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喫茶店の上のレフュジーズ  作者: 木須柄はきわ
三章 葉月みのり
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葉月みのり④


  理名ちゃんへ


 突然のお手紙ごめんなさい。お仕事も休んでごめんね。

 私がここで働き始めてから、理名ちゃんには迷惑をかけてばかりですね。

 あなたは私とよく似ています。

 私たちは波の大きな人間です。

 しかし、あなたと一緒に騒いでいるときにふと、激しい波と波とが打ち消しあうように、二人のあいだに凪が訪れるときがあります。

 私はその瞬間に海を感じます。

 陸上で起こるどんなことより尊いことです。


 この手紙が届くころ、私は××峠から身を投げます。

 死ぬんです。

 そのことについては謝罪しかありません。

 でも、あなたなら、私がいづれそうすることを「いつか」と予感していたのではないでしょうか?

 ダイビングセンターでの生活は、短いながらも私の人生でもっとも充実した時間でした。

 欲を言えば、もっとあそこで働きたかった。

 しかし、その「いつか」が来たのです。

 夏の潮風が私にそれを知らせました。

 勝手ですね。


 勝手ついでにもうひとつ、もしダイビングセンターにやせっぽっちの「みのり」という名の女の子が訪ねてきたら、私の分までやさしくしてあげてください。

 すごく強がりで、頑固な子です。

 きっと素直に悲しむことすら出来ずにいるでしょう。

 私の宝物です。どうか大切に。


 さようなら。さようならという言葉でしか、さようならを伝えられないことを歯がゆく思います。

 さようなら、私の分身。また海の底で。

                              真琴詩織



 私と理名さんは、互いに届いたマコちゃんの手紙を、交換し合って読んだ。

 手紙からは、マコちゃんの歪んだ宗教観のようなものが、むせかえるほど匂ってくるようだった。

 私は、私がいま理名さんの部屋にいることも、マコちゃんの思惑通りな気がして腹が立った。

「勝手ね」

 私が言う前に、理名さんが言った。


 窓のない洗面所は、夢の中に似ている。

 私はそこで、外泊用の歯ブラシをいただいて、歯を磨いた。

 蓄光したアイボリーの壁がほのかにまぶしく、暖かい。そっと手を伸ばせば、そのまま壁の向こう側に通り過ぎてしまいそうだと、ぼんやり考える。

 水道がバタバタと水を吐き出す。

 洗面台に水滴が散弾銃のように打ち付けられると、心にも水滴と同じ数だけ穴が開いて、頭の中がしんとする。

 手紙を貰ってから抱いていた復讐心にも似た感情や、現在の停滞と不安から解放されて、良い意味で切り取られた気持ちになる。

 水の流れる音と、陶器の冷たさ。

 歯磨き粉のミント、眠たい私。

 スリッパの底が、ねとつく床に捕まり、ぬちゃっと嫌な音がする。

 取り巻くすべてが、子どものころ夜更かしをした記憶、浮遊感とリンクして、時間の感覚があやふやになる。

 私は歯ブラシを口に突っ込んだまま、脱衣所を出る。

 打ちぬかれた蜂の巣の心で、廊下を横断し、リビングのカーテンを開ける。

 昨晩、お酒をたくさん飲んだ理名さんが、まぶしさにうめき声を上げる。

 目で見るより早く、皮膚や毛穴から、エネルギーが吸い込まれる。

 心の隅々まで日光に満たされるのを感じる。

 工場に火が入ったように、体中のあらゆる計器がいっせいに動き出し、正確な数値をたたき出す。

 太陽の光の鋭さで、本日の体調の良し悪しがわかる。

 朝だ、と思う。

 いい天気でよかったと、心の底から思う。人がどうして雨や曇りの日に気分が乗らないかを理解する。

 それからがらがらうがいをして、今日はなにを食べようか考える。


 せっかくだし。

 私たちは朝から水族館へ向かうことにした。

 理名さんの口癖の「せっかくだし」は最早この旅のテーマと化している。

 深海魚を主軸としたその水族館は、数多の標本と、変わった形の魚たちがいっぱいいて、前日のダイビング体験とはまた違った海の姿を見せた。

「毎日海で泳ぐのってどんな感じ?」

 シーラカンスの標本の前で、私は何気なく理名さんにたずねた。ふとした瞬間から湧き出た、間を埋める以外の特に意図のない質問だった。

「……やっぱり危険なことなんだと思う」

 理名さんの反応は重たかった。彼女は急に神妙な面持ちになって言った。

 予想していた反応とぜんぜん違った。

 マコちゃんがSNSで海について語るときのように、私は理名さんが両手を仰いで海の素晴らしさを説いてくれるのを期待していた。

「プロでもそうなの?」

 私はたずねた。

「プロっていうかニンゲンなら」

 理名さんはガラスケースの中で干からびているシーラカンスを見つめた。

「深くに行けば行くほど、方角とか、時間も、いろんなものの流れの感じ方が陸とは違うのよ」

 理名さんは言った。

「一度ね、泳ぎ方がわからなくなったことがあるの」

 私は彼女の横顔を見た。そのガラスのような目には見覚えがあった。

 理名さんは感情の読めない僧侶の顔つきで言った。

「体をどうしたら前に進むとか、上に上がるとか、泳いでるときってそんなこといちいち考えないでしょ? だけど、そのときはなんていうのかな、こう、急に我に返ったみたいに、自分が陸上生物だって思い出して、いままでどうやって泳いでいたのかすごい不思議に思えてきて、そしたらなんかわかんなくなっちゃて、それで考え込んでいたら、自分が息をしてないのに気付いて……。あのときのことを思い出すといまだに身が引き締まるの。私はただ海にお邪魔しているだけのよそ者だって」

 怖い話だった。

 でも同時に救いのある話だと思った。この人は海を愛する陸の人だ。決して身も心も海に投げ出したりなんかしない。

 私は言った。

「でも、あんなきれいな海で毎日泳げるなんて素敵だね。海なし県の住人からしたら夢のよう」

「うん、ここの海は本当にきれい」

 理名さんはひとつひとつうなづきながら言った。

「穏やかで、明るくて、秋になればもっとよく澄んで、遠くまでよく見えて。……でもね、明るさとか、透明度とは別の、もっと本能的な『暗さの訴え』みたいなものもあるのよ。だから複数で一緒に潜るんだけど、それでも人と人とのあいだには必ず海が存在していて、結局は一人ぼっちの世界。きっとどれだけ深く潜ってもまた上に戻らないといけないって、そうゆうことなんだと思う。毎日魚を食べても魚にはなれないし」

 理名さんは茶化さず大真面目に話した。

 なにひとつ嘘や大袈裟ではないのだろう。それは波打ち際に生きる彼女の信仰そのものだった。遠い異国の地からメッカに向かって祈りをささげる人たちのように、彼女の双眸には絶えず海が揺れていて、そのかかとはいつだって湿っている。

 私は幽霊だ。

 ふと思った。

 バスを降りてから、ずっと心の奥底に巣くっていたあてのない空虚さや、対象のない執着心。のようななにか。

 目的のないもの、ここにいてはいけないもの。

 この半島の、縫い付けられるような重力に囚われた地縛霊。

 私は今日、本当に帰れるだろうか。

 私は今日、私がいまもここを離れられずにいる理由を解明し、愛する人たちに納得のいく説明をできるだろうか。

 嘘をつくのは難しいことじゃない。たとえ相手が愛する人であっても。

 でも、ここでの出来事について、この先もしもその場しのぎの嘘をつくようなことがあれば、そのとき私はとても傷つくだろう。

 それは間違いない。

 自分が自分でなくなってしまうようなショックを覚えると思う。

「だからみのりちゃんも、今日にはちゃんと帰ろうね」

 振り向くと、穏やかな瞳が、私を見ていた。

 いつから私の話になっていたのか、なにがどう繋がっていたのか。

 見透かされているみたいでドキッとした。

 まったく、なにが「だから」なんだか、まったく。

 なにも言い返すことが出来なかった私は、ガラスケースの中のシーラカンスの乾いた瞳を、むっとして睨んでいた。


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