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喫茶店の上のレフュジーズ  作者: 木須柄はきわ
一章 石田みどり
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石田みどり⑦

 たっぷり食材を買い込んで帰ったその夕暮れ、私はこの時間ならいぶきが店に出ているかと思い、荷物を玄関に置いて喫茶店のカーテンを開いた。

 エプロン姿のいぶきは、チョコレートの箱に描かれた少女のように絵画的で美しい。それを一目見ようとカウンターを覗き込んだ。

 いぶきの姿はなく、代わりに怪訝な顔でグラスを磨く輝美さんの姿があった。

 私は輝美さんに声をかけた。ところが彼女はは手の平をひらひらと振って、私をこの場から追い払おうとした。

 輝美さんのそんな態度は初めてだったので、私はあっけにとられてしまった。

 そこで気付いた。いぶきはカウンターではなく、窓際の客席に座っていた。エプロン姿ではなく、学校の制服だった。

 遠目で見ても、今日のいぶきはいつにもまして大人びていた。背筋をピンと伸ばし、まぶたを細めて大きな瞳を隠している。

 そして、向かいに座るスーツを着た男性の後ろ姿。

 二人はぽつぽつと、秘め事を話すときのように、小さく会話していた。

「父親だ」

 ちっとも出ていく気配のない私に、輝美さんは仕方なく、囁くような声で言った。

「月に一度、ここで会ってる」

 いぶきの父親ならさぞハンサムなのだろう。まわりこんで覗き込みたい衝動を抑えていると、いぶきが私に気付いた。

 いぶきは寒気のするような薄い微笑を浮かべると、王族のように小さく手を振ってみせた。

 そのしぐさに、父親は私のほうを振り返った。想像通り顔立ちの整った男性だった。いぶきの父親は、すぐに娘のほうを向き直り、またぼそぼそと会話を始めた。いぶきもまた、先ほどまでのすました顔に戻っていた。

「上に行ってろ」

 輝美さんは、小さな声で、苛立たしげに言った。

「どうして一緒に住まないんですか」私も少しイラっとして食い下がった。「嫌子なのに」

「いろいろあるんだよ」

 彼女は飲食店の店主なのに髪をかきむしった。

「とにかく私からは何も言えない」


 夕食を終え部屋に戻っても、いぶきのことが気になっていた。少し嫉妬もあったのだと思う。親しげに父親と話すいぶきのことを、うらやましく思った。

 思えばみのりや一孝のことはみのりから聞かされたが、春美やいぶきについて、私は何も知らない。そのかわり私の事情はある意味でシンプルだったので。みんなあらかじめ輝美さんから聞かされている節があった。

 少し不公平な気もするが、よその家庭の事情を聞いて回るのは、行儀がよくない。私たちは一緒に暮らしているが、家族ではないのだ。

 そのときだった。部屋のドアがトントンと小さくノックされた。

 こんな時間に誰だろう、私は見当もつかずに、はだけたパジャマのボタンを閉めて、どうぞと言った。

 ドアの向こうにいたのは、意外なことに、いぶきだった。

 父との面会の後も、彼女の様子は変わらなかった。いつも通りゆっくりご飯を食べ、風呂に入り、リビングでお笑い番組を見ながら、よく笑っていた。

「お邪魔していい?」

 私は座布団を買っておくべきだったとおもいながら、どうぞどうぞと彼女を招き入れた。まだどうぞとしか言っていない。

 彼女は畳の上に腰を下ろした、シンプルなパジャマ姿だった。ちゃぶ台を挟んで私たちは向かい合った。

「どういったご用件で?」

 三つも年下の少女に、私は妙にかしこまって言った。

「あのね、みどりちゃんはお父さんとお母さんが亡くなってここに来たんでしょ?」

 彼女は何気ないことのように、スラスラと私の人生を要約して言った。

「はい、そうですが」

「輝美さんとも話したんだ、私たちはそれを知ってるのに、みどりちゃんは私たちのこと知らないのは不公平だと思って」

 彼女は言った。まるで見透かしたように、私のひっかかりを言い当てた。

「だから自分から話に来たの。いつもおいしいご飯作ってもらってるし、嫌われちゃうかもしれないけど、みどりちゃんに私のこと聞いてほしくて」

 私はいぶきに同居人として認められたのだろうか。それに関してはうれしく思う。だが素直には喜べなかった。これから聞かされる話、父と子が別居している理由など、なんというか、うーん、きっとろくなものではないから。

「お母さんが亡くなったのは私が四歳のころ」彼女は話し始めた。「車の事故で」

 亡き母のことを話し始めた彼女に、表情の変化はなかった。

「お母さんに事はおぼろげに思い出せるシーンはあるけど、でもほとんどなにも覚えてないの。そこはみどりちゃんと似てるかも」

「私はなにも覚えてないよ」

 私にとっての母は写真の中の人物。そして酔った父を泣かせるひどい人だ。

 彼女は続けた。

「それで祖父母が高齢だったこともあって、お父さんは仕事をしながら私を一人で育てることにしたの。家事なんてまかせっきりだったからとても苦労したみたい。仕事がいつも遅かったから、私もちょっとづつ洗濯とか掃除を覚えたの。でもお父さんが包丁を持たせてくれなかったから、ご飯はいつも冷凍のお弁当。でも、家のカギを持たされていることとか、家事をしていることとか、他の子たちより大人な気がして全然不幸じゃなかった」

 台所事情を除けば、身に覚えのある話だった。

「立派なお父さんね」

 私は言った。

 少し間があり、彼女は

「そうだね」

 と微笑んだ。

「でもちょっと限界だったみたい」

 そう言って彼女はパジャマの胸ポケットから、二つに折りたたまれた一枚の写真を取り出し、ちゃぶ台に開いた。

 一組のカップルのポートレイトだった。折り目の左で照れくさそうな顔をしている男性は、若いがいぶきの父だろう。

 そして、右側ですんと胸張るようにすましている女性。

「お母さんです」

 言われなくても、と私は思った。いぶきとその母は誰が見てもわかるくらい瓜二つの美人だった。それは十数年後のいぶきの姿、そのままだろう。

「私が大きくなってくると、お父さん、口癖みたいにお母さんに似てきたなっていうの。そんなこと言われても、ほとんど知らない人だから、困っちゃうんだけどね」

 猛烈に嫌な予感がした。私はこれ以上、彼女になにも話してほしくなかった。

 いぶきは言った。

「それで小5の春にお父さんが私の寝ているベッドに入ってきたの」

「待って」

 いぶきは待たなかった。

「お母さんにどんどん似ていく私に、お父さんはついに気が狂っちゃったの。私も不思議と嫌じゃなかった。傷ついている姿ばかり見てきたから、いけないことだけど、それで慰められるならと思って。そんなことがしばらく続いたけど、私とした後に泣いているあの人の姿を見たら、これじゃだめだと思ったの。それで夏休みにバスで児童相談所に行って言ったの『私は父と寝ています。父を助けてください』って」

 彼女は最後まで冷静に話した。

 私は何を思い、何を言ったらいいのだろう。強く彼女を抱きしめ、彼女の戦いの歴史を慰める、そんなことに意味などあるのだろうか。

 私はたったひとつ彼女にたずねた。

「今日はお父さんと何を話したの?」

 彼女は明るく

「みどりちゃんのこと話したよ。料理が上手で最近ご飯が楽しみだって」

 と言った。

「ありがとう」

 そのくらいしか言えなかった。

 私はその夜、考えた。幸福とは、不幸とは。それらを決定づける天秤とは。罪を犯した父親と、この世を去った父親では、どちらがましだろう。人間は愚かだ。こんなことですら無意識に比べたがる。

 月並みだが、人は誰だって傷を抱えてる。それを人と比較して、あいつよりましだというのは不健全だ。

 私はみつめたい。杓子定規はいらない。ありのまま、自らに降りかかったそれらの正面に立って、ただみつめたい。


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