26. 失敗
セイラは両手で包丁を握りしめていた。震える指先が向けられているのは、自らの細い喉元だ。
涙に濡れた顔で一同を見つめる彼女の瞳은, 今にも壊れてしまいそうなほど危うい。
わずかに顎を引くだけで刃が食い込むほど、その距離は紙一重だった。緊張と恐怖から生じた脂汗が、首筋をゆっくりと伝い落ちる。
息の詰まるような対峙。ドランも、マリエンも、そしてアンジェロでさえ、指一本動かすことができなかった。
セイラの震える手、そして切望と絶望が入り混じった眼差しが、その場の空気さえも凍りつかせる。ただ、彼女の荒い呼吸の音だけが、重苦しい沈黙を切り裂いていた。
「やめるんだ!」
その張り詰めた静寂を破ったのは、他ならぬイヒョンの声だった。
「セイラ」
イヒョンは手の甲で口元の血を乱暴に拭い、ふらつく体を引き起こした。片方の頬は赤く腫れ上がり、切れた唇からは一筋の血が流れ落ちている。
だが、彼が見つめる瞳は驚くほど澄んでおり、そして冷静だった。まるで嵐の真っ只中にあっても揺らぐことのない、静かな湖のようだった。
「君は……今、何をしようとしているんだ」
イヒョンは一歩、また一歩と、セイラへと歩み寄る。その足取りは慎重であり、瞳に宿る真剣な想いが、凍てついた部屋の空気を少しずつ溶かしていく。
「命は、そんなに軽いものじゃない。自分の命さえ大切にできない人間が、どうして他人の命を救うなんて言えるんだ?」
イヒョンの声は低いが、重く響いた。一言一言が鋭い矢となり、部屋にいる者たちの胸に深く突き刺さる。それは単なる説教ではなく、混乱に陥ったセイラの心を射抜く、医師として、そして師としての切実な訴えだった。
イヒョンはセイラを真っ向から見据えた。揺るぎないその眼差しが、彼女の魂の底まで見透かしているかのようだった。
「その刃を自分に向ける勇気があるのなら……その勇気で他人を救え。死のためではなく、生かすためにその包丁を握るんだ」
セイラの全身が小刻みに震えた。涙は止まることなく頬を伝い、呼吸はますます荒くなる。
包丁を握る白い指先から力が抜け、微かに揺れた。イヒョンがさらに一歩近づき手を差し伸べると、彼女はついに耐えきれず、彼の胸の中へと力なく崩れ落ちた。
イヒョンは慎重に、だが毅然とした態度で彼女の手から包丁を取り上げた。その手つきは優しく、それでいて拒むことのできない力強さが込められていた。
彼は顔を上げ、呆然と立ち尽くすドランに包丁を差し出した。
「これ……片付けていただけますか」
ドランは無言で頷き、包丁を受け取った。その目には安堵と共に、イヒョンに対する新たな敬意が宿っていた。
殺伐とした対峙が収まった直後、アンジェロは深い溜息を吐き出し、一歩後ろに下がった。
額には脂汗が滲み、はち切れんばかりに握りしめていた拳からは、ゆっくりと力が抜けていく。彼の瞳から殺気が消え、代わりに複雑な感情が入り混じる。安堵、当惑、そして自分でも気づかぬうちに得た、ある種の悟りがよぎったようだった。
「……イヒョン」
アンジェロが声を整え, 重く口を開いた。依然として鋭い目つきではあったが, その奥には友을 案ずる深い懸念と, 真実を渇望する切実さが宿っていた。
「一体, カレンはどうしてこんなことになったんだ? 足の骨が折れただけじゃなかったのか? それに……お前の作ったその薬が本当に効くというのなら, あとどれだけ待てばいい?」
イヒョンは足の力が抜けてよろめくセイラをリセラに預けると, ゆっくりとアンジェロの方へ向き直った。
アンジェロの拳で殴られた頬は赤黒く腫れ上がっていたが, イヒョンの顔に怒りや恨みの色はなかった。ただ医者としての冷静な確信と, 責任感だけがそこに漂っている。
「カレンの状態が悪化した原因は, 最初の骨折にあります」
イヒョンは落ち着いたトーンで説明を始めた。
「足の皮膚と筋肉がひどく裂け, 多量出血がありました。私はまず骨を継ぎ, 傷口を縫合して応急処置を済ませました。ですが, 目に見える傷がすべてではなかったのです」
イヒョンの眼差しが深くなる。
「傷口を腐らせ, 膿ませる原因。私たちはそれを『細菌』と呼んでいます。目に見えないほど小さな敵です。その細菌が傷口から体内に侵入し, 血流に乗って全身を巡り, 臓器を攻撃しているのです。その状態を『敗血症』と言います。今, カレンはその敗血症と戦っている最中なのです」
アンジェロは硬い表情でイヒョンの言葉に耳を傾けた。聞き慣れない単語ばかりだったが, 彼は一言も漏らすまいと集中していた。
「私が投与した薬は『ペニシリン』です」
イヒョンがチューブを流れる薬液を視線で指し示した。
「青カビから抽出した成分で作りました。この薬は血管を通って体内に入り, 細菌を直接叩く役割を果たします。ですが, 魔法や奇跡のように即効性があるわけではありません。薬が全身に行き渡り, 菌を制圧するには, 最低でも一昼夜から二日ほどの時間が必要です」
イヒョンはアンジェロの目を真っ直ぐに見つめ, 言葉を継いだ。
「それまでカレンの体が持ち堪えられるよう, 尽力する。それが今, 私にできる唯一のことです」
確信に満ちていながらも, 温かみのある語り口だった。アンジェロの瞳が揺れる。彼はイヒョンの声と表情から, 生命に対する決然たる意志を読み取ったのだ。
アンジェロはしばらく無言でイヒョンを見つめていたが, やがて唇を強く噛み締め, 視線を落とした。
彼は大きな手で顔を乱暴に拭うと, 低い声で ぽつり と零した。
「……ふん。お前の言うことをすべて理解できたわけじゃないが……カレンを助けたいというお前の本気だけは伝わったよ」
彼の視線が, 力なくベッドに横たわるカレンへと向かう。依然としてぴくりとも動かない友の姿は, アンジェロの胸を抉るようだった。目元が再び赤くなったが, 彼は奥歯を噛み締めて感情を飲み込んだ。
今は誰かを責めたり, 疑ったりしている場合ではない。目の前の異邦人を信じることこそが唯一の希望であることを, 彼は本能的に察していた。
「俺は……夕方にまた来る」
アンジェロが重い足取りで背を向けた。
「店の門も開けなきゃならねえし……少し頭を冷やしてくる」
彼はしわ寄った襟元を大雑把に整え, ドアノブを掴む直前で足を止めた。そして, イヒョンの方へわずかに顔を向ける。依然として不愛想ではあったが, その声は先ほどよりもずっと柔らかい。
「……ちと、やりすぎた。……悪かったな」
アンジェロの謝罪は短く, ぶっきらぼうだった。だがその中には, 友を想う気持ちと, 己の過ちを認める深い誠実さが込められていた。
「分かっています」
イヒョンは淡々と, だが丁寧に答えた。その眼差しには, アンジェロの想いを生のまま受け止める穏やかさが宿っていた。
アンジェロが扉を開けて出ていくと, その広い背中の向こうから朝の光が長い影を落とした。
扉が静かに閉まり, 部屋の中には再び静寂が満ちる。嵐が過ぎ去ったその場所には, 今, 静かな「待ち時間」だけが残されていた。
長い一日이, 重苦しく流れていた。
前夜から一睡もせずに夜を明かしたイヒョンの顔には、濃い疲労の色が滲んでいる。目の下には隈が落ち、肌は青白かったが、その手が止まることは一瞬たりともなかった。
彼はカレンの傍らに詰め切り、容態を随時確認した。腕に繋がれた銀色の針と、チューブを流れる薬液の速度を細心の注意を払って点検する。ペニシリンが希釈された輸液は一定の間隔で交換され、イヒョンの指先は極限の疲労の中でも、狂いなく正確に動いていた。
時間は無情に過ぎ去るが、カレンを必ず救ってみせるというイヒョンの意志が揺らぐことはない。
「セイラ、栄養を補給するための流動食を準備してくれ。鼻注(鼻からのチューブ)を通して、少しずつ入れる必要がある」
イヒョンの指示に、セイラが深く頷いた。朝の騒動を経て覚悟を決めた彼女は、いつものように沈착かつ手際の良い動作で、薬と流動食を用意していく。
カレンのバイタルサインは、まだ予断を許さない段階ではあった。しかし、生死の境を彷徨っていた昨夜の危うい状態に比べれば、目に見えて安定へと向かっていた。
手首から伝わる脈動はより規則正しくなり、力強さが増している。火の塊のようだった高熱は依然として残っているものの、ピークを越えて緩やかに下がる兆しを見せていた。イヒョンはその微かな変化も見逃さず、記録しながら注視し続けた。
家の裏手にある作業場では、ドランが黙々とナイフを研いでいた。彼は猟師たちが運び込んできた獲物を捌き、皮を剥ぎ、肉を整えるという自らの責務を果たしていた。親友が死線を彷徨っている最中であっても、残された者たちの生計のために、日常の歯車を回し続けなければならない。ドランはその重い生の責任を、静かに背負っていた。
家の中にも、再び温もりが戻り始めていた。イヒョンの確信に満ちた行動に希望を見出したマリエンは、リセラと共に台所で食事の支度をし、溜まっていた洗濯物を片付けていく。
ぐつぐつと煮えるシチューの香ばしい匂いと、カレンのために煎じる薬草のほろ苦い香りが混ざり合って漂う。その馴染み深く平凡な「生活の匂い」が家を満たし、不安に震えていた皆の心に、小さな安らぎを与えていた。
その静寂を破ったのは、小さな騎士の足音だった。
「本日のエレン騎士、巡回完了! カレンおじさん、異状なし!」
エレンは鹿の角で作られた剣を手に、部屋と台所を忙しなく走り回っていた。幼い少女は自分だけの騎士ごっこに夢中になり、家の中を縦横無尽に駆け巡っては、澄んだ声でカレンの無事を触れ回る。
その天真爛漫な笑い声は、長い緊張と疲労に疲れ果てた大人たちにとって、妖精の魔法のように一時の安らぎを与える清涼な風のようだった。
いつしか窓の外では陽が傾き、紫がかった夕闇が家を優しく包み込み始めた。
日が完全に沈み、辺りが暗くなった頃。アンジェロが重い足取りでドランの家の庭に入ってきた。徹夜明けでそのまま店を切り盛りしてきた彼の顔には、色濃い疲労が刻まれている。だが、充血したその瞳だけは、親友を案じる想いで鋭く光っていた。
彼は静かに家に入り、カレンのそばへ歩み寄った。友は未だ意識を取り戻さぬまま横たわっていたが、アンジェロの目にも、昨日より呼吸がずっと穏やかで安定しているのが分かった。イヒョンが一瞬も目を離さずチューブを調整し、汗を拭う姿を見て、アンジェロはもう、彼を問い詰めることはしなかった。
この異邦人の献身的な手つきが、彼の心の中にある不安を、少しずつ取り除いていたのだ。
しばらくして、アンジェロはドランと視線を交わした。言葉にせずとも互いの重苦しい胸の内を察した二人は、外へ出ようと合図を送った。
「皆、家の中に詰め切りすぎだ。少し外で風に当たってこようぜ」
アンジェロの提案に、イヒョンは輸液パックをもう一度確認してから頷いた。
「少しの間なら、大丈夫です」
イヒョンはタオルで手を拭い、淡々と応じた。疲労で青白くなった顔だったが、その瞳だけは依然として澄んでいた。
三人は並んで庭へと出た。夜風が涼やかに頬をかすめ、ひととき長い一日の熱気を冷ましてくれる。
空はすでに深い紺色に染まり、狩人たちが焚いた篝火だけが、微かな煙を上げながら消えゆこうとしていた。
アンジェロは懐から古びたパイプを取り出して口に加えた。彼が指を弾くと、コルディウムの気が小さな火花を散らし、パイプに火を灯した。
「ふぅ……」
彼は深く煙を吸い込み、唇の間から長く吐き出した。虚空に散る灰色の煙が、彼の焦燥しきった心中を映し出しているようだった。
「イヒョン、マリエンの前では到底聞けなかったんだが……」
アンジェロがイヒョンを見つめ、低く重い声で問いかけた。
「カレンは……本当に助かるのか?」
イヒョンはアンジェロの目を真っ向から見据えた。その瞳に宿る恐怖と切実さが、イヒョンの胸に響く。
その時、傍らにいたドランが静かに口を開いた。
「俺は、最初にカレンが担ぎ込まれてきた時、もう希望はないと思った」
ドランの声は淡々としていたが、その奥には深い悔恨が込められていた。
「正直、ここまで持ち堪えただけでも奇跡だ。お前が全力を尽くしてくれているのは分かっている、イヒョン。だが……それでも怖いんだ。もし叶わぬ望みなら、マリエンに無駄な希望を持たせたくない。期待が大きければ、その分崩れ落ちるのも早いからな。だから……どうか俺たちには、真実を話してくれ」
イヒョンは静かに息を整えた。かつて地球の病院で幾度となく向き合ってきた保護者たちの顔が脳裏をよぎる。生死の境で医療陣の言葉だけを頼りにしていた、あの切実な眼差し。今のドランとアンジェロの瞳は、あの時と何ら変わりなかった。
イヒョンはしばし夜空を仰いだ。青灰色の空に、一つ、また一つと星が瞬き始めている。その静かな光が、彼に慰めを与えてくれているようだった。
「カレンは今、生死の境界線を歩いています」
イヒョンは落ち着いた、だが断固とした口調で言った。
「敗血症によって臓器が損傷を受けています。ですが……まだ希望はあります。私が学んだ医学、私が信じる知識が間違っていなければ、カレンの体は今も懸命に病原菌と戦っています。そして、私たちにもまだ、彼を助けるための武器が残っています」
二人は黙って彼の言葉に耳を傾けた。アンジェロが少し躊躇った後、ふと思い出したように尋ねた。
「今さら聞くのもおかしな話だが……一体あんたは何者なんだ、イヒョン?」
それは単なる好奇心を超えた、人間的な信頼が滲む問いだった。イヒョンは一瞬目を閉じ、星明かりの下で静かに答えた。
「私は……人を救う仕事をしている者です」
彼の答えは簡潔だったが、深い余韻があった。
「私は地球という場所から来ました。どうしてここに来ることになったのか、私自身にも分かりません。ですが、あちらの世界で私は人を手術し、薬を使って治療する仕事をしていました。神殿ではなく『病院』という場所で。腹を開いて臓器を治し、切れた血管を繋ぎ合わせる……そうして人を救うのが、私の職業でした」
ドランとアンジェロは息を呑んだ。癒しの神官でも、コルディウムの使い手でもない平凡な人間が、ただの技術と知識だけで命を救うなど、彼らの常識では到底理解し難い話だった。
長い沈黙の末、アンジェロがフッと鼻で笑った。
「結局のところ、そこであんたは……神や神官がやるようなことをしてたってわけか」
だが、イヒョンは首を振った。
「神の御業ではありません。教育と訓練、そして絶え間ない努力によって人間が成し遂げる業です。そして今……私はここで、その仕事を再び行っているに過ぎません」
冷ややかな夜風の中、イヒョンの確信に満ちた声は二人の胸に深く染み渡った。たとえ彼の世界を完全に理解することはできずとも、その瞳から溢れる真意に疑いの余地はなかった。
アンジェロはイヒョンを凝視した後、短く頷いた。
「……ああ、分かったよ」
彼はパイプの灰を落としながら、低く呟いた。
「あんたの話は相変わらず頭の中で整理がつかねえが……とにかく、希望はあるんだな? それだけで十分だ。これ以上は聞かねえよ」
アンジェロは照れくさそうに鼻の頭を擦った。
「明日、朝になってもカレンが息をしていやがったら、その時はあんたに最高の一杯を奢らせてくれ」
ドランが隣でクスリと笑い声を上げた。
「なら俺は、最高級のステーキを焼こう。倉庫にとっておきの肉があるんだ」
イヒョンは静かに微笑んだ。疲労に染まった顔ではあったが、その笑みだけは夜空の星のように温かく輝いていた。
篝火の残りの火種がパチリと弾けた。三人の男たちの静かな語らいは、更けゆくコランの夜風の中に、穏やかに溶け込んでいった。
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コランの夜は、昼よりも一層色濃い活気に燃え上がっていた。
広場周辺の商店は競うように灯りを灯して客を呼び寄せ、客引きたちの威勢のいい声が通りに生気を吹き込んでいる。都市の中心部は無数の灯火が放つ穏やかな黄金色に染まり、夜の訪れさえ忘れたかのようだった。
だが、ドランの家がある外郭区画は別世界だった。人影の絶えたそこには重苦しい静寂だけが漂い、光の届かぬ路地には濃密な闇が帳のように下りている。そしてその影の中、一人の人物が息を潜めて蹲っていた。
セルカイン。黒いマントで全身を包んだ彼は、低い塀の向こうの動静を鋭い眼光で観察していた。彼の背には、奇妙な形状のクロスボウが一つ括り付けられている。
ネルヴァ(Nerva)。
それは、ありふれたクロスボウとは次元の異なる気配を放っていた。肘から指先までの長さよりもわずかに長いその本体は、黒鉄と銀が奇怪に混ざり合った合金で造られている。見る角度によって色を変える神秘的な光沢は、これが単なる殺傷兵器ではないことを如実に物語っていた。
ネルヴァはセルカインが分身のように慈しむ武器であり、憎悪、怒り、強欲のコルディウムが宿った『アルマ・コルディア(Arma Cordia)』であった。
強力なコルディウムの使い手は、自らの感情を物に投影して力を付与することができる。このクロスボウはインテルヌムのベル다クがノクトリル騎士団のために特別に製作した傑作だった。弓の流麗な曲線は、まるで獲物を狙う獣のようにしなやかで、その内に秘めた力はいつでも血を啜る準備ができていた。
セルカインは闇と完全に同化し、微動だにしない。彼の視線は、ドランの家の窓から漏れる微かな灯りに固定されていた。
『拉致は不可能だ』
ここ数日間、標的を綿密に観察したセルカインの結論だった。コランは商業で栄えた都市らしく、防衛兵力の水準も侮れない。いくら彼がインテルヌムの精鋭であるノクトリルの騎士だとしても、数十、数百の兵力と正面から渡り合うのは自殺行為だ。彼は不死身ではない。
アズレムの命令は明確だった。
『生け捕りが不可能ならば、密かに排除せよ』
セルカインの手が背後のネルヴァをゆっくりと掴んだ。グリップの冷たい金属の感触が手のひらを通じて伝わり、彼の殺意をより一層硬く凝固させた。
彼の計画は単純だ。たった一度の機会、たった一発の矢ですべてを終わらせること。
彼は闇の中で気配を消し、イヒョンが扉の外へ出てくるのを待ち続けた。影の中に埋もれた彼の瞳が、猛獣のごとく冷たく光った。
イヒョンとアンジェロ、ドランが庭で会話を交わす間に、闇はさらに深く降り積もっていた。
塀の向こうの影から、セルカインの目が冷徹に瞬く。彼は音もなく片膝をつき、背後からネルヴァを取り出した。掌に触れる金属の冷徹な感触が、殺意を鋭く研ぎ澄ます。
セルカインは標的であるイヒョンを照準に捉え、低く陰鬱な声で呪文を紡いだ。
「Fragmentum Negare」
『否定の欠片』
彼の指先から、黒く濁った気が凝縮され始めた。空気が微かに震え、疑念、不信、憎悪が入り混じった黒い瘴気が、鋭い鏃を持つボルトの形へと実体化していく。
それは、うごめく悪意そのものだった。微かな黒光を放つ呪いの矢が、ネルヴァの弦に「チャキッ」と装填される。
その鏃には、怒りと強欲、そして偏見が絡み合った猛毒のような呪いが込められている。かすめるだけでも理性は麻痺し、増幅された負の感情が自らを破滅へと追い込む致命的な一撃。
セルカインの呼吸が止まった。完璧な距離、完璧な角度。
「……これで、終わりだ」
セルカインは冷たく囁き、ネルヴァの引き金を引き絞った。
空気を切り裂く破裂音と共に、黒いボルトが闇を貫いて放たれた。イヒョンの心臓へと伸びるその軌道は、寸分の狂いもない「死」の直線だった。
その瞬間だった。ドランの家の玄関が勢いよく開き、澄んだ歌うような声が庭の静寂を打ち破った。
「おじさん! おじさーん!」
エレンだった。幼い少女は鹿の角の剣を頭の上でぶんぶんと振り回し、天真爛漫な笑みを浮かべてイヒョンへと駆け寄ってきた。
「悪魔が来るかもしれないから、早くお城に入って一緒にご飯食べよう! 今日はエレンが守ってあげるから!」
純粋で清らかな生命力。暗闇の中でも自ら光を放つような温かい気勢が、庭全体を包み込む。
その刹那、イヒョンへと突き進んでいた呪いのボルトが、激しく震えた。
『……なっ、馬鹿な!』
セルカインの瞳孔が、地震にでも遭ったかのように大きく揺れ動いた。純粋なまでの「正」のエネルギーと衝突した悪意の塊が、行き場を失ったのだ。完璧だった死の直線は無残に歪み、ボルトは虚空で奇妙な曲線を描きながら、あらぬ方向へと逸れていった。
ガシャアアンッ!
鋭い衝撃音と共に、ボルトはイヒョンではなく、庭の隅に積まれていた古い板切れの山へと突き刺さった。
朽ちた木材が砕け散り、破片が四方に飛び散る。セルカインのコルディウムで練り上げられた黒いボルトは、まるで最初から存在しなかったかのように黒い煙となって、跡形もなく溶けて消えた。
エレンは目を丸くして、歓声を上げた。
「わあ! 今の、見ました? 何かシュッて飛んでいきました! 鳥さんみたいだったけど……おじさん、見た?」
イヒョンは首を巡らせ、エレンが指差した隅を見やった。木板が崩れ落ちている以外、人の気配は全く感じられない。ドランとアンジェロも破裂音を耳にしたが、古い木材が風に煽られて倒れたのだろうと、大して気に留める様子もなかった。
イヒョンはエレンに向かって、穏やかに微笑んだ。疲労の濃い顔だったが、子供を見つめる瞳だけは春の陽だまりのように優しかった。
「さあね、鳥が通り過ぎたのかもしれないな。さあ、中に入ろう。騎士様の言う通り、お城の中の方がずっと安全で温かいだろうからね」
エレンはぴょんぴょんと跳ねながら、イヒョンの手を握った。
「えへへ~、今日のご飯は何かな? お肉もエレンが守ったんだよ!」
彼女の屈託のない声が庭を軽やかに満たし、イヒョン、ドラン、アンジェロの三人は、その明るい気配に誘われるように家の中へと足を進めた。
闇に潜んでいたセルカインは、ギリッ……と奥歯を噛み締め、影の奥底へとさらに身を隠した。
固く閉ざされた扉の向こうから、エレンの清らかな笑い声が漏れてくる。それは冷え切った夜気さえも溶かすような、温かな余韻だった。
しかし、影に身を潜めたセルカインは、釘付けになったかのようにその場から動けずにいた。色眼鏡の奥にある瞳には、信じられないという驚愕の色が露骨に浮かんでいる。
「あり得ん……」
低く吐き捨てた声には、重苦しい困惑が混じっていた。
「俺の……『否定の欠片』が、軌道を逸脱しただと?」
「否定の欠片」は単なる矢ではない。憎悪、不信、強欲が凝縮されたコルディウムから成る呪いの結晶体だ。その鏃は、標的の内面深くにある負の感情を追跡し、食らいつく性質を持っている。
おまけにセルカインは、インテルヌムでも指折りの名手だ。この距離で、それも無防備な標的を仕損じるなど、彼の経歴において断じてあってはならないことだった。
だというのに先ほど、ボルトがイヒョンの心臓に届く直前、まるで目に見えない巨大な力に押し出されたかのように、軌道が強制的に捻じ曲げられたのだ。物理的な風などではない。それは明白な「拒絶」反応だった。
セルカインの脳裏に、先ほどの光景が巻き戻されるように浮かぶ。
鹿の角を振り回し、屈託なく笑っていた子供。エレンがイヒョンへと駆け寄ったあの瞬間、ボルトが方向を変えたのは間違いなかった。
「……あの餓鬼が、原因か?」
セルカインの目が、鋭く細められた。
その瞳の奥で混乱と疑問、そして新たな警戒心が混ざり合い、渦を巻く。だが、今はその正体を暴いている時間はない。一撃に失敗した暗殺者に残された選択肢は、隠密のみ。
セルカインは息を殺したまま、さらに深い闇へと後退した。ス……。衣擦れの音一つ立てない。彼の影は、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、夜の帳の中へと跡形もなく溶け込んでいった。
読んでくれてありがとうございます。
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