欠けている二人
取り残された私は、どうしてよいのか分からず、取りあえず二人分の会計をすませ、すぐに彼女が入院しているはずの内科病室のあるエリアへと向かう。
その階に降りると、鈴木香織が言っていたように元気な赤ちゃんの泣き声が響いている。
ナースセンターの受付にいくと、やや怪訝な表情をされたけど事情を話すと納得してくれて一つの病室を教えてくれた。
礼を言って離れようとしたら、丸顔の看護婦さんが戸惑ったように私に問いかけてくる。
「あの、鈴木さんといつも、レストランで会われているのですよね?」
私と彼女との組み合わせがそんなに妙に思えたのだろうか?
「はい」
看護婦さんは、おずおずとした様子でさらに聞いてくる。
「そこで、鈴木さんはどんな感じでした? そこで何か口にされていました?」
「は?」
思ってもいない事を聞かれ、私は間抜けな声をあげてしまった。
「いえ。鈴木さん病室で食事を殆ど手をつけられないのですよ。今日、貧血で倒れたのも、その所為かと……」
私は昨日、今日の彼女の様子を思い出す。彼女は紅茶とか飲み物は飲んでいたけれど、何かを食べていた事はない。
今日の支払いも、紅茶とオレンジジュースだけ。私はその旨を伝えると、看護婦さんは大きくため息をつく。心底、患者さんを心配している様子の看護婦さんに、私は何もそれ以上の情報を与えることができなかった。
拒食症? いや、入院する前の日、ホットケーキが彼女のテーブルに確か載っていたし、食べていた。入院してから食べられなくなっているという事だ。
私はもう一度看護婦さんにお辞儀してから、激しい赤ちゃんの泣き声をBGMに病室に向かう。
ドアは開いていたので、取りあえず挨拶だけして入ると、手前のベッドに鈴木香織が寝ているのが見えた。手術の前の人が着る簡易寝間着に着替えさせられ、点滴チューブが先程と反対側の手につけられていた。顔色が『白い』を通り越して『青い』。
「香織ちゃん?」
恐る恐る話しかけると、鈴木香織はゆっくりと目を開けコチラを見てフワっと笑う。
「ごめんね、みっともない所をみせて」
元の穏やかな彼女に戻っている。私はニッコリ彼女に笑い返す。
「いやいや、あの母親にはキレて当然よ! しかも謝りもしないなんて信じられない。それより背中大丈夫? 火傷はしてない?」
彼女は『ん~』と考えてからニッコリ笑う。
「ヒリヒリもしてないから、大丈夫みたい」
フード付きの上着と彼女の長い髪が、熱さから守ってくれたのだろう。
「良かった」
私はホッと胸をなでおろす。
「ダメだね、私、あのお母さんに八つ当たりしちゃって」
彼女はゆっくりと上半身を起こす。
「え?」
あれは怒って当然だし、あの母親が百パーセント悪い。確かに怒り方はやや尋常でなかったものの、鈴木香織が悪いとは思わない。
「私達夫婦ね、もう結婚して五年なんだけど子供ができないの」
彼女らしくない苦い表情を浮かべて、そんな事を話し出す。
「二年経った頃から、お姑さんを初め親戚が騒ぎ出して、通院したり漢方治療してみたりと色々試していて、もう何がなんだか分からなくなってしまって」
その言葉で彼女が何で、私に親しげに話しかけてきたのか分かってきた。
「自分が本当に、子供を欲しいのか、愛の為なのか生殖の為なのかセックスの意味も分からなくなってきて」
彼女は独り言のような感じで言葉を続けていく。先程一回キレたことで、心の扉の鍵が外れてしまったのだろう。心の奥に仕舞われていた筈の彼女の懊悩の感情がこぼれるように外へと流れ出す。
「お医者さんに、『排卵していますから今夜頑張って下さい』なんて言われ続ける事も堪らなくて」
鈴木香織が私に対して感じているであろう感情に対する不快感。同時に私は完璧な女の幸せを味わっていると思っていた鈴木香織でも、こんな風に苦しみ悩んでいるという事実に対してどうしようもない暗い喜びを覚えていた。
相反する感情に翻弄されながら、彼女の口からただただ流れてくる言葉をじっと聞いていた。
彼女の言葉を聞きながら、怒りを帯びた不快感と、歪んだ歓喜の感情の間で、チックタックチックタックとメトロノームのように感情の針が揺れ動く。どちらにしても、どす黒い私の醜い感情。
「で、貴方は、私が貴女以上にどうしようもない不幸を抱えているから、優越感を楽しむ為に近づいてきたの? それとも同情?」
鈴木香織の言葉が終わったときに、感情の針が止まったのは不快の方だった。しかし彼女はブルブルと横に振った。
「違う! 薫さんみたいに強くなりたかった」
強い? どこが? どうしようもない苛立ちを抱え、世の中にいる女性みんなを憧れながらも嫉妬に狂っている私の何処が強い?
そう、さっきのレストランでも、あの当たり前のように無邪気に女の幸せを謳歌するヤンママ集団にも、鈴木香織以上の苛立ちと嫉妬を感じていた。そして、ああいった無邪気に私を傷つけていく人間達以上に、こんな醜い自分自身が嫌で堪らない。
いくらお洒落して、化粧して綺麗に見せても、こんな醜い私を誰が愛してくれるというのだろうか?
「は?」
私は聞いていられないと、車椅子を動かそうとするが、彼女が手を伸ばして私の手を掴んでくる。
「薫さんは覚えてないかもしれないけど。レストランで会う前に私、見ていたの。貴女の事」
あまりにも必死な様子と鈴木香織の言葉に私は動くのを止める。それに彼女が私を掴んでいるのは、先程血を流していた方の手だ。むやみに振り払えない。
「え?」
「あの日の午前中。耳鼻科で待っていた私の横を貴女が通り過ぎたの」
どうしもうもない苛立ちを抱えながらあの日は、診察室に向かっていた。彼女の記憶に残ることをした覚えはない。
でも私の存在そのものは、インパクトあったかもしれない。GIDの診断は受けているものの、今はカウンセリングのみでその先に進む治療は続けていない。その後のホルモン剤治療や性別適合手術や戸籍変更手続きなどにはそれなりの費用がかかるので、今それを必死で貯めて稼いでいるところだ。
忌々しいことに、その半分以上は元彼に貢いでしまったから、また頑張らないとダメだけど。
またせめて両親には理解してもらいたいという想いが残っているだけに、踏ん切りがついていない。二十歳を超えたから保護者の許可なくても大丈夫なのだが、せめて親にだけは娘と認めてもらいたい。
つまり、今の私は人から見たら、単なる女装している男性でしかない。そんな人間が派手な怪我をして通り過ぎたのだから。目立つだろう。
「そしたら、品のない中年男性が貴女に酷い事を言って」
ああ、あの件かと、思い出した。
車椅子を動かして診察室に向かっていると、禿げていて下劣で頭も悪そうな親爺が、私の方を見てニヤニヤ近づいてきた。
『なんだ、ゴツイ姉ちゃんと思ったら、オカマか~あんたチンチンまだ付いているのかよ?』
態と大きな声で、冷やかしてきた。
私は羞恥と怒りで視界がボワッと揺れた気がした。もし足がこんなのでなければ、立ち上がってソイツを殴ってやりたかった。性同一性障害が一般で理解されていないのは分かっている。家族ですら、それが難しい状況。
理解というのはそれだけ難しいものだから、それは仕方ない。一番堪らないのはこういう、理解もせず面白可笑しく茶化してくる輩である。
『アンタのチンケなモノより立派なのがね! オッサン!』
私は態と相手を思いっきり蔑んだ顔で見てから、ドスを効かせてそう言ってやった。
「私はあの光景をみて、爽快だったの。薫さん格好良かった!」
ウットリとした表情で話す鈴木香織を複雑な気持ちで見つめる。
あれの何処が格好よかった? かかなくて良い恥をかいただけだ。相手のオッサンの口ごもった悔しそうな顔が見られた事だけが唯一スッキリした所。
でも彼女の目をみると、私を蔑んだ目とか同情の目とかではなく、素直に愛敬の意志で見つめているのは分かった。
彼女の方が年上なのに、私の方がお姉さんみたいだ。刻印づけみたいなもので、不安やストレスを溜め込み鬱いでいた彼女には、あの時の私はよほど頼りがいのある者に映ったのだろう。そんな無邪気な瞳に見つめられているうちに怒りや不快感は、消えていった。
「私はさ、電話の度に子供がまだかと言ってくるお姑さんとかに、あんな風に言い返せればどんなに爽快だったか『そんなに子供が欲しければ、義母さんが産んで!』とかね」
「言ってやれば良いじゃん」
悪意はなくても、人の言葉は確実に人を傷つけ痛めつける。彼女はずっと、無邪気な言葉に傷つけられボロボロになっていった。そういった人には、気付かせない限り分からない。鈴木香織は、苦笑して首を振る。
「薫さんといたら、私も強くなれる気がしたの」
今度は私が苦笑して首を振る。
「私は強くないよ、結局親に拒絶反応を示されたら、怖くて逃げて。今も楽な方、楽な方に行っている」
「でも、薫さん颯爽としていて格好良いよ!」
「『格好良い』か……出来たら『可愛い』とか、『綺麗』とか言って欲しいけどね」
『格好良い』と言われるのも久しぶりだ。高校まで男の格好していたときは、結構言われていた。女の子受けする顔らしくて意外にもてた。それに女性に性的な興味なんてなかっただけに、それが今流行の草食系男子にも見えたのだろう。告白もよくされて、彼女も何人かいた。とはいえ、私は男として彼女達を愛せない、どの恋愛もすぐに終わってしまったけど。私にとっては複雑な武勇伝。
「可愛いは言い難いかしら。綺麗の方がシックリくる」
鈴木香織はフフフと笑う。彼女が居心地良いのは、私が男とか女とかではなく鈴木薫である私を受け入れてくれているからだと、今分かる。
男の身体をもって生まれてきたために女と世間で認めてもらえない私と、子供を産まないからと相手の家族や親戚から一人前扱いされない鈴木香織。女でありながら女という部分を社会から否定されている。
どちらも世間からみたら『欠けている』二人。
『欠けてない人』には見えない世界に、私達はいる。
「綺麗か、この痣がなければね~」
「そうだね~化粧したら華やかさも増して素敵なんだろうね~。楽しみ」
子供みたいな無邪気な顔で笑う。良い意味で子供なんだ。無垢な上、か弱い存在。
「今日は、もう寝たほうがいいよ、疲れたでしょ? あとご飯もちゃんと食べるんだよ、なんか細くなってきたんじゃない」
鈴木香織はチョット困った顔をするが、頷く。
私は携帯アドレスを交換して、部屋を後にした。そして、まっすぐナースセンターの所に行く。
「あの、鈴木香織さん、他の階の病室に移動できませんか?」
先程会話した丸顔の看護婦さんに頭を下げて話を切り出す。
キョトンとした顔をしたけれど、看護婦さんは真剣な顔をする。
「鈴木さんが何かおっしゃったのですか? 病室で困った問題が起こっているとか」
私は首をふる。病院や病室に対する不満は一切言ってない。
「不妊治療で悩み苦しみ続けて突発性難聴になった女性を、産婦人科の側の病室は酷です。私のような性同一性障害の人間を戸籍の性別だけで男性部屋に入れるのと同じくらいね」
看護婦さんはハッとした顔になる。優しい良い看護婦さんなんだろう。でもカルテの上でしか患者を見ていない。まあ患者自身の隠している心の奥を、察しろというのも難しい話でもある。
「私の件はいいです。女性部屋に今の私を入れるのも難しい所があるのは分かっていますから。それに慣れています。でも彼女の方だけでも何とかしてやってください。あの状況だと治るものも治らなくなります」
私は頭を下げて、内科エリアを後にした。そして、あの男臭くやかましい外科にある私の病室に帰る。部屋でいつものようにカーテンを締め切り、病院の味気ないご飯を食べていると、メールがきた。鈴木香織からだ。
『なんかね、病室移動になるみたい! 外科病棟って、もしかして同じかな? 6-Cエリアだって』
私はそのメールをみてホッとする。
『そうなんだ、私も6-Cエリア、でも流石に同じ部屋にはならないかな』
『そっか、同じ部屋じゃないのは残念だけど、ご近所付き合いになるのは嬉しいな♪』
なんか、最悪な入院生活も少しは楽しくなってきたかもしれない。私は珍しく病室でニコニコ笑っていた。薄いカーテンの向こうにはウザイ世間があるけれど、今このカーテンで仕切られた中の世界は、昨日よりも遥かに心地良い世界に変わっている。私達は、消灯の時間まで、メールでガールズトークを楽しんだ。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
薫と香織の物語『ピースが足りない』という続きの物語があります。
また薫の高校時代の物語を『アダブティッドチャイルドは荒野も目指す』を連載中です。
ご興味をもってくださった方はそちらをどうぞ。