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第16話 眩きシリウスと静謐なるポラリス


1. 洋紅の残照、弾けるリズム


午後6時。


翠松町の坂道を染め上げる洋紅色の残照は、この頑強な地下の扉に遮られ、届くことはない。


かつて巨大な貯蔵庫として静まり返っていたその空間は、今や店主である咲良理人が己の音響美学のすべてを注ぎ込み、趣味の枠を遥かに超えて造り上げた本格的なライブ&ダンスホールへと生まれ変わっていた。


今夜、その気高い聖域は、地上では決して見ることのできない非日常の熱気と、色鮮やかな光の微粒子で満ち満ちていた。


大型スピーカーから重低音の波となって押し寄せるのは、まだ夜の始まりを告げるディープ・ハウス (Deep House) や、どこか気怠くも愛おしいローファイ・ヒップホップ (Lo-Fi Hip Hop) の旋律。


無段階に変化するライティングのプログラムを指先で切り替える理人の横顔を見つめながら、燈子は胸の奥の、張り詰めていた弦がそっと緩んでいくのを感じていた。


「理人さん、本当にたくさんの人が来てくれましたね……!」


フロアのあちこちで、弾けるような笑い声が静かな音楽の隙間を埋めていく。


創作和ノ食『流美星出るみせで』の店主である三沢が連れてきた、20人ほどの友人たちは、心地よい重低音の海に身体を軽く流すようにして早くもステップを踏み始めていた。


燈子の大学の友人であるモナカ、ナナカ、ココアの3人は、きらめくカクテルグラスを片手に「すごーい!ここ本当に箸と匙の地下!? 秘密基地みたい!」と瞳を輝かせて声を弾ませている。


少し後ろでは、燈子の親友である湊・マリーヌ・玲が、どこか異国の風を纏った凛とした佇まいで、フロア全体の空気を静かに見守っていた。


カウンターの奥では、理人の妻の彩代が立ち、訪れるゲストを温かい微笑みで迎えている。


そのすぐ傍らには、三沢の店の大切な常連客であるという、どこか現世から超然とした雰囲気を纏う四家緋和しか ひいろの姿があった。


海凪みなぎなぎさドクターも、デボラ・ギースも、この地下に宿る特別な夜の気配を心から楽しんでいた。


「ふふ、燈子ちゃん。これ、とびきり愛おしい夜になりそうね」


1階の厨房から、特製の料理用エレベーターで次々と降ろされる、美しく盛り付けられたビュッフェスタイルの料理や、ハーブが香る色彩豊かなドリンク。


その贅沢なビュッフェ台の傍らでは、なぜか『ぷちれかん』の星名レイラが、完璧に調律された美しい所作でアテンダントとしてゲストを案内していた。


誰もが笑い、誰もがこの幸福な空間に身を委ねている。


しかし、きらびやかなライティングがフロアを網目のように照らし出す中で、燈子の脳裏だけは、わずか3日前の夜――この同じ場所で起こった、あの静謐な出来事を、激しく、深く振り返っていた。





2. 地下室の秘密、双星の調律



あの日、キャットウォークから落下した数百キロの鉄の塊が、理人の放つ「銀色の視線」によって虚空に釘付けにされ、音もなく床へ着地した直後。


広大なホールの片隅、琥珀色の光を落とす小さなスタンドライトの明かりの中で、二人は息を詰めて対峙していた。


「理人さん……わたし……」


消え入りそうな、今にも涙になって零れ落ちそうな声で俯く燈子。


正体を隠して生きるという母との固い誓いを破ってしまった恐怖と、この大好きな居場所を失うかもしれない絶望が、彼女の華奢な肩を小さく震わせる。



だが、感情の微かな揺らぎをプロの給仕として、そして何より同じ「異能を持つ者」として敏感に察知していた理人は、いつものあの、世界を全肯定するような凪いだ声で静かに微笑んだ。


「燈子ちゃん、心配しなくていい。君の異能にはね、なんとなく前から気がついていたんだよ」


「あ……」


燈子が驚いて顔を上げると、理人は子供のように無垢な興味をその瞳に宿し、じっと彼女を見つめた。


「燈子ちゃんの異能は、僕とは力の根源が違うみたいだね。世界の仕組み……ここではない外にあるエネルギーを借りて利用するような力なのかい?」


「はい……。母は、それを『魔法』って呼んでます」


「魔法か。素晴らしいね」


理人はまるで、長い年月をかけて熟成された極上のヴィンテージワインを愛おしむように、心底楽しそうに目を細めた。


「じゃあ、発動のプロセスは、呪文を唱えたり、精密な魔法陣を床に描いたりといった、厳密な『ルール』に従うものなのかな?」


「あ、いえ……わたしの場合は、心で強く念じて、指をほんの少し動かすだけで、自然の法則を書き換えて現象を起こしてます」


「ええっ? それは僕の発動プロセスと、驚くほどよく似ているね」


理人は感嘆したように、美しい輪郭の顎に手を当てた。


「僕の場合はね、脳から出る電磁波や精神エネルギーが、直接物質に干渉しているんだよ。生体エネルギーとでも呼べばいいのかな。だから、限界を超えて能力を使いすぎると、鼻血が出たり、脳が焼き切れるような激しい頭痛に襲われたりする。肉体的なリバウンド、つまり等価交換の痛みが伴うんだ」


「そうなんですね……。わたしは、空気のように世界中に満ちているエネルギーを、ストローで吸い上げるようにして使っているんですけど……それができる魔女は、私と母だけなんです。普通の魔女は、自分の体内の魔力を削って使うそうなので」


「ちょっと待って、お母さんも魔法が使えるのかい?」


「はい、うちはそういう家系らしくて……ははは、ちょっと遺伝が強めというか……」


頭を掻いて誤魔化す燈子の姿に、理人は冗談めかすことなく、大真面目な顔で深く頷いた。


「それは、とんでもなく素晴らしい家系じゃないか」


「素晴らしい……。でも、いろいろと難しい問題もあって……」


「難しい問題?」


「それは……その、ちょっとまだ、私からは言えないんです。すみません……」


「そうか。うん、わかった。無理に話さなくていいよ」


理人は優しく首を振ると、ポンと静かに手を叩いた。


「ところで、君は僕と違って、魔力を外部から調達しているなら、異能を『使い放題』という認識でいいのかな?」


「あ……使いたい放題というわけでは……。世界中にどれだけ大量の魔力があっても、それを自分の体に取り込むための『ストロー』――魔力回路や、人間でいう肺のような器官ですね――の太さがまだ小さいので。今は、一度に大量の魔法は使えません」


「つまり、まだ成長過程で、それだけ大きな伸び代があるというわけだね」


「はい……」


「うん、ますます素晴らしいな」


理人の屈託のない純粋な称賛に、燈子は胸が熱くなり、ぎゅっとエプロンの端を握りしめた。


「あの、理人店長……私、お店を辞めなければいけませんよね。経歴を詐称して、こんな得体の知れない危険な力を隠して働いていたんですから……」


「燈子ちゃん、ちょっと座ろうか」


地下室に響く、ゴーという静かな換気扇の音。

エアコンの吹き出し口から流れ落ちる、心地よい冷気。


理人は電子ケトルに水を入れ、手際よく湯を沸かすと、ブレンドしたお気に入りのハーブティーを燈子の前に差し出した。


ホールの意匠に美しく溶け込む、贅沢に仕立てられた本物の椅子に二人で腰掛け、温かい湯気の向こうで静かに対面する。 


「燈子ちゃん、お店を辞める必要なんてどこにもないよ」


「え、でも……本当に経歴詐称ですし……」


「経歴詐称? ふっ……ふはははは!」


理人はこらえきれずに、肩を揺らして声を上げて笑った。


「履歴書に『職業:魔女』って書くのかい? ない、ない、絶対それはないよ」


「そうなんですか!?」


「じゃあ僕の場合は、職歴の欄に『超能力者』と書かなくてはならなくなるね。そんな履歴書、どこに行っても一発で不採用さ」


「……ないですね」


「だろ?」


二人の笑い声が、地下ホールの高い天井に跳ね返って、優しく響いた。


燈子の胸の支えが、ハーブティーの湯気に溶けるようにすっと消えていく。


「僕たちが住むこの世界にはね、稀に僕たちみたいに、何らかの異能を持って生まれてくる人間がいるようなんだ。みんな、表向きは隠しながら必死に生きているみたいだけどね」


「そうなんですね……」


「もっとも、和ノ國には能力を国へ申告する制度もあるんだけど」


「えっ!?」


燈子が目を丸くする。


「一応、報奨金みたいなものも出るらしいよ」

「ほんとですか!? じゃあ私も――」


思わず身を乗り出した燈子を、理人は苦笑しながら美しい手で制した。


「いや、君はやめておいた方がいい」


「どうしてですか?」


理人は少しだけ声を潜めた。


「燈子ちゃんの力は、あまりにも特別だからね。知られない方が幸せなこともある。……あの制度は、はぐれ者をあぶり出し、泳がせるための罠のようなものさ」


「僕の場合はね、子供の頃に能力が見つかってしまって、病院経由で国に把握されたんだ。だからもう、半分開き直っているだけさ」


「そうだったんですね……」


「でもね」


理人は穏やかに微笑んだ。


「僕たちみたいな異能持ちは、案外身近なところにもいるんだよ」


「えっ?」


「この店にだって、ね」


「誰ですか!?」


燈子が身を乗り出す。


理人は人差し指を口元に当てた。


「さあ、誰だろうね」


理人は、かつて自分が歩んできた孤独な道のりを思い出すように、しかし目の前の少女の未来を優しく庇うように、静かに言葉を続けた。



「ちなみに、君は具体的にどんな魔法が使えるんだい? 僕はさっき見せた通り、人の気持ちがなんとなく解ることと、物を動かしたり固定する力、それから非接触での加熱や電子機器の掌握もできる。他にもいろいろできそうだけど、まだ試していないんだ」


「わたしは、強く念じれば、基本的にはなんでもできます。でも……一番得意なのは、浄化魔法や、風を操る魔法。それから……物の時間を戻したり、止めたりする魔法です」


「なんでも出来るなんて、やっぱり凄いな。ますます他人には言わないほうがいいね。物の時間を止めるとは、例えばどんなことに使うんだい?」


「押し花をきれいに作ったり…あとは、食べ物の腐敗を止めたり……わたし、一人暮らしを始めてから、食べ物を放置して賞味期限を切らしちゃうことがすごく多くて……」


「あっははは!」


理人は今日一番の大きな声をあげて、お腹を抱えた。


「そんな世界の法則をねじ曲げるような偉大な魔法を、賞味期限対策に使ってるなんて。ははは、燈子ちゃんらしくて、本当にほっこりするね」


「えへへへぇ……」


燈子は照れくさそうに顔を赤くしながら、温かいハーブティーを啜った。


地下ホールに響く二人の笑い声は、不思議なほど温かかった。


つい先ほどまで、自分の秘密が知られてしまったことに怯えていたはずなのに。


今はもう、その恐怖が嘘のようだった。


少し空気が落ち着いたところで、理人は人差し指をもう一度口元に当て、少しだけ悪戯っぽく笑った。


「燈子ちゃん。これは僕たちだけの秘密にしよう。この地下室の、大切な秘密だ」


その笑顔を見た瞬間、燈子の視界がじんわりと温かいもので滲む。


「はい……!」


「ありがとうございます……。私、店長が店長で、本当に良かったです」


深い感情の満ち引きのなかで、少しだけ落ち着きを取り戻した燈子は、ふと、この頑強な地下ホールの奥深くでどっしりと佇む、揺るぎない理人の姿を見つめ、ぽつりと呟いた。


「理人さんは、ポラリスみたいな人ですね」


「ん? ポラリス?」


「はい。北極星。どんなに周りの世界がぐるぐる回っても、そこだけは絶対に動かないで、暗闇のなかでみんなを安心させてくれる、静かで優しい道標です」


理人は一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それから本当に嬉しそうに微笑みながら、琥珀色の瞳を細めた。


「じゃあ、燈子ちゃんはシリウスだね」


「え、シリウスですか?」


「そう。全天で最も眩しく、圧倒的な光を放って夜空をきらめかせる、青白き一等星。まだ成長過程のストローの先に、そんな無限の輝きを秘めている君にぴったりだ」


燈子は胸の奥がトクン、と熱くなるのを感じながら、小さく微笑んだ。


「……ふふ。わたしたちって、双星そうせいなんですね」


「そうだね」


理人は静かに、しかし深く頷いた。


「異なる根源を持ちながら、この翠松町の地下で巡り合い、ひとつの軌道を描き始めた――僕たちだけの秘密の双星だ」


二人の魂の波長が完璧に重なり合い、ホールの空気に確かな誓いが満ちていく。理人はその心地よい余韻を慈しむように、穏やかなトーンで言葉を添えた。


「とにかく、君の魔法のことは僕が絶対に誰にも言わない。……いや、彩代にだけは、話してもいいかい? 彼女にだけは隠し事をしたくないんだ。彼女は僕の超能力のこともすべて知っているし、口が硬いのは僕が100%保証するよ」


「はい!」


燈子は迷わず、満面の笑みで頷いた。


「彩代さんになら、ぜひ話してください! わたし、お二人を心から信用してますから!」







3. 深淵への漕ぎ出し


「燈子ちゃん、ちょっと喉が渇いたな。ジンジャーエールを一杯、貰えるかい?」


カウンターの向こうから、いつもの穏やかな琥珀色の瞳をした理人が、優しく声をかけてくる。


燈子はハッと我に返り、「はいっ!すぐ淹れます!」と元気よく声をあげた。


あの夜、二人の秘密が重なり合ったこの場所で、翠松町の夜は、もう誰にも止められない深みへと確かに漕ぎ出していた。


正式なイベントが幕を開けた今、この本格的なホールを舞台に、まだ誰も知らない新たな運命の交差クロスオーバーが、静かにその幕を開けようとしている。





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