石田みどり①
父が死んで数日は、毎日台所に立っていた。自分の分と、父に供える分。毎回お供えを捨ててしまうのはもったいないので、次の日の弁当などにしていた。
ところがある日、急にフライパンが重く感じて、なにもできなくなってしまった。
ご近所さんの差し入れにも手が付かず、学校へ行くこと以外は、ゼンマイの切れたおもちゃのような日々が続いた。
父はトラックの運転手をしていた。母は私が幼いころに病死しており、男手一つで私を育てた。
数日前のことになる。父は自身の不注意から、大量の貨物に押しつぶされて死んだ。
即死だった。
父と私は、集積所に隣接した社宅で、ずっと生活していた。父がいなくなったいま、いづれ私はここを出なければならない。
父との生活。おおよそ私のすべてともいえるこの部屋から出ていくことなど、想像もつかなかった。たとえ二度と帰らぬとしても、父の思い出とともにここで沈んでいたい。あるいは初めからなにもなかったかのように消えてしまいたい。
そんな思考の中、私が所長さんに呼び出されたのは、父というヤドリギを失ってしばらくたった、日曜の午後だった。
すりガラスの扉をノックすると「入れ」とぶっきらぼうな声がした。扉を開けると正面に机に所長さんの姿があった。幼いころから見慣れた、名札のついた青い作業着姿だった。
「あの」
私は部屋に入るなり、所長さんの声に先んじるように言った。
「必ず出ていきますから、もう少しだけ待ってください」
それを聞いた所長さんはわなわなと震え、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「子供がそんなこと気にするんじゃない!」
びっくりしたが、少しうれしかった。昔気質なその言動に、父とのつながりを感じた。上司と部下という間柄だったが、彼らは昔から仲が良かった。
「そこに座りなさい」
所長さんは椅子をくるりと回して背中を向けた。
言われた通り応接用のソファーに座ると、向かいの席のフォーマルなスーツに身を包んだ女性と目が合った。
年のころ30代後半といったところだろうか。40はいっていないと思う。美容室に行ったばかりというような毛先のそろったショートヘアの、品の良い女性だった。
「あとは私が」
その女性は所長さんに断りを入れると、たおやかな所作で名刺を差し出し
「コウノテルミです」
と言った。
はあ、と名刺に目を移した私は、少し我が目を疑ってしまった。役所や、児童相談うんぬんといった文面を予想していたそこには『純喫茶』の三文字。
そして店名があって大きく
『店長 河野輝美』
「前にも一度お話させてもらったんだけど覚えているかな?」
申し訳ないが記憶になかった。正確にはいちいち覚えていなかったというべきか。葬儀の日から向こう、私の元にはきちっとした身なりの大人が何人も訪ねてきた。私は大抵うつろで、そのひとりひとりのことまで頭が回らなかったのだ。
「そっか」気にした様子もなく河野輝美は言った。
「ねえ、ドライブしながら話さない?」
言うや否や、彼女は車のキーを取り出した。
「いいですかね? 暗くなる前には帰しますので」
所長さんは不愛想に
「あんまり遅くならんでくださいよ」
と言った。
「所長さんの言う通りだ」
ミニバンに乗り込むなり、輝美さんは独り言のように言った。
輝美さんは私がシートベルトをつけるのを待ってからエンジンをかけた。車は振動をはじめ、強い冷房が私の頬を叩いた。カーステレオから流れる知らないポップスが、自分は今知らない人の車に乗っているのだと実感させた。
パーキングブレーキが踏み抜かれると、車は広い駐車場を抜け出し、社屋を囲む農道を行った。
「なにがですか?」
私ははじめて口を開いた。
「ん? あー、あれ『子供はそんなこと気にするんじゃない』」
輝美さんは言った。
「所長さんいい人だね」
「……昔から父ともどもお世話になりました」
「そう。あの人もつらいね」
「そう思います」
「ちゃんと自己紹介していい?」
彼女は返事を待つ間もなく話しはじめた。
「私は河野輝美、漢字は名刺を見て。昔は役所勤めしてたけどいまは喫茶店の店長。旦那は単身赴任中」
んでだ、と輝美さんは言った。
「いま私は旦那を除けば五人で暮らしてる。喫茶店の上の階でね」
「孤児を引き取っているんですか?」
私は自分でもちょっとまずいと思うくらい、冷たい言い方をしていた。
輝美さんはそれには気にも留めず
「引き取る、とはちょっと違うかな」
と言った。
「里親とか里子ってわかる? 平たく言うと親元で過ごせない子供を一時的に預かってるって感じかな。国や自治体の支援を受けてね」
「私もそこに入るんですね」
「別に私は誘拐犯じゃないよ」と輝美さんは控えめに笑った。「あくまであなたがそれを望んでくれたらの話」
「だからって、どうしようもないじゃないですか」
差し伸べられた手はあたたかければあたたかいほど、私を惨めな気持ちでいっぱいにする。ご近所さんの差し入れの肉じゃがのように、しょっぱい味がする。
「道はいっぱいあるよ」輝美さんは言った。「施設のようなところは他にもあるし、誰かが養子にもらってくれるかもしれない。遠い親戚が見つかることもある。あなたはいま差し迫った状況に目が回って先のことが見づらくなっているだけよ」
押し黙る私に、彼女は少しためらってから言った。
「私が言っていいのかわからないけれど、所長さん、うちがだめならそのときは自分が養子にとるっておっしゃってたわよ」
車は大きな橋を越え、山のドライブウェイに入った。うねった山道を上る車中に会話はなかった。生い茂る木々の緑が、モザイク画のように窓の外を通り過ぎていった。
山頂の展望台で、輝美さんの奢りの缶コーヒーを飲みながら、晩春の街を見下ろした。
巨大な川を挟んで北と南に別れた我が故郷。川の北のさらに向こう、田園地帯の真ん中にぽつんと立つ四角い建物。つい一時間前までいたそこは、小さかったがすぐに見つかった。
「お宅はどこらへんなんですか?」
私は言った。
輝美さんは川の南側を指さした。「あのへん。わりと駅のそば」
「ここはじめて来ました」
「まあ地元民でもあんまり来ないよなあ」
「お宅見せてもらってもいいですか?」言いながら、胸が物理的にぎゅっと締め付けられるのを感じた。
「石田さん」と輝美さんは言った。「どうしてそう思ってくれたの?」
私は言った。「所長さんの世話にはなれないです。嫌なわけじゃないんです。でもこれまでの恩も返さないといけないのに、これ以上迷惑かけたくないんです」
そうして私は、いままで父にしか話していないことを口走った。
「私、高校を卒業したら父の会社に就職してトラックの運転手をやりたいんです」
「それは素敵な夢だと思うけど、いま決めることじゃないかもね」
そう言うと彼女は、両腕でやさしく、私を抱き寄せた。




