秘書
俺が風呂とじゃじゃ馬を堪能して部屋に戻ると、一枚の洋封筒が床に置いてあった。おそらく扉と床の隙間から室内に入れたのだろう。洋封筒の表には何も書いてない。裏の端の方に、シルクハットをかぶった紳士のシルエットが描かれている。
嫌な予感しかしない……
俺はその封筒をテーブルの上に置く。
2本の獲物をホルダーから外す。バッグから布と油、そして油砥石を取り出す。
ゴミを丁寧に拭き取り、油砥石で刃を砥いでいく。
命を預ける道具を乱雑に扱うなど論外だ。特に毎日調整するわけではないが、今日は日本刀と打ち合ったから獲物の調整は欠かすことはできない。
シャリシャリ……
丁寧に。丁寧に。25度になるよう砥いでいく。
国産の石は硬すぎて、俺の獲物を調整するのに向いていない。俺のお気に入りはアルカンサスオイルストーンだ。アメリカのアルカンサス州で採れる天然砥石で粗さも一通り揃っている。少々値が張るが、耐久性が高いのでコストパフォーマンスはそれほど悪くない。是非使ってみて欲しい。
ブレードの角度は用途によって異なる。キッチンナイフは15度から20度、ハンティングナイフは20度から25度、サバイバルナイフは25度から30度の角度で砥ぐことをお薦めする。
ハンドルのクリーニングまで一通り終えたときには、22時30分になっていた。
……約束の時間だ。
危うく遅れるところだった。
俺はスマートフォンを取り出し、電話をかける。
着信待ちの音楽がかかる。
AKW48……残念ながら、俺は半数も覚えられない。因みに俺のスマートフォンの着信音は「Brucia la terra」だ。ゴッドファーザーの愛のテーマと言った方が一般的だろうか。日本語では「愛は燃えている」と訳されることが多い。サビの部分で歌われる「君が戻ってこないのなら 太陽が輝くことは二度とない…」という表現を聞くたびに熱いものが俺の中に込み上げる。
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……プツッ
音楽が途切れる。電話を取ったようだ。
「もしもーし。のりりん? あーちゃんだよー」
俺の秘書だ。これで元公安なのだから恐れ入る。最近は公務員も質が落ちているのだろうか。
「愛しているよ。今日も一日問題なかったかい?」
本気で気にかけて聞いている。
「うーん。ダイジョウビ。依頼したいって人がいっぱい来たけど、間に合ってますって全部断った!」
ああ、秘書を採用してから、どんどん収入が落ちていく。
「そ……そうか、大変だったんだね」
「うん。そーだよ。あ。聞いて聞いてあーちゃん今日はねー豚汁作ったの」
「それは残念だ。是非俺も食べたかったよ」
料理は食べたくない。だけど、料理を食べる俺を優しく見つめるその笑顔は見たい。このジレンマ。
「野菜がとろけるように、仕上げにぐつぐつ煮立てたの。もうばっちり」
いけない。味噌は煮立てると風味と香りが飛んでいく。旨味成分も変質し、ろくなものにならない。
「そ……それは美味しそうだね」
「うん。帰ってきたら。のりりんにも食べさせてあげるねー」
何故、この秘書を首にできないか? 疑問に思う人は多いと思う。
……美人で、スタイル抜群で、性格も最高なんだ……
おまけに夜はサービス精神満載。終わった後に「のりりん気持ち良かった?」とか「大好きだよ。のりりん」とか「あーちゃんはのりりん無しでは生きられません」とか笑顔で言われてみろ。首に出来るやつが果たしているだろうか。
◇◇◇
時刻は24時を回った。
「あーちゃんはねー。言ってやったんだー。おろしたお魚は3枚も要りません。1個で十分です。何故ならのりりんが出張中なのです。って」
魚をすりおろしたものを想像したのだろうか? おそらく魚屋は3枚におろした方が良いか聞いたのだと思う。
「さ……3枚はいらないね」
「でしょーのりりんもそう思うよねー」
まずい。そろそろ話を戻さないと。
「そういえば、頼んでいたお仕事は大丈夫だった?」
「うん。ばっちりだよー」
「えーとねー。とんスキ評論家の三行先行先生にお仕事受けてもらいましたー。LIMEのIDはXXXXだよー。これでいつでもLIMEで聞けば謎解きしてもらるよー」
まじか。『異世界でとんスキ』の要約が貰えればそれで良いと思っていたが、まさかのリアルタイムでの相談も受けてもらえたのか。うちの秘書は玉に信じられないことを成し遂げる。
「狼牙風子さんは偽名ー。田中佳子さんは同じ名前の人が多くてもうちょっと時間がかかるよー」
狼牙風子の名前は聞いておくべきだったな。
田中佳子女史は名前が平凡すぎる。これは仕方ないだろう。
「神風卯月さんは34歳で大手広告代理店に勤務だよ。論理的な考え方?をするんで、新人さんに人気らしいよー」
論理的すぎて読みやすいくらいだな。
「ネクサス・スペースビーストさんは35歳。美術品関連を取り扱う古物商?だって。宝石や絵画なんかが専門みたい。他には、盗まれたものが売られてたって噂があったよー」
他の色々な情報よりもファミリーネームが気になるわ!
「胃辺利己豚男さんは48歳。スペインで三ツ星レストランでシェフ。シェフだよ、シェフ。日本に帰ってきてからも銀座のレストランでシェフだって。今度食べに行こうよー。今回のゲームのみの契約で臨時で雇われてるって書いてある」
「ああ。食べに行こうね」
偽名じゃないのか……
「米下刻男さんは31歳。パチンコ大好きなんだって。お仕事はなし。なんか4年くらい前に美少女を監禁してたとかで噂になってたらしいよ。最低だねー」
予想以上に最低だった。
「池谷美香さんは31歳。昔はOLだったらしいよ。今は小説家だって。あんまり売れてないみたいで1巻だけって小説が多いみたい。エッチなお店でバイトしているって情報もあったよ……のりりん。のりりんは格好良いから浮気するのも仕方ないけど、ちゃんとあーちゃんをかまってくれないと、あーちゃん泣くからね」
「浮気なんかするわけないだろ。この仕事が終わったら、2人きりで旅行でも行こうか?」
「のりりん。大好きー。のーりりん。のーりりん」
秘書を通さず個人的に調査すべき案件を心に刻む。
「華月花さんは20歳。KO大学2回生だって。こないだ女の子にお酒飲ませて乱暴した大学かー」
大学が乱暴したわけではなく、生徒が乱暴したはずだが?
「石田翠さんは18歳。14歳のときに事件にあったんだって。1週間くらい前にそのお屋敷で雇われた始めたみたい」
昔から勤めていたのかと思った。事件……米下の情報にある4年前の監禁事件の被害者か? その割には気丈な態度に見えたが。
「追加でお仕事のお願い良いかな?」
「うん、良いよ。何でも言って」
返事がとても良い。完全に深夜労働の時間なのだが気にもしない。ちょっとは気にしてくれないと労働基準監督署に立ち入られる。
「”死者の書”というものの情報が出回ってないか。傍観者という名前の国際指名手配犯の詳細情報が知りたい。20代の野太刀自顕流を使う女の情報。おそらく銃砲刀剣類登録証を持っているはずだ。その3つを頼む」
「”ちしゃのしょ”と”ぱいすちゃんたー”と”のだちちけんりゅー”だね」
「ああ。頼んだぞ」
「うん!」
名称が間違っているが問題ない。何故か知りたかった情報に辿り着く。そんな能力をこの秘書は持っている。
「そう言えばねー、のりりん。隣の家の小池さんが赤ちゃん出来たって」
まずい、NGワードが出だした。
「そ、そうか、小池さんのところは3人目だったかな?」
「うん。可愛いよね子供って……あーちゃんも欲しいなー赤ちゃん……」
「し、仕事が落ち着いたらそういうのも良いな」
「……ごめんね。のりりんのお仕事、危険だもんね。あーちゃん馬鹿だから、また言っちゃ駄目なこと言っちゃった……」
俺の仕事が恨みを買いやすいのが問題だ。本気で何とかしないといけないな。
「今日作った豚汁なんだけどねー……」
彼女は話題を変えてくれた。本人は自分を馬鹿というが、本当の馬鹿はこういう機微が効かない連中のことを指すのだろう。
俺は彼女の優しさに甘えて世間話を続ける。
明日の朝は起きられるだろうか……
そんなことを考えていた。
ふと、テーブルを見ると、その上には忘れられた洋封書が寂しげにぽつんと置いてあった。




