プロローグ:囁く風の声
―私はまだ、自分の居場所を知らなかった。
うず高く積み上げられた段ボールの隙間で、母は黙々と食器を緩衝材に包んでいた。
最近では、服の上からでもわかるほど、肩の骨が浮き出ている。
高級住宅街の中ではこぢんまりとした
──けれど十分に広かったこの家を、来月末で引き払うことになっていた。
私は、無事に転入試験を終え、母の地元にある公立高校への転校が決まっている。
「結風、ごめんね……」
「なにが? 転校のこと? それなら、クラスメイトとうまくいってなかったから、逆に助かったよ」
言いながら、自分の声がどこか遠くで響いているような気がした。
母はそれ以上なにも言わず、再び段ボールの中に食器を詰める作業に戻った。
父の会社が倒産し、ほどなくして母方の祖母が倒れた。
その知らせを聞いてから、家族で母の地元へ戻る話が進んでいった。
家族でと言いながら、私はもう何か月も、父の顔を見ていない。
「いってきます」
私は段ボールの迷路を抜けて、靴を履き、玄関を出た。
外は薄曇りで、春の風が四方から吹き荒れて、散り始めていた桜の花びらを容赦なく吹き飛ばしていた。
──あー、髪、ぐちゃぐちゃになる。結んでくればよかったな。
私は風に髪を押さえながら、いつものように学校へ向かった。
登校するのも、あと数日の辛抱だ。
教室に入っても、誰とも目を合わせず、黙って席に座る。
授業のあいだも、私は存在を消すように、ひっそりとその場にいた。
高校1年の3学期、友人の恋愛事情に巻き込まれ、私はあることないことを噂として流された。
まるで自分が人の恋路を邪魔したような内容だった。
でも、実際には私は何もしていない。
ただ、巻き込まれただけ。
それをきちんと説明できるほど、私は口が達者ではなかった。
何かを言おうとすればするほど、喉の奥に言葉が引っかかって、何も言えなくなってしまう。
だから私は、ただ黙って、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
そのまま2年生に上がり、新しいクラスの誰も私に話しかけなくなっていた。
昼休み。
購買で買ったパンと紙パックのジュースを、校舎裏の階段でそっと口に運ぶ。
食べ終えたあとは、誰にも会いたくなくて、静かな場所を求めて図書室へ向かう。
本を読んでいるときだけが、現実から逃げ出せる時間だった。
文字の世界に没頭しているあいだだけは、何も考えなくていい。
誰の視線も届かず、誰の声も届かない。
ページをめくる音と、自分の呼吸だけがそこにあった。
それは、まるで自分の存在が、すこしずつ透明になっていくような心地よさだった。




