈耳〉の横に置いて立ち上がる。
「ローレライを探して来ます。事情を話せば協力してくれるかも」
「私も行くよ。彼がこの島に上陸したのは、もとはと言えば私のせいだ」
応えたのはフェインである。ローレライの魔力がフェインにどう影響するのか読めない以上、共に行くのは躊躇われたが、ひとりよりはふたりのほうがいい。
一方が動けなくなったとしても一方が戻ることが出来れば、動けなくなったほうの生存率があがる。
「レシャは残って連絡役を勤めてくれ」
「はい、フェイン様」
「待って、じゃあわたしも行く。人魚の魔力は女には効きが弱いんでしょ? 万が一、あなたたちが動けなくなったときに役に立てると思うわ」
「たしかに。それは心強いよ、ありがとエチカ」
ひとりよりふたり、ふたりより三人。エチカには二角獣もいるし、七体の人形もいる。
これで危機に瀕した時の対策は打てたことになる。
ブレスは〈耳〉を刻印した石をふたりに手渡しながら宿屋を出、風を纏って舞い上がった。
「とりあえず海の神殿に行ってみましょう。ローレライがいるかも」
「一番危険なところだけど、命がかかっているんじゃあ仕方ないわよね」
エチカはちらりとフェインを横目で見つつ、困って眉を下げている。正直なところ、ブレスはエチカと同感だ。
ローレライの魔力に耐性のあるブレスと、女であるエチカはいいとして、どうなるか予測がつかないフェインを神殿に連れて行くのは気が引ける。
「そんな不安げな目で見ないでくれ。大丈夫、私はわきまえているよ。ローレライには近づかない。必要に迫られないかぎりは」
ミイラ取りがミイラになってしまってはね、とフェインは苦笑する。ふたりはほっと息を吐いた。
ところが急を要する時ほど物事とはうまく運ばないもので、海の神殿はもぬけのからだった。
崩れかけの神殿に、彼女たちの気配はひとつもない。
「ちょっとどういいうこと? 廃墟じゃない!」
「たしかにここだったんだ。この岩にネモ様が手を付いたのを覚えている」
「まやかしだったということはないだろうか。ローレライたちは常在しているわけではなく、必要に応じて現れる。人間ではないのだから、人間のように振る舞う必要はない」
「フィルが見た神殿はローレライの魔法だったってこと? どうしよう、それじゃあ……」
手掛かりがない。島中をしらみつぶしに探すしかない。
間に合うだろうか、もし間に合わなかったらネモは──。
「とにかく、こういうことは地元の人に聞くのが一番だ。昨日ローレライに会った時も人伝手に聞いて会えたのだし」
嫌な想像を振り払い、ブレスは懐の純金の珊瑚を握りしめた。
まだ時間はある。彼女たちは話が通じない怪物などではない。
「〈耳〉で連絡を取りながら手分けして情報を集めよう」
フェインの言葉にいちもにもなく頷きながら、ブレスは再び空へ舞い上がる。
島民たちに聞いた話をまとめると、ローレライたちが昼間に神殿に現れるのは月に三度、それから年の始めと終わりの数日。
彼女たちはそれ以外の日は海や島を自由に行き来しており、夜になると島の入り江に集って魔除けの儀式を行うが、その歌声を聞いた人間は人魚の呪いを受けて海に身投げして死んでしまう。
だからこの島では、真夜中以降の外出が禁じられているのだ。
島民たちが住む家々は、彼女たちの魔法によって日が完全に登るまでドアが開かなくなるらしい。
要するに、ローレライは夜になれば姿を現す。
しかし、マリーは「今日中に」と言っていた。
夜を待っていては間に合わないということだ。
「マリー様、先生は人探しが得意だったんです。あれはどうやって探していたんですか?」
「あれは人間には無理だよ。あ、でも夜の生き物だったら気配くらいは追えるかもしれない」
もどかしい思いでマリーの〈耳〉に話しかけると、そんな答えが返ってきた。
時刻は昼。日暮れまであと六時間もない。
ブレスはルーチェを影から呼び出した。二角獣は魔獣、すなわち夜の生き物。
ルーチェにはたしかに探知能力がある。ひとつめの呪いの解呪のときに逃げ出したエチカを探し出してくれたのは、ルーチェだ。
「ローレライを探しているんだ。気配を追えるか?」
ミシェリーの通訳によると、「やってみる」とのこと。
騎乗し、ブレスは駆け出しながらフェインとエチカに情報を共有する。
時刻が迫っていることに焦りを感じながら、やがて行き着いたのは丘の上の青い屋敷だった。