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喫茶店の上のレフュジーズ  作者: 木須柄はきわ
一章 石田みどり
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石田みどり②

「この信号越えてすぐ左側、あ、ほら、ここ、ここ」

 輝美さんが車を減速させながら指さすそこは、どこにでもある普通の喫茶店だった。ガラス張りだったが光の加減で店内はよく見えず、そうこうしているうちに車は通り過ぎてしまった。

「駐車場裏だから、そっちまわるから」

 輝美さんはウインカーを点灯させた。

 狭い駐車スペースに車が止まり、建物の前に出ると、喫茶店の裏側は普通の三階建ての雑居ビルに見えた。

 そこだけ一般家庭のような玄関を開けると、輝美さんは私を手招きした。

 靴であふれた玄関の向こうに、白いのれんがあって、その隙間から喫茶店の内装がちらりと見えた。輝美さんは自然な足取りで店内に入った。

 脱いだ靴を揃えていると

「待ってたよ」

 と頭上から透き通ったよく通る声がした。

 見上げると、かわいいワンピースに身を包んだ線の細い少女がいた。覗き込んだ大きな瞳は、ビー玉のようでもあり、宝石のようでもある。むき出しになった首がななまめかしくてドキリとした。

「私は『みのり』ね新人ちゃん」

 みのりと名乗ったその少女は、心からの歓迎をその身で表すように私の手を取ると、まるでジブリアニメのように、私を連れて玄関わきの階段を駆け上がった。セミロングの毛先が目の前でぴょんぴょん跳ねた。

「って言っても私も、もう一人上にいるやつも、二月に来たばっかだからまだ半年も経ってないんだけどね」

 喋りながらずんずん進むので、言い終わるころには二階に着いていた。

 ぱあっと開けた空間が私を迎えた。

 正面には壁掛けの大きなテレビと大きなソファー。左手には巨大な真新しいダイニングテーブルがあって、カウンターのついた台所があった。

「いらっしゃい」

 ダイニングの椅子に腰かけた男の子が、私に声をかけた。どこか年寄りめいた落ち着きを持った青年だった。

 彼は手にしていた英単語帳から手を離すと

「一ノ瀬一孝、高校一年生です」

 と名乗った。

「私も高一だよ」

 そう言ってみのりは、私の無駄に高い背中に乗りかかってきた。

「私は専門一年」

 けだるげなセリフが右側から聞こえた。声の主はソファーで寝転がっていた。

「地田春美。よろしくするならよろしく」

 派手な、というか奇抜な格好の女性だった。パンクファッションに近いのだろうか。白衣みたいに長いシャツには、ごちゃごちゃと金属や小物があしらわれていた。

 はあ、と言いながら、自分も自己紹介したほうがいいのかなあとぼんやり考えていると「あの」と背後から声がした。

 喫茶店のエプロンをしたその少女は、思い出したように頭のバンダナを外して

「川島いぶきです。中学二年生です。よろしくお願いします」

 と頭を下げた。

 私は心の中で叫び出しそうだった。川島いぶきは私がこれまでの人生で見たどんな生き物よりも美しかった。絶世の美に、中学二年生という幼さをスポイトで一滴垂らした、この世の芸術。触れがたくもあり、抱きしめてくしゃくしゃにしたくもある。私が戦国大名なら彼女のために戦を起こすだろう。

 しばらくその茶色い瞳に惚けていた私だったが、自分の番が回ってきていることに気が付いた。

「えっと、石田みどりです。高校一年。……まだ決まったわけじゃないですけど」

「タメじゃん」とみのり「ご趣味は?」

「ギターを少し」

 少しためらって私は答えた。

「え、ギター弾けるの? すごい! みどりちゃん背高いからギターに合いそう」

 みのりが言って

「うるさくしてもいいよ。私も結構うるさいから」

 春美が言った。

「てゆうか私もうバイトだから、あとよろしくね」

 そう言って春美は面倒くさそうにソファーから起き上がると、そそくさと階段を降りて行った。

「あなたもお店でしょ」

 といぶきを引き連れて。かなしい。

 二階に、私とみのりと一孝が残った。

「じゃあ、あとは私が案内するから」

 そう言ってみのりは、一孝をしっしとあしらった。

「お願い」

 一孝はそう言うと再び単語帳を手に取った。


 みのりは私を案内した。

「リビングの奥は夫婦の部屋だから立ち入り禁止ね、旦那さん単身赴任だけど」

「うん」それは聞いた。

「で、キッチンの裏がお風呂とトイレ。普通のお風呂だからいつも渋滞」

 そう言うとみのりは再び私の手を取り、風呂場まで連れていくと中を見せてくれた。

 風呂場の棚や脱衣所の洗面台は物であふれていて、朝の喧騒を連想させた。

 これだけ女がいればこうもなるか。ちっとも化粧などしない私は、まるで他人事のようにそう思った。

「三階が個室だよ」

 私たちはトイレの前の、細く折れ曲がった階段を上った。

 光の入らないその階段は、まるで秘密の屋根裏にでも続いているかのように不気味で静かだった。

 階段を上った先は、まっすぐと薄暗い廊下が伸びていて、ホテルのように左右に三部屋ずつドアが並んでいた。

「空き部屋はここ」そう言って彼女はすぐ右手のドアノブをひねった。「残念ながら一孝の向かいです」

 真正面の窓から差し込んだ、鋭い西日が、私を照らした。

 目を覆いたくなるほどのまぶしさにも慣れたころ、私はその部屋を見渡した。

 押し入れと板張りの壁に囲まれた六畳間。

 なにも置かれていないそこは広くも狭くも感じた。

 どことなく我が家を思い起こさせるその部屋は、ほこりっぽくなく、直近で掃除機がかけられているものと思われた。

「良いところだと思わない?」

 窓から身を乗り出してみのりは言った。

「私はずうっと住んでた施設からここに来たの。あそこ万年定員オーバーだったからさ。あ、一孝も一緒にね。だから普通の生活? ってやつが私にはわからないし、いまが普通だとも思わないけど、前よりずっと自由。自由だーって思う。ちびっこの面倒もみなくていいし、あいつも勉強に集中できるし」

 自由。

 それは私の求めるものとは違った。私は不自由だった。母がいないのも、学校の帰りにスーパーで買い物するのも、料理をして父の帰りを待つのも、父の帰りが遅いのも。でも、全部私のものだった。みのりは楽園にたどり着いたのかもしれない。私は違う。あの不自由の中に、私の幸福があった。

「施設を出るとき、つらいと思わなかったの?」私はみのりにたずねた。「長かったんでしょ?」

「ぜんっぜん、清々した」

 大袈裟な身振りでみのりは言った。

 私はつらい。父や会社の人たちとの縁を切ってまで、新しい生活をはじめることに、残酷さすら感じる。暖かさすら、いまは煩わしかった。

「うん!」みのりは不意に大きくうなずいた。「みどりちゃん。みどりちゃんはやっぱりここに住んだほうがいいよ。きっとそう」

「……どうして?」

 私はかすれた声でたずねた。

 どうしてそんなに私にかまうの? どうしてそう正しい言葉ばかり私によこすの? 彼女のまぶしさに嫌気がした。 

「なんか見えたんだよね。みどりちゃんがここで」彼女はよいしょと窓際にあぐらをかいた。「こうやってジャーンってギターをひいているのが」

「私には見えない」

 私は口に出して言った。

「わたしには見えたの」

 みのりは笑った。

 私は想像した。今日のような午後、私はギターを弾いていて、その音色につられて静かに部屋に入ってくるみのり、あるいはここに住む他の面々。

 そんな自由な光景を。

 そんな日々が来たらどれほど素晴らしいだろうと思う。

 しかし、そこには父と私をつなぐ悲しみが欠けている。

 つらいことは忘れるべきだと人は言う。だけど私はまだ、その悲しみと向き合いたい。正面から手を握り合うように、その感触を惜しんでいたかった。

「まずはカーテン買わないとだね」

 逆光の中で、細いシルエットの少女は、そう言って笑った。

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