エピローグ 真の怨念
八月一日金曜日、東京都品川区。品川駅西口から少し歩いた場所にある裏町の一角に年季の入った三階建ての雑居ビルがある。その雑居ビルの二階に、私立探偵・榊原恵一が所長を務める『榊原探偵事務所』は入っていた。
事務所とは言っても、正式な所員は榊原ただ一人であり、あとは自称助手として勝手に事務所に出入りをしている瑞穂と、アルバイト秘書として時々事務所に顔を出す亜由美という名前の女子大生がいるくらいだった。
さて、事件が終わってから三日が経過したこの日、この事務所の来客用ソファに、英美里、赤橋、迫水の三人が座っていた。本当は全員で来るべきだったのだが、武美はこれ以上部隊から離れる事が許されなかったため無念ながらも自身が所属する奈良の駐屯地に戻っており、美柑や稲城も仕事の都合で来る事ができないという事だった。そのためこの三人が代表して事務所を訪れる事となり、あの廃墟水族館で起こった事件を解決に導いた男……榊原恵一と相対する事になったのであった。事務所内には彼以外に姿は見えず、聞けばあの瑞穂という自称助手の少女も、今日は用事で学校に行っているとの事らしい。
「どうも皆さん、今日はご足労頂き、ありがとうございます。先日は大変でしたね」
「いえ、榊原さんほどではありませんよ。まさかあれだけの事件を全て解決に導いてしまうとは……」
……あの後、赤橋たちは、何人もの刑事に囲まれて三重県警水上警察隊の警邏船に乗せられて本土へ向かって連行されていく花園真凛を見送る事となった。この時点ですでに本土の方では定野の連絡で花園真凛に対する逮捕状の請求がなされおり、船が目的地の尾鷲港に着いた時点で逮捕状が執行され、その時点で花園真凛は正式に三重県警によって逮捕される事となった。身柄はいったん尾鷲署に入った後、最初の捜査本部が置かれていた志摩署へ移され、間もなく本格的な取り調べが始まる事になっているという。
状況が明らかになっていくにつれ、話題のアイドル歌手が逮捕されたという事もあってマスコミの報道も過熱しつつあったが、事件を解決したのはあくまでも警察によるものとなっており、榊原という探偵が事件を解決したという話は表沙汰になっていないようである。もっとも、榊原に聞くとこれはいつもの話らしく、これだけの実力を持ちながら榊原恵一という名探偵の名が一般にはそこまで知られていないのもそれが理由らしい。榊原曰く「目立つのは性に合わない」との事だが、民間の探偵が警察に協力していたという事がわかると色々と問題になるという事情もあるようだった。
それはともかく、真凛が連行された後、赤橋たちも船に乗って久方ぶりに本土に戻る事となったが、英美里以外はいったん検査のために病院に入院する事となり、結局退院できたのは昨日の事。その後、簡単な聴取を経てやっと警察から解放される事となり、何とか東京まで帰って来たのが昨日の夜の話であったが、今日になると先に帰京していた榊原から連絡があり、こうして彼の事務所に足を運ぶ事になったという次第である。
「さて、お疲れのところ申し訳ありませんが、今日わざわざあなた方にご足労頂いたのは他でもありません。今回の事件に関連して、あなた方に一つ話しておかなければならない事があるのです」
「話、ですか?」
「えぇ。他でもない、花園真凛の動機となった、十五年前の黒江香保子の死についての話です」
その言葉に、三人はそれぞれ緊張したような顔をする。一方、榊原はそれに気づかぬ風に、話を先に進めていった。
「実は、彼女の話を聞いて、念のためにこの件についてちょっと突っ込んで調べてみたんです。その結果について、知らせておいた方がいいと思いまして」
「確か、津波から宮森海次郎が逃げる時に、助けを求めた黒江香保子を石で殴りつけたという話でしたね」
赤橋が確認の意味を込めて尋ね、榊原もその言葉に頷く。
「えぇ。確かに道警からの情報では、黒江香保子の死因は頭部挫傷による脳出血となっていました。ただ、実際の所はどうだったのかと思いましてね。道警の知り合いに頼んで、実際に道警内に保管されていた彼女の解剖記録の写しを改めて確認させてもらったんです」
と、そこで榊原はその視線を急に鋭いものにして、思いもよらない事実を告げた。
「結論から言いましょう。件の解剖記録を確認した所、彼女の直接的な死因は確かに頭部挫傷による脳出血でした。それに間違いはありません。ただし、解剖担当医の補足意見として、『頭部挫傷の形状から、旅館崩壊時に梁のような重量物の下敷きになった事によって死亡した可能性が極めて高い』と書かれていたんです」
「……え?」
英美里は思わずそんな声を上げていた。すかさず隣の迫水が乗り出すように尋ねる。
「待ってくれ。彼女は石で殴りつけられたんじゃないのか?」
「えぇ、私もおかしいと思いましてね。ですので、この解剖記録を書いた担当医師に直接連絡を取ったんです。もう医師を引退されていましたが、石狩の方で元気に農業をされていましてね。話を聞いたところ、この記録についてもしっかり覚えておられました」
榊原はすました表情でそう言った。
「で、改めて黒江香保子が石で殴られた事による可能性はないのかについて聞いたわけなのですが……彼ははっきりと『石の形状にもよるが、その可能性はまずないだろう』と改めて断言しました。詳しく聞くと傷口の形状や損傷具合から相当な重量物が頭部にぶつかった事は間違いなく、花園真凛が言ったようにその辺のこぶし大の石をぶつけた程度の損傷とは思えないという事らしいです」
そう言ってから、
「これは恐らくですが、当時十四歳で黒江香保子の従妹に過ぎない花園真凛には『黒江香保子が頭部への損傷が原因で死亡した』という事しか伝わっておらず、この辺の詳しい事情がわかっていなかったのだと思います。災害で誰かが亡くなった際に遺族が親戚の子どもに詳しい死因が書かれた死亡診断書をわざわざ見せる事はまずありませんし、見せた所でその子供は診断書の内容をまず理解できないはずです。なので、現実的に考えて黒江香保子の遺族は彼女に『災害時に頭部への損傷で死亡した』という最低限の情報だけしか伝えていなかったのでしょう」
「まぁ……言われてみれば、普通はそれで充分だからな」
迫水が渋々頷く。が、話はそれで終わりではなかった。
「で、でも……高本さんの証言だと……」
英美里が声を震わせながら何か言いかけるが言葉が続かない。榊原はその言葉の先を引き取る形で推理を進めた。
「そう。もし、黒江香保子が石で殴りつけられていないとすれば、大元の高本順治の証言の方が怪しくなってくるのです。考えてみれば、高本順治の証言を裏付ける具体的な証拠はどこにも存在しません。何しろ、その光景を目撃したと言い張っているのはあくまで彼一人だけで、それを証明する写真一枚存在しないんですからね」
「それはつまり……死に際の高本順治が、十四歳の花園さんに悪意がある嘘の情報を吹き込んだという事ですか?」
赤橋の出した結論に、榊原は深く頷いた。
「解剖記録を見る限り、黒江香保子の死因はあくまで地震で崩壊した旅館の瓦礫の下敷きになって頭部を損傷した事による災害死だったのでしょう。だからこそ警察や解剖医も彼女の死因に何ら不自然さを覚える事もなく、死後処理はスムーズに行われる事になった。しかし、当時十四歳だった彼女にそんな事情がわかるはずもなく、『黒江香保子は頭部の損傷で死亡した』という事だけしか伝えられなかった。そして、それを利用して彼女に悪意を吹き込んだのが……彼女が面会したという高本順治だったとすれば、全てに説明がつきます」
衝撃の事実に、誰もが押し黙ってしまう。
「彼女は病院に入院していた高本順治に面会し、仲が良かった黒江香保子の最後の状況を知ろうとした。そして話している中で、高本は彼女が黒江香保子の死因について『頭部が損傷して死亡した』事しか知らない事に気付いた。そして高本はそれを利用して架空の黒江香保子の死に様を話し、花園真凛に『黒江香保子は宮森海次郎に殺された』という嘘を信じ込ませたのです」
「で、でも、高本順治はどうしてそんな嘘を?」
「簡単な事です」
そう言って、榊原はこの事件最大の衝撃的な事実を告げる。
「花園真凛に宮森海次郎に対する架空の悪意を抱かせ、将来的に何の関係もない彼女の手で、宮森海次郎に対し何らかの危害を加えようとするためです」
「なっ!」
その場の全員が絶句した。それは、今回の事件に登場したあらゆる人物の中で、最も強い『悪意』を持った所業だった。
「今回の事件を調べた所、高本順治は宮森海次郎に対してかなり強い悪意を持っていた事がわかりました。高本は元々宮森と同じく海洋学者で、二人は学会におけるライバル関係だったそうですが、宮森に勝とうと功を焦った高本は不正な論文を発表してしまい、それが原因で学会を追放。自業自得ではありますが、彼はその事について『すべて宮森海次郎のせいだ!』と見当違いの恨みを抱いていたようです。そして、その状況で二人はあの運命の震災当日を迎えた」
榊原の言葉に誰もが息を飲む。
「震災時に二人が同じ旅館に宿泊した事については、色々考えてみましたが恐らく本当に偶然だったのだと思います。ですが、その後起こった震災により、宮森海次郎は生き延びる事に成功したにもかかわらず、高本順治は恋人を失った上に、自身の命も残りわずかとなってしまった。彼は死にゆく身で宮森海次郎を恨んだでしょう。なぜおまえだけ生き残って自分は死ななければならないのだ。なぜ自分だけこんなひどい目に遭わなければならないのだ、と。実際は宮森も自身の妻子を失っているのでその恨み自体的外れなのですが、もはや彼にそんな事を考える余裕はなかった。自分だけではなく宮森にも同じ不幸を味わせてやりたい。しかし、自分の体がもう持たない事は自分自身がよくわかっている。悔しい、妬ましい……そんな事を考え続けていた高本の元に現れたのが、黒江香保子の従妹である花園真凛だったのです。そしてその瞬間、高本順治は自身の持つ宮森海次郎に対する恨みと怨念を彼女に引き継がせ、自らの死後も宮森を苦しめる策を弄したのです。途中で気付かれてしまっても失敗して元々。しかし、成功すればこれ以上痛快な事はない。高本は花園真凛に『悪意』という文字通りの呪いをかけ、そして満足しながら死んでいったのでしょう。一方花園真凛はこれ以降、高本順治が残した目に見えない『怨念』に全てを支配され、その後の人生を大きく歪ませる事になってしまったのです」
「……そして、その高本順治の『怨念』によりキロネックス事件が引き起こされ、さらにそのキロネックス事件をきっかけに、今回の事件が連鎖する事になってしまった……」
迫水が呻くように呟く。続けて、赤橋がこんな事を言った。
「結果的に、高本順治の『怨念』のせいで七人もの人間が命を落とす事になってしまった。いや……恐らく死刑になる花園を含めたら八人ですか」
どんな事情があれ、七人もの人間を死に至らしめている以上、彼女にはほぼ確実に死刑判決が言い渡されるだろう。恐らく裁判が終われば、もう二度と死ぬまで会う事はできないと思われた。
「まさに、正真正銘の『悪霊』です。本人が死亡し、肉体が亡くなってなお怨念だけは地上に残す。私はこの高本という男に一度も会った事もありませんが、その『悪意』の強さは今まで相対して来た犯罪者たちよりも明らかに上です。しかも、これでいて彼自身は何一つ犯罪をしていないという。この『怨念』……それこそまるで萩原朔太郎の『死なない蛸』みたいじゃありませんか?」
榊原にそう言われて、不意に赤橋の頭の中にあの詩の結びの部分が浮かび上がって来た。
『けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの忘れられた水族館の槽の中で。永遠に―――恐らくは幾世紀の間を通じて―――ある物凄い缺乏と不満を持った、人の目に見えない動物が生きていた』
「……参りましたね。本当に」
赤橋は、もうそうコメントするしかなかった。ある意味今回の事件は、最初から最後までこの詩に振り回されたようにも思えた。
「……それで、この話を俺たちに聞かせて、どうしろと?」
迫水の問いかけに、榊原は静かな視線を向ける。
「さぁ、どうしたものでしょうかね。一応この件はすでに警察にも伝えてありますが、向こうも扱いには困っているようで、現状では保留という形になっているそうです。これを仕込んだ高本順治はもう死亡してしまっていますからどうしようもありませんし、何より……」
「……この事実を伝えた時、花園の精神が持つかどうか、ですね」
赤橋の言葉に、他の二人も思い頷きを返す。あれだけの恨みが実は高本順治による虚構だったと知らされた時、真凛の精神が取り返しがつかなくなりかねない事は充分に予想ができる話だった。
「真実というものは、いつもハッピーエンドになるとは限らない。時に残酷な形でこうして牙をむく事もある。まぁ、それを背負う覚悟を持って私は探偵をしているわけですがね……それでも、時々きついと思う事はありますよ」
「……」
「何にせよ、この真実を知る権利はあなた方にあると判断しました。今は保留という形にはなっていますが、この話が今後、花園真凛の耳に絶対に入らないという保証はありません。その時どうするかは、あなた方にお任せしたいと思います。探偵である私は、真実を突き止める事までが仕事ですので」
もっとも、と榊原は言い添える。
「逆に言えば、真実を突き止めるまで、私は絶対に止まる事はないわけですがね」
「……恐れ入りましたよ、探偵さん」
赤橋は畏怖を込めた声色でそう言うと、改めて榊原に頭を下げる。
「話して頂いてありがとうございました。どんな内容であれ、これで少しは花園の事について理解できたような気がします。これからの裁判で、被害者として、あるいは友人としてあいつとどう向き合っていくのか……色々考えなければならないようですね」
赤橋は重い口調で言う。見ると他の二人も同じ考えのようだった。
「お役に立てたのなら何よりです。また何かありましたら、遠慮なく相談してください」
「できればそうならない事を祈りますよ。あなたが出てくるという事は、碌な事になっていないという事でもありますから」
赤橋のそんな言葉に榊原は軽く一礼し、今度こそ、この事件についての全ての推理を終えたのだった……。
……それから一時間後、客が去った事務所のデスクで、榊原が今回の事件の記録を作成していると、事務所のドアが急にノックされた。が、榊原は慌てる様子もなく、パソコンをタイピングしながら声をかける。
「どうぞ」
するとドアが開き、セーラー服姿の女子高生……深町瑞穂がひょっこりと顔を出した。
「先生、元気ですかぁ?」
「あぁ、問題はない。そう言う君こそ、用事とやらは終わったのかね?」
「もちろんです。でも、こんな夏休みの真っただ中に部長会議なんてしないでほしいんですけどねぇ」
そう言いながら瑞穂は部屋の中に入ってくると、先程まで榊原たちが深刻な話し合いをしていた来客用のソファに鞄を放り出し、自らもそこに座って大きく伸びをした。
「そう言えば、さっきまでエミリー先生、ここに来てたんですよね? どうでした?」
「あぁ。伝えるべきことは伝えたよ。ひとまず、今回の件について私の仕事は終わった」
「そう、ですか……最後、ちょっと後味が悪かったですけど……」
瑞穂も事前に榊原から高本順治についての恐ろしい真実の話は聞いている。そのコメントに対し、榊原は少し真面目な声で言った。
「後味のいい事件なんてそうそうあるものじゃない。例え真実が明らかになったとしても、一度起こった『事件』はどこまでも尾を引き、多くの人間の人生を狂わせる。もちろん、私も一介の人間として少しでもいい結末になればいいとは思うが……現実にはそう上手くいかないものでね」
「経験者は語る、ですね」
「できれば、経験なんかしない方がいいんだが、この仕事ではそうも言っていられない。それがハッピーエンドになろうが逆に悲劇になろうが、探偵はその責任を全て負う覚悟を持って事件の捜査に挑み、己の全てを賭けて真相を明らかにすべきだ。私にはそれしかできないし、するつもりもない。厳しい話だが……それが私の考える探偵というものだ」
「……ですね」
瑞穂も女子高生でありながら、長い間榊原と一緒に様々な事件に関わってきた身である。以前、少し英美里にも話した事だが、彼女がこうして半ば強引に榊原に弟子入りしているのも、彼女が榊原と出会った一年前の事件で人の強烈な悪意に触れた際に、表も裏も含めた世の中や人の様々な側面を知り、正しい判断ができるようになりたいと考えたが故である。榊原ならそれを正しい形で教えてくれると瑞穂は考えており、その判断は正しかったとも思っていた。
と、そこで榊原は少し表情を緩め、一度キーボードを打つ手を止めた。
「とはいえ、こうも立て続けに事件が起こるとさすがに私も休む暇がない。できればこの辺りで一呼吸置きたいものだが……」
榊原がそんな事を言った、その時だった。不意に再び事務所のドアがノックされ、榊原の返事を待たずに誰かが中に入って来るのが見えた。それを見て、榊原は眉をひそめる。
「誰かと思ったら、新庄か」
「先日は、ご苦労様でした」
そう言って頭を下げたのは、警視庁刑事部捜査一課第三係の新庄勉警部補だった。
「成海洋子の事件の捜査に駆り出されていたんじゃなかったのか?」
「そっちは犯人が逮捕されたので、別の班に引き継ぎました。捜査の主体も三重県警ですし、現場の大半が三重県内ですから、第一審も恐らく津地裁で行われる事になるはずです。こちらの捜査報告をまとめて三重県警側に送ったら、とりあえず警視庁ができる事は終わりです」
「なら、一体今日は何の用だね?」
そう言われて、新庄は顔を引き締める。
「実は、今担当している事件について、榊原さんにご相談したい事がありまして。我々としても、少し困った事になっているのですが……お願いできませんか?」
その言葉に、榊原と瑞穂は一瞬顔を見合わせる。そして、榊原は渋い表情で呟くのであった。
「どうやら、私はまだ休むわけにはいかないようだ。残念ながら、だがね」
……真の探偵、榊原恵一の物語は、まだ終わらない。
この世に、事件が続く限り……