石田みどり⑥
「料理はできないけど昔から皿洗いはなんか好きなんだよね。心が静かになるというか、厳かな感じがして」
隣で、グラタン皿にこびりついたチーズと格闘しながら、一孝が言った。
それはとてもよくわかった。蛇口からまっすぐ落ちる流水を手と皿で感じながら、放射状に飛び散る水滴の行方を眺めるのは、彼の言う通り神聖で、尊いことのように思える。冷水は今日のしがらみや、小さな罪を、洗い流してくれる。
一通り洗い物と格闘し終えた一孝は、早速ダイニングの上座に陣取ると、参考書を開いた。いつもの光景だった。
よくこれだけ女子だらけの環境で、勉学にいそしめるものだ。これは感心というより心配に近い。
私は布巾でシンクをピカピカに磨いた。また明日もここに立たせてくれよ。そんなことを祈るように。
私は布巾をしぼりながら、カウンター越しの景色を眺めた。
ソファーでは輝美さんとみのりが海外ドラマを見ていて、ダイニングでは一孝が参考書とにらみ合っている。いぶきは風呂だろうか。春美の帰りはいつも遅い。
この光景は涙が出るほどやさしい。
まるで一枚の絵画のようにすら思える。
テレビの音に交じって、ときおり一孝のカチカチというシャープペンシルの芯を出す音が聞こえる。
「そんなところで勉強していてうるさくないの?」
布巾をハンガーにかけると、私は一孝にたずねた。
一孝はノートにペンを走らせたまま「ははは」と笑った。
「騒々しい環境で育ったから、変に静かだと逆に落ち着かないんだよ」
「そうゆうもの?」
「うん、そうゆうもの。変かな?」
以前の私にとって、静寂とはイコール孤独だった。父の帰りが遅い夜、私はよくヘッドフォンをつけて、テレビやステレオの音をいっぱいにした。
「変じゃないけど」
言いながら、どっさり宿題が出ていたことを思い出した。加えてテストも近い。静かな部屋で、一人それと向き合うのは、確かに気が滅入る。
「ねえ、勉強、わかんないとこあったら聞いていい? 私いろいろあったからちっともついていけてないの」
私は思い切って一孝に頼んだ。ようやく集中できる環境にたどり着いた彼の邪魔をするのは気が引けたが、父の入れてくれた学校で、学業をおろそかにしたくなかった。
「なんでも聞いてよ」一孝は意外にも、光栄だと言わんばかりに了承した。「人に教えるのも復習になっていいし」
「本当に? すぐ取ってくる」
私はすぐさま階段を上って、自室から勉強道具を取ってきた。
階段を降りたところで、ちょうどいぶきが脱衣所から出てきた。
「お風呂空いたよ?」
「ありがとう。あとで頂くね」
短い会話を済ませ、私はテーブルの上に教科書とノート、それからスマホを並べた。私が休んでいたあいだ、瑠依がノートを撮りためていてくれたのだ。感謝しかない。
「お、やる気だ」
「追い付かないと」
私が言うと一孝は「ほどほどにね」と笑った。
短い付き合いだが、一孝は時々同い年とは思えないほど、大人びて見える。彼はいつも、深い海のように穏やかだ。それは育った環境のせいなのだろうか。良く言えば清廉で、悪く言えば老け込んでいる。
「施設でも人に勉強教えたりしたの?」
苦手な英文の和約に飽きてきたころ、私は彼にたずねた。
「それはもう」と一孝は自嘲気味に笑った。「自分のことなんかまるで手につかなかったよ」
邪魔してごめんね。申し訳ない気持ちになっていると
「全然、気にしないで」一孝はいつもの微笑で「さっきも言ったけど、ちょっとなら人に教えるのも復習になるから」
すると、突然向かいの椅子が引かれて、プリントと筆箱がテーブルに置かれた。
いぶきだった。
あまりに自然に着席するので、なにも言えないでいると、いぶきは無言でプリントに取り掛かりはじめた。
私も無言でノートと向き合った。
リビングのドラマは相変わらずやかましかったが、半径一メートルほどの静寂が私たちを包んでいた。




