第1話 強欲な魔導士と、夕闇の街道の怪しい商談
「……ん?」
自分の腰に、見覚えのない「重厚で体温の低い肉塊」が絡みついていることに気づいた瞬間、エルレアの心拍数は垂直立ち上がりを記録した。
「……!?!?!?!?」
ぎぎぎ、と油の切れた人形のような動きで横を向く。そこには――無駄に整った顔を無防備に晒し、吐息が届く距離で熟睡する彫刻のような男がいた。
「ぎゃああああああああああああ!!」
渾身の蹴りが男の脇腹を捉え、彼は文字通り床へと転げ落ちた。だが男は床に衝突してもなお、幸せそうに寝息を立てている。
「し、死んだ……? いえ、死んでてくれた方が清算が早いわ……」
震える手で乱れた髪を掻き上げようとしたエルレアは、指先に走った「異物感」に凍り付いた。
――左手の薬指に、忌々しい呪いの指輪が、まるで最初から体の一部だったかのような顔をして鎮座していた。
「ひ、ひいぃぃっ!? 抜けない! 嘘でしょ、潤滑油! 誰か食用の油でもいいから持ってきて!!」
回しても、力任せに引っ張っても、指輪は皮膚に同化するように密着している。
「ま、魔石魔法で指ごと破壊して再生魔法で――あ゙い゙だだだだだ!!」
魔石を手にし、手の魔術印に意識を集中したその瞬間、脳を針で突き立てられたような激痛が走った。
「なな、なんなのこの特級呪物……ッ!」
「あー……それ、無理矢理外したり壊したりすると、精神ごと粉砕する仕様だからおすすめしないよ?」
背後から聞こえた、鼓膜を甘く撫でるような間延びした声。
振り返ると、床に落ちたはずの男が、いつの間にかベッドの上で頬杖をついてこちらを見上げていた。
寝起きの気だるさを色気に変換して振りまきながら、男は当然のように微笑む。
「――おはよ。僕の『飼い主』さん」
「この寄生虫! 今すぐこれを外しなさい! 精神的苦痛と不法侵入による損害賠償、一秒ごとに複利で加算するわよ!」
なぜ、こんな事になっているのか。
エルレアは頭を抱えながら、ほんの数日前――この街に流れ着いて間もない時のことを思い出していた。
(そうだ。あの時、あの男を殴ってさえいなければ――)
◇
街道を走る馬車が、軋む音をたてながら夕陽に急かされるように走っていた。
「助かったわ、お兄さん。馬車が一台もつかまらなくて、今日は野宿を覚悟していたところよ」
エルレアは揺れる荷台で、御者席の商人に声をかけた。
「なに、たまたま方向が同じだったからね。旅は道連れと言うだろう? 美しいお嬢さんを一人で歩かせるのは、紳士のポリシーに反するよ」
商人は人の良さそうな笑みを浮かべた。フード付きのコートは質が良く、着こなす男の手指は、商人のそれにしては白く細すぎた。
「有難いけど、タダより高いものはないってのが私のポリシーなの。これ、馬車代の代わり」
エルレアは商人を品定めするように眺め、革バッグから小さな箱を取り出した。
「これは?……マッチかい?」
「ただのマッチじゃないわ。光魔法が込められてて、五時間光るの」
一本取り出して見せると、陽が落ち始めた馬車道を明るく照らした。
「夜道でも、合図でも、使い捨てでこの明るさ。二十本入りで、銀貨十枚。安いでしょ?箱買いならさらにニ割引きよ。他にも――」
エルレアは、向かいに座る柔和な笑みの商人に次々と自作の魔道具を突きつけていった。
商人は、その魔道具を細い指でなぞりながら感心したように声を漏らす。
「へぇ、これは素晴らしい。下級魔導士が作るガラクタとは一線を画している……。魔導レベルの高さが伺えますね。お嬢さん、貴方のような方が、なぜこんな街道で路商を?」
「……勉強代が高くついたのよ。人間、信じられるのは自分と『目に見える資産』だけだってね」
エルレアは自嘲気味に鼻で笑う。
その視線は、商人の腰に下げられた革袋――そこに詰まっているであろう魔石の膨らみに、獲物を狙う猛禽のように釘付けになっている。
商人は不気味なほどに穏やかに微笑み、瞳の奥に妖しい光を宿した。
「それは残念だ。ですが、絶望の果てにこそ、真に美しいものが花開くと言いますからね……」
その時、轟音と共に馬車が激しく跳ねた。
車輪が地面を削り、砂埃を上げる。
馬のいななきと同時に野卑な怒号が夕闇の街道に響き渡った。
「止まんなァ!」
白く光る刃物を振り回す集団が、傾ぐ馬車の隙間から見えた。――盗賊だ。
衝撃で馬車の扉が吹き飛び、エルレアと商人は外の地面へと放り出された。
「……くっ」
エルレアは咄嗟に頭を庇いながら受け身を取り、地面に転がる。
「金目のモノをよこしな!」
陳腐なセリフにげんなりしながら顔を上げると、数人の盗賊が街道を塞いでいた。
「ひぇ……! た、助けてくれ! 命だけは、命だけは!」
すぐ横で怯えながら地面に這いつくばる商人ごと、盗賊たちは薄笑いを浮かべて近づいてくる。
「……ねぇ、商人さん。その魔石、使わせてくれるなら——」
言いかけた、その時だった。
「……っ」
不意に、首筋の《刻印》が焼けるように痛んだ。
痛みだけではない。ぞわり、と背筋を這い上がる感覚。
視界の端に、ありもしない白い羽根が舞い落ちた気がした。
――五年前、魔塔での日々が崩壊した、あの最悪の夜の感覚。
(……またこれ。触れられたくないものに、指を突っ込まれるような感覚……)
記憶の底に沈めたはずの、不快な感触。
エルレアはその全てを拒絶するように奥歯を噛み締め、無理やり意識を現実へ引き戻した。
(……不快感に割く時間は一秒も無駄よ。今は目の前の商談が優先!)
「……その魔石、使わせてくれるなら護衛を引き受けてあげるって言ってるのよ」
エルレアは盗賊に聞こえないように商人の耳元に口を寄せて囁いた。
「ま、魔石?ああ、全部、ぜんぶ君に、預けるよ……!」
商人が地面に顔を伏せたまま、震える声で叫ぶ。
同時に、盗賊たちの刃物が地面を叩いた。商人が細い悲鳴を上げる。
「……ちょっと、あんた達……」
エルレアは砂埃を払ってゆっくり立ち上がり、盗賊たちをまっすぐ見据えた。
十数人の盗賊が剣を構え、彼女を取り囲む。
「おいおい、よく見たら綺麗な姉ちゃんじゃないか」
下卑た笑みを浮かべた盗賊がエルレアに近づいてくる。
「へへ、ちょっとくらい楽しませて貰おうか?身ぐるみ剥いで――」
「うるさいわね。商談中よ」
エルレアの瞳から温度が消える。彼女は這いつくばる商人の懐から、強引に魔石の袋をひったくった。
「これ、護衛費として全額徴収するわよ。ひっひっひっ、いい利息がつきそうね!」
エルレアが魔石を握りしめた瞬間、石の中に眠る魔力が「悲鳴」を上げた。
端金の魔力が彼女の強欲な術式で強制的に圧縮され、高効率の爆薬へと変貌していく。
——安物でも、使い方次第。
両手の甲に刻んだ魔術印が淡く光を持ち始める。首筋の刻印が主張するように鈍く痛むが、彼女はそれすら魔力に変えて魔石を握りしめた。
「さぁ、取引といきましょうか」
冷徹な声と共に魔石が弾け、同時に極彩色の魔力の奔流が盗賊たちを飲み込んだ。
散り散りになって逃げる盗賊達に、エルレアは次々に魔石を弾けさせながら容赦なく魔法を打ち込む。
「ひーっひっひっ、逃がさなぁい!」
どちらが悪党か分からないような笑みを浮かべながらも、正確な追撃は、悲鳴を上げる暇さえ与えない、一方的な蹂躙だった。
「毎度ありがとうございましたぁ!」
最後の一人の足を打ち抜き、昏倒させると、街道は再び静けさを取り戻した。
エルレアは倒れた盗賊たちを一瞥もせず、魔石の袋をしっかりと懐に収める。
その時、街周辺を警備する哨戒用浮遊ゴーレムが警笛を鳴らし始めた。
(思ったより、街に近づいてたみたいね。派手にやりすぎたかしら)
「……お、お嬢さん。警備兵が来る。逃げないと」
商人がおずおずと声をかけるが、エルレアはすでに歩き出していた。
「助けたお礼にこれは貰っておくわ。さよなら、いいカモさん!」
言いながら彼女は一人、コートを翻しながら、夜の帳が降りる街へと足早に消えていった。
一人残された商人が、ゆっくりと立ち上がる。
その顔から怯えの色は、霧が晴れるように消え失せていた。
商人は自身の胸元に手を当てる。そこには、エルレアと同じ刻印が、狂おしいほど激しく脈打っていた。
「……いいね、エルレア。もっともっと、僕を楽しませておくれ」
フードが風に飛ばされ、月光の下で銀色の髪が舞う。
――それは、只人が見れば地上に降りた神か天使のように思うだろう。見るものを畏怖させる風が吹き、白い羽根が舞う。
神々しくも禍々しい金色の瞳が、エルレアの後ろ姿をなぞるように見つめ、歪んだ悦びに細められた。
「ボクを拒む君の魔力、……最高に気持ちいいよ、エルレア」




