101話 ローレライの魔力
きらきらと鱗の光を纏う半人魚を前に、ふたりはしばし言葉を失った。
まさか当のローレライが出てくるとは思いもしなかったのだ。
ネモはこの島の顔役との面会を求めており、ブレスはその意に応えるべくして道を訊ねていた。
その結果として神殿にたどり着くことは、まだ解る。神殿が権力を持っている土地は未だ多いからだ。
故に人間が出てくるものだと思っていたのだが、現れたのはローレライ。
豊穣の魔女にして秋の娘であるサハナドールに「やばい女」といわしめる妖女が突然目の前に現れれば、いくらネモでも驚く。
「どうかなさって? 大切なものを、失ってしまわれたのかしら」
彼女は婉然と微笑みながら、海の目で矯めつ眇めつふたりを眺めた。
(大切なもの。声か。ローレライの声には魔力が宿っていると、マリー様が言っていたっけ)
思考を巡らせながら、ちらりとネモを見上げる。
いつものように下瞼の青ずんだ不健康そうな顔で、やや面食らって強ばっているだけだ。
ブレスは従者のようにネモの隣にひざまずき、ローレライを見上げる。
「失礼しました。我々は上陸の許可を頂くべく、この島を統治なさっている方との面会を求めて来たのですが、伝説の神子がそうであったとはつゆ知らず」
「上陸の許可? わざわざ?」
「はい。無用な争いは避けたかったものですから」
「あらそう」
ローレライは興味深そうにブレスをのぞき込んだ。
不思議だ。彼女の海の目には、小さな魚が泳いでいる。
「なにぶん大人数、船も大型船が七隻ですので」
「ああ、そういうこと。そうね、先触れがなければ、島を襲いにきたのかしらと思ったかもしれない」
不用意に上陸しなくて本当によかった。
小首を傾げて微笑む彼女の人魚の美貌は、魅力を感じるよりも先によりも警戒心を掻き立てるものがある。
ブレスが魔術師だからだろうか。
「よくってよ。いい子にしているのなら、この土地へ踏み入ることを許しましょう。けれど、けして深夜以降は出歩かないこと。この決まりを破った者は、たとえこの土地の住人であったとしても──ね?」
ね? って、なんだ。
意味深に微笑む彼女の微笑に背筋が粟立つ。
いつの間にか音もなく現れた幾人ものローレライの海の目が、神殿の奥から、柱の陰から、あらゆる場所からふたりを見つめている。
(マリー様、ローレライは確かに怖い生き物でした)
それでもひとまずは上陸の許可を取り付けることが出来た。
マリーは嫌がるかもしれないけれど、千人の兵と船乗りたちは安堵することだろう。
ローレライはブレスに、珊瑚の死骸の欠片を渡し、「許可のあかしになさいな」と目を細めて微笑んだ。
不思議なことに、その珊瑚は所々金色に光っていた。白い死骸の層の下は、純金だったのである。
これもローレライの魔法だろうか。
ブレスは礼を述べ、結局一言も発しなかったネモとともに神殿を立ち去る。
彼女は去り際、「この島で人間の群れの顔役に会いたいのなら、丘の上の青い屋敷を訪ねるといいわ」と親切にも教えてくれた。
話せばきちんと通じる相手だ。
たしかに怖いけれど、マリーの言うような怪物とはとても思えない。
ネモは神殿を出るなりよろよろと岩に手をついて、深々と息を吐いた。
まるで先ほどまで息を止めていたかのような有様に驚いて、ブレスは駆け寄った。
「ネ、ネモ様? どうしたんです?」
「……死ぬかと思いました」
肩で息をする彼の顔色は悪い。
エトルリアの館で倒れた日ほどひどくはないが、冷や汗に濡れた額や首筋をハンカチで拭うネモの手は微かに震えている。
「あなた、よく平気ですね。気分が悪くなるほどの魔力を宿した声を聞いても、顔色一つ変えないとは」
呼吸を整えたネモが、おかしなものを見る目でブレスを見ている。
曖昧に視線をそらし、ブレスは苦笑いを浮かべた。
「いろんな人に感性が鈍いって言われてきたので、たぶんそのせいだと思います。真名を取り戻したら治るかと思っていたんですけど、どうもそうではなかったみたいですね」
「鈍い……そういう問題ではないと思いますが、何はともあれ、あなたがいて助かりました。青年」
「……お役に立てたのなら、よかったです。本当に」
ブレスはここのところ、ネモに迷惑をかけっぱなしだ。
彼を手伝って少しでもその恩に報いることが出来たのなら、それはなによりだと思う。
「さて、私は戻って皆を誘導します。あなたは船着き場で管理者に話を通しておいてください」
「はい、ネモ様」
飛び立ったネモと別れ、ブレスは船着き場へ向かう。
飛んで現れた初対面の魔術師を見、船着き場で声を張り上げていた男は警戒心も露わな顔をしたが、ローレライの金の珊瑚を見せて事情を話すとすぐに親切に案内をしてくれた。
がらりと態度が変わった男の様子から察するに、ローレライは島民たちにとって信仰の対象であるようだ。
崇めるもの。敬うもの。尊重するもの。
やがて水馬に乗って海上を駆けてきたネモと共に七隻の船が現れ、ブレスは腕を振って位置を知らせた。
空は夕暮れ。ぎりぎりではあったけれど、人喰い人魚の脅威から逃れた一同は「さすが魔術師だな」と代わる代わるブレスの肩を叩き笑いかけて通り過ぎて行く。
なんのことやらと首を傾げていると、下船したエチカが同じようにブレスの肩を叩きながら言った。
「フィルって本当に何を相手にしても萎縮しないのね。ネモ様はローレライの対応をあんたに丸投げしたわよ」
「うわー、それでか」
きっと〈耳〉の印を通してすべての指揮官と魔術師に通達したのだろう。
続いて少女の姿で降りてきたミシェリーは、目が合うなり思いっきりブレスに頭突きをした。
「〜〜ッ、お、置いていってごめん、ミッチェ……」
「ふんっ」
そっぽを向いて黒猫に戻ったミシェリーは、その後しばらく口を聞いてくれなかった。
千人もの人間が一度に宿を取るわけにもいかなかったので、結局ほとんどの乗員がその夜を帆船で眠ることになった。
島民の言うことには、この島の付近であれば人魚もローレライを恐れて近づかないらしい。
彼らは明日から食料の買い付けや家畜の購入のために忙しく働くことになっているため、交代で休息を取らせることとなった。
「しかし、人間の血が混じった方が強くなるだなんて……」
エトルリアの客人たちとアナクサゴラスの代理であるネモ、そして幾人かの護衛は島の片隅にある宿屋で食卓を囲んでいた。
長旅の果てであろうとも、魔術師の食事など質素なものだ。
魚の塩焼きとルッコラのサラダをゆっくりと食みつつ、ブレスは昼間見たローレライのことを考えている。
「不思議じゃないですか? 純血の人魚が、混血のローレライを恐れて島に近づきもしないというのは」
「たしかにね。どうしてかしら。マリー様の様子もなんだかおかしかったし」
マリーは島の砂を踏むことを断固として拒否した。彼女は停泊中、ずっと船室にこもって過ごすつもりでいるらしい。
「知能の差の影響は大きいと思う」
答えたのはフェインである。背後に立ったレシャが、沈黙したまま影のようにフェインを守っている。
「人魚は人間を誘惑する知恵はあるが、食欲にはあらがえない。ローレライは違うのだろう。彼女たちは人間のように狡猾にものを考えるし、どのように己の力を使えば効果的かをよく理解している」
「……たしかに、力を持っていても使い方がわからないのでは、持ち腐れですよね」
呪いを受けていたブレスはその不便さが身に染みて解っている。
結局のところ、人魚は食べるために魔力を使うだけなのだ。
海の乙女はそうではないから、人魚よりも強い、ということ。
ネモは昼間のことを思い出したのか、寒気にぶるりと肩を震わせた。
「彼女たちに会ってみて実感しました。私は秋の君の意見に賛成します。なるべく早く、この島は出た方がいい」
「……なんだか、会ってみたくなるわね。ネモ様がそこまで仰るなんて」
好奇心をちらちらと青灰色の目にきらめかせながら、エチカが控えめに呟いた。
疲れた顔で幾度か目を瞬き、ふう、と彼はため息を吐く。
「そうですね。あなたは女性ですから、男の我々ほどは人魚の魔力の影響を受けないはずです。若い魔術師が経験を積むことは大切ですから、遠目で見ておく程度ならば問題はないでしょう」
「そうか。人魚の魔力は効果が限定的なのよね。なんだか、ますますフィルが平気な顔でやりとりしてたことが不思議に思えて仕方がないわ」
「まったくですよ。あなた、なんなんでしょうねぇ」
一同の視線が一斉にブレスに向く。
居心地が悪くて仕方がない。
「ですから、鈍いんですよ、俺は……」
曖昧に笑ってごまかし、身の締まった白身魚を食べる。
船旅で魚はさんざん食べたけれど、この宿屋の魚の塩焼きは格別だ。旨みが違う。
「おいしい。ネモ様、ちゃんと全部食べてくださいね。いくら魔術師がみんな痩せ形だからって、限度があります」
「ぐ……しかし私は胃弱ですので……」
「というかあんたはひと月も寝たきりだったのに、なんでそんなに元気なのよ」
「そりゃあネモ様の医学知識と看病と介護のおかげだよ」
「じゃあネモ様が痩せたのってフィルのせいじゃないの?」
「ネモ様はもともとガリガリだっただろ! それに妖精の癒しの効果も半分くらいは占めていると思うよ? ミッチェは献身的だから」
「うっわ、気色悪い」
「どこが!?」
エチカの暴言に目を白黒させていると、話を聞いていたフェインが拳を口に当ててくすりと笑った。
顔を上げればレシャも苦笑をこらえている。
ちまちまと魚を食すネモは、若者の団欒を眺めて人知れず和んでいた。
とうの昔に忘れてしまっていたが、己にも昔こんな時代があったものだ、と目を細めている。
「君たちは仲がいいな。きっと長いつき合いなのだろうね」
フェインがほのぼのとそんなことを言い、ブレスとエチカは顔を見合わせる。
「長くは、ないわよね」
「ああ。だってほんの数ヶ月前は……顔も知らなかったし」
敵対していた、と言い掛けて言葉を選んだ。事情を話すとなると、レシャの父であるレイダとエチカの関係を話さなければいけなくなってしまう。
水蝕の魔術師レシャは、その面に帯びる影が色濃くなっていた。
逆境でフェインを守るために張りつめていた緊張の糸が、イルダの裏切りによってプツンと切れてしまったような顔をしている。
ふと目が合うと、レシャは目を伏せて足下に視線を落とした。
双子の繋がりは強い、といつかカナンも言っていたっけ。
イルダがああなってしまって一番傷ついているのはレシャなのだ。
双子は、どちらかが落ちればもう片方も落ちてしまう、片翼の鳥だ。
夕食を終え、ネモに外出することを伝えると、ブレスはミシェリーとともに船に戻ることにした。
「真夜中までまだ時間はありますが、もし間に合わないようであれば船で夜を過ごし、朝に戻っておいでなさい」
深夜の外出はこの島では禁じられている。ローレライの掟だ。
宿屋を出、ブレスは影から純白の二角獣ルーチェを呼び出した。
優しい目ですり寄るルーチェを撫でながら、「走れそうか?」と訊ねると、ルーチェは元気に脚を踏みならしてみせた。
『なんの問題もないって言ってるわ。怪我はすっかり治ったみたい』
「そっか、よかった。じゃあ、行こうか」
黒猫を鞍の前に乗せて、ブレスは騎乗する。
ルーチェは船着き場に向けて、風のように駆けだした。