葉月みのり⑤
昼食を済ませ、その峠に向かう車中、私たちはいろいろなことを話した。
人と話をしていないと、また乗り物酔いをしてしまうからだ。
私が育った施設の話、マコちゃんたちが卒園してから最年長になって大変だったこと、彼女に恋をしていた私の片割れの話、里子になった話、そこの住人達、そこでの日々。
理名さんも、学生時代の大恋愛の話、ブラック企業で苦労をした話、はじめてダイビングをして仕事を辞めると決意した話、など話題は尽きなかった。
そうこうしているうちに××峠に着いた。
切り立った崖の穂先にある小さな展望台。
車を降りるとむせかえるような潮の香りがして、それに手をひかれるように、私は駆け寄った。
鉄柵にしがみついて下を覗き込むと、灰色の海が口を開けていた。
崖の下で、波の音が、ずいぶん遠くの出来事のように聞こえた。
海と同じ色をした、固まった泥のような丸い岩肌に、押し寄せた波が染み入っては消えていく。
炭酸に似たあぶくが、打ち上げ花火のように絶え間なくはじけ、海のにおいを展望台まで押し上げる。
私は25メートルプールを泳ぎ切ったときのよに、勢いよく顔を上げた。うっかりすると、このまま本当に何時間でも、無心で見入ってしまいそうで怖かった。
せっかく来たんだから。
私は思い出したように海に向かって手を合わせた。
友よ安らかに、私は元気です、南無阿弥陀仏。
それから私は鉄柵に抱き着くように腰を下ろし、靴も靴下も脱いでしまって、足を崖に投げ出した。
足の指のあいだを風がすり抜けていくのが心地よく、足をぶらぶらしていれば嫌なことも忘れられた。
潮風の隙間に、理名ちゃんのたばこのにおいが混ざっていた。
「ちょっと、あんたたち、こんなところでなにやってるの!」
突然背後からした男性の声に、私は振り返った。
見ると壮年の男性が、まだ日も高いというのに、懐中電灯をこちらに向けていた。腕には町内パトロールの腕章があった。
「そんなとこ危ないよ。離れて離れて」
私が慌てて靴下を履いていると、理名さんが
「ちょっと海を見ていただけなんです。危ないことはなにも」
と釈明をしていた。
すると男性は
「もしかしてあんたら、この前ここで死んでた人の知り合い?」
と言った。
その言いように
「プッ」
私は思わず吹き出していた。
「あはは……」
彼は見事に言い当てた。
『ここで死んでた人の知り合い』
失礼だとか、デリカシーに欠けるだの、そんな感情は芽生える隙がないくらいまさに「その通り」だった。
そのあまりの無駄のなさに、私は笑いが止まらなかった。
すがすがしい気分だった。年末の大掃除みたいだと思った。余分なものを大雑把にどんどんごみ箱に捨てていく、あの豪快さ。でも最小限のものだけは残っている、あの感じ。
嵐のあと。
笑いながら、現実味とでもいうのだろうか、ずっと寝ぼけていたような、頭に張り付いていたもやが晴れた。
消えてなくなって、はじめてもやがかかっていたのだと気付かされた。
度の合ってなかったメガネが外れたみたいに、視野がぐんと広がって見えた。
足の疲れや、
汗のにおい、
まぶたの熱さや、
腰の痛み、
頭の痒さ、
のどはどれくらい乾いているのか。
そう言った当たり前の感覚を、思い込みやメンタルうんぬんといったフィルターを通すことなく、ありまのまま肉体の重さとして感じ、味わうための主導権のような何か、そのなにかが精神から肉体へ戻った。帰ってきた。なにかが救われたわけでもない。でも帰ってきた。たったひとつの的を射た失礼な言葉で。
なんの誇張もなく、奇跡みたいだと思った。
痛みは残っている。でも悲劇の真ん中で、自ら背負いこんでしまった重荷を、私はいったん地面に置くことができた。
そう、実際に起こったこと以上のことを、私は自らに課していた。恋に恋するように、悲しみに悲しんでいた。
いつもどこかで心にも思っていないことを言っている気がしていた。自分は本当は悲しくなんかないんじゃないかと疑っては、違うと首を横に振っていた。
いまここにある悲しさが、最小であり最大、すべてだった。
私はマコちゃんの死んだ海をみつめた。
ここにお墓はないけれど、故人を悼むことはどこだってできる。それは岐阜の児童養護施設だって、喫茶店の上でだって、できたはずだった。
私がこんなところまでバスに乗ってやってきたのは、マコちゃんを連れて帰るためでも、いてもたってもいられなかったからでもない。
自分以外の誰かに、この感情をまき散らしてやりたかった。
本当にただそれだけだったのだ。
「理名さん、ちょっと車開けて!」
私はまだちょっと笑いながら、ローファーをひっかけて言った。
理名さんはパトロールの男性に頭を下げながら、車のキーのリモコンで車のロックを解除してくれた。
私は助手席の扉を開けると、そこにあった箱から骨壺を取り出し、元来た道を戻ると、鉄柵の向こうに、思い切り投げた。
骨壺は空中で口を開けると、灰を吐き出しながら、ぐるぐるまわって崖下に消えた。
パトロールの男性から、文字通り逃げるように車に乗り込んだ私たちは、目を見合わせるとゲラゲラと笑った。
「お客さんどちらまで?」
笑いながら理名さんが言って
「運転手さん、駅までお願いします」
私も笑って言った。
車が走り始めると、理名さんは窓を開けてタバコに火をつけた。
「私たちが出会って、灰を海にまいたのも、全部あの子の思い通りね」
「まんまと泳がされたのかもね」
私は言った。
「本当に灰を海にまいてほしかったのなら、最初からそう書けばいいのに」
「そうだね。でもみのりちゃんに、みのりちゃんの意思でそうして欲しかったんだと思うな。死んだ人の考えなんてわからないけどね」
「施設の人に謝らないと、供養したいって言ってたのに」
「そりゃ大変だ」
いろんな話をしていたら、あっという間に駅に着いてしまった。
私は駅で、輝美さんへのお土産に、サバの缶詰を買った。他のみんなにはお菓子をひと箱。
帰りは新幹線を使ったルートに決めた。
出費は痛いが、乗り物酔いのリスクは少ないほうがいい。
あんなのは、もう、たくさんだ。
切符を買って、私と理名さんは改札の前で抱き合い、別れを惜しんだ。
「またいつでもおいで、それでまた一緒に潜ろう。私は年中海のそばにいるから」
「うん。ありがとう。大好き」
昨日出会ったばかりの泣き虫な女性は、私の心のかけがえのないパーツのひとつになっていた。
改札の向こうでいつまでも手を振り続ける理名さんは、形は違えど、マコちゃんを失って空いた私の心を少しだけ埋めてくれた。
帰りの電車の中、私はガラにもなく生とか死とかいろんなことを考えた。答えのないことばかりだった。
途方もないことばかりに頭を向けていると、うとうとしていつの間にか私は眠ってしまった。
念のため仕掛けていたスマホのアラームで、なんとか乗り換えをこなし、またうとうとしていたら、あっという間に故郷に着いていた。
所要時間2時間半。
運賃は倍以上かかったが、やはり新幹線は快適だった。
さて、駅から家までは目と鼻の先だったが、私には帰る前に済ましておきたいことがあった。
『駅まで迎えに来て♡』
私のLINEに、一孝は律儀に駅まで自転車でやってきた。
駅前の広場で、私は今回の騒動を一から話した。輝美さんは約束を守ったようで、一孝はマコちゃんの身に起こったことをなにも知らなかった。
「黙っててごめん」
私が手を合わせると
「自分から謝るなんて珍しいな」
一孝はちくりと言った。
「うん」私は言った。「今回は気を使ったとかじゃなく、私がそうしたかった、わたしのわがままだから」
「いつものことだろ」と一孝は言った。「でも不思議と腹は立ってないよ。でもそうか、マコちゃんはもういないのか」
「好きだったんでしょ? 悲しい?」
「どうだろう。何も感じないわけじゃないけど、うまく整理できないな。ただ、そうしたかったんだろうなとしか」
「そうだね」私は言った。「そうしたかったんだね」
私には最後まで理解できないが、彼女はそうしたかった、そして、そうした。それだけだ。
「思い出に骨のひとかけらでも持ってきたほうがよかった?」
私が言うと、一孝は少し考えてから首を横に振った。
私は思った。いまひとつの恋が死んだのだ。それは忘れかけた、ちいさな最後の一粒だったのだろう。それがいま完全な無になった。
「いい加減帰ろう。みどりが夕飯作って待ってる」
「そうだね、一日空いただけなのにすごく懐かしいわ」
私たちは自転車に二人乗りして帰った。
夏の長い日を、暗がりが覆おうとしていた。
夏休みも残り数日になっていた。
私は今日も今日とて施設のボランティアに精を出していた。
遺灰を供養したいと言っていた施設の人たちは、手ぶらで帰ってきた私に呆れはしたが、それが彼女の望みなのだろうと納得してくれた。
休憩時間。私は施設内の木の下にスコップで穴を掘った。
子供たちがなにをしているのとたずねてきた。
私は答えた。
「お手紙貰ったから、私もお手紙を返すの。掘り返しちゃだめだよ」
身も心も海とひとつになってしまった彼女の魂に、少しでもここの未練がありますように。
そう祈りながら、私は短い手紙を書いて、彼女の育った施設の片隅に埋めた。




