19 温室
「誰かいるのですか?」
ここ数日、温室に行くと閂が開いている日が時々ある。
始めは自分が忘れたのかと思ったけれど、2日、3日と続けば流石に放っておけない。
施錠はしていないけれど、ここには貴重な植物もあるし、何より人の口に入れる物が置いてある。
そっと声を掛けながら中に入ると、お気に入りの椅子の近くにいた大きな黒い塊が動いたかと思うと、その塊が、思いがけない人の姿に変わる。
「ティナ!」
「えっ、サイラス様?」
「ティナ、会いたかった」
「どうしてここに? それに今のは?」
「うん? 怖かった?」
「怖くは無かったですけど」
「良かった」
判らない事は沢山あるのに、原因となった人はニコニコするばかりで、全く要領を得ない。
「温室に来ていたのは、サイラス様ですか?」
「うん、どうして判ったの?」
「それは閂が」
「あ、そうか、閉めるの忘れてた」
「どうして温室に?」
「ティナに会いたかったから」
「それなら屋敷に来てくれれば、、、」
「それはダメ、ティナが困る」
確かに屋敷では人目につく、男性が自分に会いに来ていれば噂にもなる。
それに彼をただの友人と言うなんて出来ない、いくら自分が鈍感でも、ここまでされれば、彼が自分を特別に思っているのを感じる。
顔が赤くなり、恥ずかしいので着ていたガウンで顔を隠す。
「寒い? ティナが怖くないなら姿を変えるよ、そうしたら暖かい」
そう言ったかと思うと、真っ黒い狼が目の前に現れ、その動物は、少し離れる様に立ちじっと自分の方を見ている。
「サイラス様、なのですか?」
獣人と聞いてはいたけれど、本来の姿をこんなにはっきり見たのは初めてだった。
見た事もない動物、怖いと感じても不思議ではないのに、そんな風に感じない。
首を傾げるように自分を見上げる瞳は暖かくて、黒い毛もとても柔らかそうに見える。
そっと手を伸ばすと、頭を押し付けてくるし、ガウンの裾を引っ張るので、腰を下ろすと、周りをぐるっと囲んで膝に頭をのせてくる。
そうしていると暖かく、頭を撫でていると彼も嬉しそうにする。
「ウエストリアの屋敷から来られたのですか?」
言葉が通じるのか判らないけれど、話しかけてみると、違うという素振りを見せるので、
「では、メルニアの街ですか?」と聞くと、そう!と言うように耳が動く。
しばらくそうしていると彼が部屋に戻そうとする。
確かにあまり遅くなるのは良くないので、温室を出て、屋敷に戻る。
その間も、少し離れて彼が自分を守ってくれているのが判る。
部屋に戻って、ベランダから手を振ると、一声鳴いて、やっと彼が闇に消えていく。
それからはそれが日課になった。
夕食後、ベランダに出て彼がいるのが解ると、温室に行き、少しの時間を共に過ごす。
彼は狼の姿から戻る事は無いので、その日何をしていたか自分が話すだけ。
それでも耳はピクピク動くし、表情も豊かで判りやすい。
彼との会話はそれだけなのに、それを物足りないとは思わなかった。
言葉が無くてもこちらの気持を敏感に感じとって、楽しい事があった日は、『なに、なに?』と言うように彼も楽しそうだし、ちょっと落ち込んでいると、『どうしたの?』とのぞき込んでくる。
ポツリポツリと話していても、『聞いているよ』と時々耳で教えてくれる。
人を相手に話すのは苦手なのに、彼とはそれも気にならない。
しばらくすると、彼がファランの糸を持って来ている。
「刺繡?」首を横にふる。
「組紐ですか?」そうだと言うように、頭を押し付けてくる。
そう言えば、イオニアの街にいる頃、彼らが工房で作っていた気がする。
「サイラス様は作らなかったのですか?」
前足で頭を抱えるようにしているので、上手くいかなかったと言う事だろう。
「ふふっ、良いですよ。この糸で作ればいいのですか?」
渡された小さな袋の中には、濃淡の赤いファランの糸が何束か入っていた。
嬉しいと尻尾をパタパタ動かしているのを見ると、ついつい苦手だとは言えなくなる。
男性と二人で居れば警戒もするが、相手が狼なのでそれも忘れそうになる。
話をするのも自分だけだし、側にいても、頭を膝の上に乗せ、手に押し付ける程度でそれ以上は、触れてこない。
だからちょっと油断していたと思う。
収穫祭の前、どうにか作り上げた組紐を渡した時、紐を付けてあまりに嬉しそうにするので、軽くキスをした。
父やリオンにするような軽い挨拶のキス。
その瞬間、人に戻った彼にキスされた。
挨拶のキスでは無く、恋人のように抱きしめられて。
「ティナ、怒った?」
「、、、」
「ごめん、怒らないで」
「、、、怒ってない」
「いや、だった?」
「恥ずかしい」
「ティナ、かわいい」
そんなに嬉しそうにしないで欲しい。
顔は赤くなるし、恥ずかしいし、いけない事なのにダメだと言えなくなる。
「ティナ、もう一回」
「えっ?」と驚いている間に、また唇が重なる。
「ダメ」やっと答えると、
「わかった」と少し離れる。
「部屋に戻るわ」
少し冷静になりたい。
彼が友人でないのは、判っていたはずなのに、このひと月ですっかり忘れてしまっていた。
「ティナ、怒ってる?」じっと見つめている瞳が、悲しそうになっている。
「怒っていないわ、ちょっとびっくりしただけ」
「驚いたの?」
「そうね、いきなりだったから驚いたの」
「分かった、しばらく来ない様にする。だから僕の事考えて」そう言ってまた狼の姿になる。
何を考えればいいのだろう?
抱きしめられても、唇が重なっても、嫌でなかった事?
しばらく来ないと言われて、寂しいと感じた事?
彼は婚約者では無い。
ウエストリアに来ている客人の一人で、こんな事を考える方が間違っている。
それなのに頭の中は、そんな事ばかり浮かんできて困ってしまう。
「私ったら」
少し落ち着こう。
彼が好意を持ってくれたとしても、婚約を申し込まれた訳ではない。
「少し冷静にならないと」
自分はもう少しで18歳になる。
癒しの使い手であれば、緑樹院に入れるけれど、そうで無ければ、後二年の間に結婚しなければならない。
これは貴族の義務の一つで、ほぼ例外はない。
レオンならこのままの生活を許してくれそうだけど、サイラス様にふれられた後では、そんな事は考えられない。
「私、婚約を申し込んで欲しかったのかしら」
そう考えると妙に納得する。
しばらくすると、イリノアの街でも収穫祭がある。
リディアもガルスの人達も必ず収穫祭に来るだろう。
「どうすればいいの?」
恋をした事なんてない。
自分の気持さえ分からないのに、どうすればいいかなんて分かるはずが無い。




