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ガストール男爵

 悩み見抜いても結論など出せるはずもなかった。

 自身に失望しこれ以上ない程悄然としたビビアはバートンに言われるまま従ってしまった。

 もう反論する気力さえ失せてしまったからだ。


(キース・・ごめんなさい)

 ビビアは心臓を刃物で切り裂かれるような思いを胸にキースを諦めて、先へ進むことにした。

 川面を凍らせて馬車は大河川を渡る。背後にジュダーグの森が徐々に遠ざかっていった。


 対岸までを渡り終えるとガストール男爵の領地へと入った。

 その頃には夜が明け、朝日が川面に金色の光を与えている。恐ろしい危険な森も今は陽光が緑を照らし、唯々美しい。


 美しく染まる忌まわしい森を見つめるビビアの瞳から涙があふれだしていた。

 キースを失った悲しみと、アッシュや義父母への申し訳なさに、ビビアの胸は今にも押しつぶされそうだった。



 ガストール男爵家に着いた。まだ朝の内と呼べる時間だった。

 ビビアはガストール家の執事にある程度訪問の目的を話すと応接の間で待たされた。バートンがすぐ後ろに控えている。


 しかしいくら待っても男爵は姿を見せない。

 先ぶれ無しで朝早くからの訪問という事を考えれば嫌がらせも兼ねてこの対応もあり得る。或いは、家中で対応を協議して難航しているのかもしれない。


 昼時になっても男爵は現れなかった。

 途中、控えの侍女にいつ面会が可能なのかを確認に出向いて貰ったが、執務中と回答があっただけだ。急かして心証を悪くするのもどうかと思い、ひたすら待ち続けるほかなかった。


 そして、陽が傾き始めてようやく現われた男爵は不機嫌そうだった。

 入ってくるなり、冷たい視線をビビアに向けた。

「で?救援にわが家臣団を出せと?」


「これはガストール男爵様、ご無沙汰しております。突然の訪問に関わらずお会いいただきまして感謝いたします」

 ビビアは疲れ切った表情を取り繕い丁寧に挨拶をした。


 エバンス・ルド・ガストールはじろりとビビアの肢体を下から上まで舐めるような目で見ると、フンと鼻を鳴らし席に着いた。

 50過ぎのでっぷりとした体躯。油切った顔。への字に曲がった唇。細く吊り上がったいやらしい目。その容姿でも内面が素晴らしければ違って見えるのだろうか。


「昨晩クリフロード領の北より魔物の襲撃がありました。今も夫は騎士団を率いて奮戦の最中と思われます。多くの領民の命が掛かっております。どうかすぐに救援の手を差し伸べていただけないでしょうか」

「スタンピードだろ?何故そう言わぬ。奮戦?はっ、今頃皆死んでおるわ!」


 ビビアは眉一つ動かさない。それでも内心では大いに失望していた。

 ここまで待たされたのだから、要請に応じるか否かの検討位はしてくれていると信じていたのだ。しかし、冷たい一瞥を見た瞬間に期待が外れたことを悟った。

 挨拶もなく同情の色すら浮かべない野卑な男だ。立場が下の相手には指1本動かしてやる気はないのだろう。もともと貴族はそうした生き物であるとビビアは知っている。ただ、いざ自分が弱者の立場になってこうした粗略な扱いを受けると怒りが込上げても来るが。


「夫のアッシュの剣技は王都に名を馳せております。クリフロード家の騎士団も日々厳しい修練と討伐を繰り返しており数は少ないですが、精鋭ぞろいと自負しております。例え相手が魔物でもそうたやすく殺されるような者達ではございません」

「その様に強がっても無駄だ。儂はスタンピードで生き残った者を知らん。歴史上全滅の文字は見ても撃退の報告はなかったはずだ」

「いいえ、過去には魔物を退け街と領民を守り切った例はいくつもございます。ですが、それは堅牢な城壁と屈強な騎士あってのことでした。残念ながらクリフロード領は街壁が未だ完成に至らず、騎士は強くとも数が少ないのです。私も全てが無事とは考えておりません。大勢の犠牲者が出ていると思います。それでも、隠れて生き残っている者も大勢いる筈なのです。領主の館にも大勢の民を匿っています。そうした者たちを救っていただきたいのです。もしお力を貸していただければ、あなた様はスタンピードに立ち向かった勇儀の英傑として王国中に名を轟かせることになるでしょう」

「フン、そんな名声はいらぬ。スタンピードに出かけて家来を失った愚か者として王国中の笑い者になるのが落ちだ。いずれにしても、家臣団は出さん。諦めて帰れ」


 そう言い切るとガストールは腰を持ち上げた。


「ま、待ってください!お願いでございます!領民を見捨てないでください!今はあなた様に縋るより他どうしようも無いのです!」


 ここで席を立たれてしまってはすべての希望が無くなってしまう。焦ったビビアは取り繕うのをやめ懇願の態度を取るしかなかった。


 ビビアの必死の懇願は艶めかしくガストール男爵の目に映った。

 美麗な容姿が疲れと悲しみの色にやつれ、愛する者達を救うために必死に懇願する姿だ。

 この美しく心の弱っている女を誑かし、己の欲望のはけ口に貶めることが至高の味わいであり、今はそれが可能なことに思える。


 ガストールは口端に笑みを浮かべ再び腰を下ろした。その口調が優しい言葉で諭すように変わった。露骨な態度の変化に、後ろに控えるバートンの顔が気持ち悪いものを見たように歪んでいる。


「お前の亭主も領民もすでにこの世にないと儂は思うぞ。そんな者たちの為に自分の身を危険に晒してどうする。諦めなさい。諦めて儂のところにしばらく滞在するといい。折を見て家臣団に様子を見に行かせよう。それで生き残っている者がおれば手を差し伸べてやらんでもない」

「でもそれでは・・」

「まあ、今夜のところはわが屋敷でゆっくり体を休めるといい。疲れていては正常な判断もできぬだろう。それに小さい子もいるようだし、今は休息が必要なはずだ。話の続きはまた明日にでもしよう。まだ執務が残っておるのでな。これで失礼する」


 そう言い、ガストールは部屋を出ていってしまった。



 ビビアは夕食をジュリアと二人、客室で取った。

 バートンとカタリアは使用人扱いで別に部屋をあてがわれている。


 キースの事、アッシュの事、領民や騎士団員、家人達の身が心配でならない。

 ガストール男爵の説得は願った方向に進んでいない。焦りと悲しみと疲れに押し潰され、心がばらばらになるかと思えた。


 食事は殆ど喉を通らなかったが、ビビアはグラスに注がれた葡萄酒を口にした。

 あまり上物ではなかったが、それでも疲れた心を一滴ほど癒された気がした。

 ただ、その葡萄酒には媚薬が混ぜられていた。


 ビビアは自身の体の中に生じた不自然な熱に気が付いた。

 媚薬を服用すれば人格は崩壊し、強制的に性欲に支配されてしまう。


 あのガストールの考えそうな手だと思った。

 ビビアはすぐに解毒魔法を自身にかけた。

 ビビアは聖魔法を使える。他の4属性とは違い、聖魔法は得意という程ではないが宮廷魔術師団に在籍していた折に必要であった。大きな怪我は治せないが切り傷や重篤でない解毒くらいは癒せる。媚薬程度であれば難なく浄化できた。



 そこに、頃合いを見計らったようにガストールが現れた。

 飲み干されたグラスを見てニヤリと下卑た笑いに顔が崩れる。


「食事はお済みでしたかな。少しお話をと思いましてな」

 と言いつつ、ビビアの様子を探るように見ている。

 ビビアの背筋に怖気が走った。


「えぇ、でも食欲がなくて・・」

 ガストール男爵はベッドに眠るジュリアをちらりと見る。よく眠っている。

 そのままソファーに座り、


「先ほどの件だが、お前が儂の言うことを聞くのであれば、悪いようにはしない」

 と切り出した。


「何がお望みでしょう?」

 怖気に耐えつつの自然な応対を心掛けても頬が引きつる。


「決まっている。今晩儂と閨を共にするのだ」

「その様なことでしたらご辞退申し上げます」

「は?強がるでない!わかっておるぞ。今お前の体は火照って男が欲しくて仕方ないだろう?わしが相手をしてやると言っているのだ」

 その目が色情にぎらぎらとしている。

 ビビアの眼前に立ち、湿った手で顎を持ち上げてきた。


 (顔が近い!息が臭い!気持ち悪い!)


 ビビアは内心悲鳴を上げながらも平静を取り繕い毅然とした対応を心掛けた。それでも頬がひくひくしている。

 その湿った手を上品な仕草で払い除けた。ここは気丈な態度を取ることで思い通りにならないと知らしめる必要がある。


「そんなことはありません。葡萄酒に盛られた媚薬でしたらすぐに解毒しましたから。私も貴族としての矜持があります。如何に聞き入れて欲しい願いがあろうと、そのために夫を裏切り身を差し出すなど考えられません」

「なんだと?解毒しただと?」

「はい。私は聖魔法を使えますから造作もありません。ガストール男爵様。このような手段を用いてご自分の欲を満たそうとするなど恥ずかしいと思われないのですか?」

「喧しい!!儂に偉そうな物言いをするな!」


 いきなり顔を紅潮させて怒鳴り声をあげた。

 ジュリアが驚いて目を覚まし、泣き出した。


「ふん、こざかしくも聖魔法の使い手とはな。まあいい。だが儂の要求を拒むなどできないはずだ。お前の判断に多くの領民の命が掛かっておるのだからな。」

 声のトーンを落としたガストール男爵が再びその湿った手を伸ばしてきた。


 ビビアは掌に火球を一つ生み出して男爵の眼前に突きつけた。

「もし私が今夜あなた様と閨を共にすれば必ず騎士団を派遣してくださるのですか?約束を破れば私はあなた様の命をもらい受けますよ。そのお覚悟はございますか」

「くっ、約束はできん。我が領の騎士団を失うと分かって向かわせる訳にはいかん。だが代わりに、そこの娘の後見人になってやってもいい。貴族令嬢として生きられるように取り計らってやる」

 ガストールはあっさりと騎士団の派遣を拒否した。最初からそのつもりでビビアの弱みに付け込もうとしていたのだ。

 しかしそんなことはビビアにも分かっていた。だから命賭けで誓わせたかったのだ。もっと言えば、ビビア自身が身を差し出してでも命を賭けてでもガストールから騎士団を救援に向かわせたかったのだ。

 (貴族の矜持など捨ててもいい。妻としての貞操も涙を呑んで堪えて見せる。それで領民が助かるのなら私の命などいらない)


 ガストール程の下種な輩に真っ当な倫理感を求めても意味がない。毒を盛るならば命を差し出させる。この身を欲するのならば救援を差し出させる。

 そして何が何でも領民を救って見せる。

 ビビアの覚悟はその瞳に宿りガストールを突き刺した。


「この子の保身など求めてはおりません。私の求めるものはただ一つ、騎士団の救援です。私を抱きたいとお思いであれば必ず救援を向かわせると命を賭けて約束をしてください」


 だが、ガストールの性欲はビビアの求める対価に見合わなかったらしい。

「ふ、ふざけるなよ!人が親切に手を差し伸べてやろうとしているのに!クリフロード家の領地などもう魔物に埋め尽くされて無くなっておる!蛮族のくせに偉そうに。何故儂がお前如きを抱くために命を賭けねばならんのか!無礼者めが!もういい!お前たちに救援など出すものか!今すぐこの屋敷から立ち去れ!今すぐにだ!出て行け!出て行けっ!」


 そう喚くとガストール男爵は荒々しくドアを開けて出て行ってしまった。

 あとにはジュリアの泣き声が部屋に響くばかりだった。


 まだ夜も更け切らない時刻、ビビア達はガストール家を追い出されることになった。

 ひとまず、宿を探して一泊し、その隣の領主家へ救援を求めに行くことにした。


 ガストール男爵との交渉失敗は致し方なかったとはいえ、ビビアはひどく落ちこんだ。

 早く救援の騎士を連れて戻らなければと思う重圧と、キースを亡くした悲しみがビビアの心と身体に大きなひずみをもたらし始めていた。


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