1. つまり、そういうことなのだ
(寮規2)
寮生の外出は、年末年始の休暇を除いて原則としてこれを禁ずる。
【我慾】
世界、とは、なんだ。
時折考えることがある。
退屈な授業中。クラスメイトたちが各々てんでばらばらなことをして過ごす休み時間。暖炉の前でポーンを転がす夜。自分の部屋のくすんだ天井を見上げる明け方。
その言葉は当たり前のように使われる。美しく滑らかに日常の隙間を埋めていて、普段は耳に障ることもない。けれどふとした瞬間に、突然魚の小骨のように飲み下せなくなる。
この世界。我々の世界。かけがえのない世界。
物語の中で、テレビの中で、あるいは日々の会話ですら、それはあたかもひとつきりであるかのように語られる。人は皆同じ光を見て、同じものを知覚し、同じ時を共有していて、まるでそれが当たり前のように。
けれど自分は、すぐ隣で携帯の画面を見ながらにやけているクラスメイトの頭の中を想像もできない。そして同時に、すぐ隣の彼もまた、インターネットをろくに触ったこともない隣のクラスメイトの頭の中を想像できないに違いない。
互いに全く異なる遊び場が頭の中に構築されていて、その遊び場から見る景色は青空の色さえ異なるのかもしれない。それでも人々は同じ世界を生きているという。
世界、とは、なんだ?
トモヤは時折考える。しかし何度考えてもその答えは見つからない。
「ゆきちゃぁーん」
ホワイトボードを眺め、青いペンで雑な矢印を数本引きながら間延びした声を出す。どこにいるかも確認せずに呼んだ相手の返事はない。肩越しに後ろを見ると、各々が自分の仕事に忙しない生徒会室の片隅で、雪実は俯いて何やら作業をしているようだ。
都と岬が各部から提出された申請書を並べながら話し合っている。かのは隣で難しい顔をしながらホワイトボードに向かい合い、桂は一人会長席でPCに向かって教師用の資料を作成している。我らが会長はなかなか端正な顔立ちをしていて、その聡明さの象徴のような眼鏡がしっくり馴染む。ワイシャツの腕を捲って真剣な表情でキーボードを打つ姿は仕事のできるビジネスマンみたいだ。
……まあ、見惚れちゃうのも分かるっちゃ分かるよね〜。
手元のプリントを仕分けるような仕草をしながらちらちらと桂を見ている内気な少女を見て、トモヤはひとり肩をすくめる。彼がぶらぶらと近づいても振り向きもしない彼女に、
「ゆーきちゃん、去年のフローもっかい見ぃせて」
軽い声をかけながら覗き込むと、彼女はそこで初めてトモヤがすぐ隣に立っていることに気がついた。
「あ、え、」
わたわたと目に見えて慌てる。桂を熱い視線で見つめていたところを見られたのが恥ずかしいのか、色白の頬がぱっと上気して、机に置いたプリントの上で意味なく手を動かすので、紙束がまるごとひとつばさりと床に落ちた。
「おっと、驚かせちゃった?ごめんよ〜」
「いえ、す、すみませんっ」
慌ててしゃがみプリントを拾うその彼女の黒髪を見下ろす。
個性的で強気なメンバーが集まる生徒会の中で、いつもどこかおどおどしている雪実はある意味異質だ。それなりに仕事はできるが可もなく不可もなく、常に受動的な姿勢の彼女に、都などは時折微かに苛立ったような表情をちらりと浮かべる。
自分で選んだのかそれしか選ぶ余地がなかったのかは知らないが、周囲に甘え許されながら生きてきたんだろう、というのがトモヤの見解だ。別にそれの良し悪しを語る気は無い。実際彼女は悪い子ではない。ただ、圧倒的に”違う”だけだ。
彼女を見るたびに胸に薄く広がる感情は、苛立ちというより同情に近い。自分に優しい大人だけに囲まれて、自分だけの砂場で遊び続ける子供を眺めているような。
常に彼女の見つめる先にいる桂が、気づいていないことはないだろう。彼女の視線はきっと自分で意識しているよりずっと生々しく熟している。それでも彼は彼女に優しく微笑むし、自分のために丁寧に成された仕事をいつだって柔らかく労う。
つまり、そういうことなのだ。
生きてきた世界も、生きている世界も、生きていく世界も違う彼女の指は、彼に一生届かない。
「去年の運営資料、ちょーうだい」
そんなわかりきったことに、今更何を言う気もない。トモヤはいつも通りへらりと笑う。伏し目がちに戸惑いながら、雪実は恐る恐る手元の資料をトモヤに渡した。ありがと、と受け取り、背を向ける。宛先もはっきりしない、縋るような「すみません」は聞こえなかったことにした。
ホワイトボードの前に戻ると、かのが一人、ペンを顎に当てて黙り込んでいた。プリントでぱさりとその頭を叩く。
「何お前、一人で残念な阿保面さらしてんじゃねぇよ〜」
茶化すように言いながら、いつも通りの反撃を予想して身構える。が、かのの反応は薄かった。プリントを振り払いすらしない。覗き込んだその眉間には深い皺が寄っている。
「楽しんでていいのかな……」
ぽつりと呟かれたかのの独り言は、トモヤだけに届いてすぐに消えた。
いつも通りに忙しない生徒会室。予餞会が一ヶ月後に迫っており、校内は卒業生を送り出すための準備に盛り上がっている。全体の指揮をとる生徒会は完全な裏方業務だが、生徒たちの空気に感化されるように、その忙しなさに悲壮感は薄い。
数週間前、桂から生徒会メンバーに、主にかのと雪実に伝えられた『異常事態』。気にするだろうとは思っていた。彼女の性格で気にしないわけはない。
けれど、
「お前はいつも通り能天気にしてりゃいいのよ〜」
敢えてちゃらけた声で言い、トモヤはぐでっとその頭を肘置きのようにして体重を乗せた。ちょっと、重い!とかのが非難の声を上げ、ぶんぶんと頭を振りトモヤの腕を振り落としてからじっとりと上目遣いに睨む。
「どういう意味よ!」
「そのまんまの意味でしょうよ〜」
「馬鹿にしてるでしょ!」
「あ〜ら自己評価の高いこと」
きーっと頬を上気させて噛み付いてくる、そのいつも通りに戻った表情にトモヤは笑う。腕を振り回すかのの頭を乱暴にぐしゃぐしゃとかき回す。染めずとも微かに茶色がかった髪が指に絡みつき、さらりと溢れた。
生徒会メンバーはかのとトモヤの見慣れた光景にもう何も言わない。都は完全無視だし、岬はその横で仕事をしつつもただ都だけに夢中だ。そして一人会長席に座る桂は、何も言わずに苦笑している。
なあ、お前もそう思うだろ。
その表情に、声には出さず語りかける。
時折、本当にふとした瞬間に、”フツウ”がわからなくなるのはきっとトモヤだけではない。桂も、都も、きっと岬だってそうだろう。地面がなくなるような、空の色がわからなくなるような、そんな感覚はなんの前触れもなく寮生たちを襲う。どちらへ進めば良いのか、果たして自分は本当に『世界』の中で生きているのか、全ての実感が指の間からこぼれ落ちていくような、それは絶望にも似た恐怖だ。
そんな中でかのはある種のペースメーカーだった。絶対座標といっても良い。良くも悪くも当たり前に普通を享受する彼女を見ていると、あそこに戻れば良いのだと安堵する。
ぎゃんぎゃんと文句を言って来る彼女を見下ろす。
”フツウ”の座標。
かのはそのままでいてほしい。自分たちのために。この先、たとえ何があっても。
そんな身勝手なエゴに、トモヤは誰にも気づかれぬよう、小さく苦笑する。
【鳥籠】
吹き抜けを見上げると、風などどこからも入り込むはずはないのに、埃が鼻先をふわふわと横切った。粒子の粗い空気が皮膚にざらつく。隣を見ると、桂もまた薄暗い吹き抜けを目を細めて見上げていて、トモヤの視線に気づくと何かを諦めた人のようにふっと笑った。
ところどころ灯された光にかろうじて輪郭を照らし出された階段は、まるで光を飲み込んだ蛇のようだ。上へ上へと壁を伝って昇っていく。その明かりはトモヤたちの足元までも届かない。
何も言わずに歩き出した桂の背中を追う。二人分の足音は、だだっ広い空間にやけに響くのに、奇妙なほど残響を残さず生まれた傍からすとんと消えた。
夕食後、Aのところに行く、と言った桂に、おーれも、と肩を組んで乗っかると、桂は笑いながら少しだけ眉を寄せた。
トモヤ、知ってると思うけど、寮の規則では、
そう、一応咎めるような声を出した彼に被せて、
知ってる知ってる〜、寮長しかあの扉通れないんでしょ〜?だから代理だって、青史くん現在お休み中だからさ〜。余計な口出ししねーから、さ。な?
そうへらりと笑うと、桂は仕方がないなと言いたげに苦笑して、それ以上何も言わなかった。
桂が階段を昇り始める。二段後ろからトモヤも続く。自分の少し前を歩く、どちらかというと華奢な背中を、トモヤはのんびりと足を進めながら眺める。
桂はトモヤに甘い。
優しい、だけでなく、もしかしたらトモヤが人を殺したと言ったとしても仕方がないなと笑って許すんじゃないかと思うくらいに、桂はトモヤに甘い。
それはきっと、トモヤが彼の過去を、今なお彼を傷め続けている生傷の内側を、知ってしまっているからだ。そして、それ故のこの彼の甘さは、必ずしも正しくないものなんだろうと、トモヤは思う。
足元に思い出したように現れた小さな電球を踏み越える。フットライトなんて洒落た設備はない。北塔も東塔も、建物自体は古いとはいえ内部にはとても近代的な設備を導入しているのに、この西塔だけは時間軸から置き去りにされているみたいだ。まるで森の奥で打ち捨てられ忘れられた神殿のような。
吹き抜けの行き止まりにたどり着き、そのまま塔の三階部分に入る。前回と同じく管理室の扉を開けて、
「……あらら」
それなりに人智を超えた光景を予想していたトモヤは、中をのぞいて肩をすくめた。
がらんとした管理室。だだっ広い部屋に人影はない。沈黙するパソコンが一台と、何も載っていない机が一つ、そして少し離れた背もたれの折れた椅子がひとつ。置かれているものはたったそれだけ。何かある種の強烈な意志すら感じる、徹底して殺風景なその場所は、何かの実験室のように見えなくもない。
はあ、と、隣で桂が小さくため息を吐く。
「いませんな〜」
「そうだね」
「どうすんの?今日は諦めんの?」
「いや、……多分あそこだ」
心当たりがあるらしい桂は先に立って歩き始める。管理室を回り込むように無機質な廊下をしばらく歩き、唐突に出現した扉を開けて外に出た。ひゅうっと冷たい外気が二人を押しもどすように吹き付けてくる。空中回廊は夜の中にひっそりと浮かんでいて、まだ煌々と明かりの灯る中央塔がやけに遠く見えた。
中央塔を右手に見ながら空中回廊を北へと歩く。石で組み上げられた回廊が描くゆるやかなカーブを歩きながら、トモヤは一人後ろを振り返った。
他のどの塔とも異なる細い鉄塔。あの管理者の居住区ということもあり、もっとおどろおどろしい何かを想像していたが、入ってみれば無機質なただの鉄の円柱だ。むしろ古書や資料で埋め尽くされている他の塔より整然とした印象すら受ける。しかしそれは恐らく人の気配がないからだろう。有機物の存在すら排除したあの場所は、それだけで成立するある種の王国のようだ。まだ足を踏み入れたことのない、そして恐らく桂も入ったことはないのだろう、あの管理室がある階よりも上の部分には何があるのだろう。案外、混沌とした極彩色が広がっているのかもしれない。あの理解を超えた管理者の頭の中身を体現するような。それはそれで、見て見たいような気もしないでもない。
北塔にたどり着く。夜の闇に乗って、中央塔のどこかの階でわっと上がった笑い声が、少し歪んでトモヤたちの元まで届き、けれど二人には触れずに暗闇の中に消えていった。