25. ペニシリン
遠い地平線の境界が茜色に染まり、夜の間に澱んでいた冷たい闇を一枚ずつ剥ぎ取り始めた。 堅く閉ざされていた作業場の窓の隙間から、細い光の筋がこじ開けるように差し込む。それは、埃が遊泳する虚空を横切り、卓上のガラスフラスコへと舞い降りた。
冷たく冷え切っていた透明なガラスの表面が光を孕むと、滑らかな曲線に沿って銀色の破片が四方へと砕け散った。 闇に沈んでいた木製棚の荒い木目が徐々にその姿を現し、冷たい石の床の上には、黄色い陽だまりの温もりがゆっくりと広がっていく。
手の甲に触れる空気の重さが軽くなる頃、作業場の隅々は、手を伸ばせば触れられそうなほど柔らかな金色の粒子で満たされていた。
イヒョンは今、最も重大な局面を迎えていた。
棚から取り出したガラス瓶の中には、昨日メロンの皮で培養し、抽出した濁った灰緑色の液体が満たされていた。 イヒョンは瓶を作業台に置き、底に沈殿した澱をじっと観察した。
「これくらいなら十分だろう」
彼は清潔な濾紙を円錐状に折って数枚重ね、ビーカーの上にセットすると、瓶の中の液体をゆっくりと注ぎ始めた。
フィルターを通過した澄んだ雫が、ポタッ、ポタッと、ビーカーの底へと落ちて溜まり始める。
イヒョンはこの過程を数回繰り返し、微細な不純物まで念入りに濾過した。フィルターを通った液体は、今や淡い黄色を帯びた透明な姿を現していた。
セイラはイヒョンの傍らで、そのすべての過程を息を殺して見守っていた。 徹夜続きで目の下には濃い隈ができていたが、新たな知識への情熱の前では、肉体の疲労など何の障害にもならなかった。
作業場の中は静寂に包まれていた。 澄んだ液体が滴り落ちる規則的な音だけが、空間に微かに響いている。
セイラは息を潜めたまま、イヒョンの指先とビーカーを交互に見つめた。 手には手帳と木炭鉛筆がしっかりと握られていたが、ペンはピクリとも動かない。記録することさえ忘れ、彼女の視線はイヒョンの繊細な手つきを追って、ダンスをするように動いた。
『本当に……すごい』
セイラは心の中で、静かに感嘆を飲み込んだ。
「よし。次の段階だ」
イヒョンは予め用意しておいた酢を数滴、慎重に透明な液体へ垂らした。
「こうすれば、液体の中のタンパク質成分や不純物をもう一度濾過できる」
彼が手を止めると、セイラの呼吸も釣られて止まった。彼が首を少し傾けると、セイラも無意識のうちに同じように首を傾げ、彼の動作を追った。
「酢は酸性だ。特にタンパク質や不要な有機物を沈殿させるのに有効なんだ」
不意に聞こえた彼の説明に、呆っとしていたセイラがびくりとして目を瞬かせた。
「……あ、はい!」
彼女の声は疲労で少し掠れていたが、好奇心で輝く眼差しだけは依然として聡明に光っていた。
セイラは自分が彼の作業に完全に見惚れていたことに気づいた瞬間、顔を少し赤らめた。 だがイヒョンは彼女の火照った頬に気づくことなく、再び作業へと深く没頭した。
イヒョンは間髪入れず、用意しておいたオリーブオイルを透明な液体の上へ慎重に垂らした。 油は水と混ざることなく表面にぷかぷかと浮き上がり、仄かな半透明の膜を形成した。
彼はガラス棒を手に取り、静かに液体をかき混ぜ始めた。 セイラは目を輝かせ、その繊細な手つきを一瞬たりとも見逃すまいと視線で追う。
イヒョンがビーカーの中を混ぜるたび、油の膜が細かく砕けて小さな粒となって散らばり、透明な溶液と一時的に絡み合うかと思えば、すぐに比重の差によって徐々に層を分けて分離していく。
「溶液の中に残っていた脂溶性の不純物が、これでオリーブオイルに溶け込むはずだ。油は水より軽いから上に浮くだろう? 後でこの油の層だけを取り除けば、不純物も一緒に除去できるという原理さ」
セイラは彼の説明を聞きながら、感嘆の息を漏らした。
油と水が混ざらないという単純な性質。日常でありふれた平凡な材料。 その中に、まるで魔法のように精巧な自然の法則が隠されているという事実に、戦慄が走った。
彼女の胸の内で、知識に対する強烈な渇望が燃え上がった。イヒョンの持つその膨大な知識の世界を、一つ残らず学び取りたいという熱望が、彼女を熱く満たした。
しばらくして。 油はペニシリンを除いた不要な脂質成分を含んだまま、上層へと完全に浮き上がった。
「脂質分離完了。タンパク質の沈殿も終わったし、これでペニシリンの精製はほぼ大詰めだ」
イヒョンは層が明確に分かれたのを確認すると、スポイト状のガラス管を使い、慎重に上澄みの油層を取り除いた。 そしてもう一度濾紙を使い、微細に残った不純物まで完璧に濾過した。
彼の所作は、まるで芸術家の筆捌きのように正確で優雅だった。
「次は滅菌と濃縮の段階だ」
イヒョンは精製された澄んだ液体を、丸底フラスコに移し替えた。 彼はフラスコを、熱湯が入った鍋の上に浮かべて湯煎を始めた。直火ではなく、間接的な熱で水分を飛ばしながら殺菌する方式だった。
見守っていたアンジェロが、目を細めた。
「ほう、あの丸い底は……火に直接当てず、熱を均等に行き渡らせるために作ったもんだったか」
アンジェロはイヒョンの指先一つ見逃すまいと食い入るように見つめていたが、やがて驚きと感心が入り混じった表情で低く呟いた。自分が作った道具が完璧に機能を果たしている姿を確認した、職人の誇らしさだった。
フラスコの中の水分が徐々に蒸発し、溶液の濃度が増していく。 淡い黄色を帯びていた液体は、次第に深く奥ゆかしい琥珀色へと変貌していった。ペニシリンの核心成分が高密度に濃縮されている証拠だった。
イヒョンは熱湯で20分間煮沸した小瓶を取り出し、アルコールで内外をもう一度念入りに拭き上げた。 そしてついに、どろりと濃縮された琥珀色のペニシリン溶液を、その小瓶へ一滴残らず移し替えた。
小瓶の栓をしっかりと閉じ、蜜蝋を溶かして口を封印して初めて、イヒョンは一歩下がり、長く息を吐き出した。
彼の顔には、徹夜の疲労と、結果物を生み出したという安堵感が奇妙に入り混じっていた。
卓上に置かれた小さなガラス瓶。 それは単なる薬物ではなかった。
その中にはイヒョンの知識と献身、マリエンとドランの血の滲むような犠牲、セイラの学び、そしてアンジェロの技術がすべて溶け込んだ結晶体だった。
イヒョンは手を拭きながら窓の外を眺めた。 いつの間にか地平線の上に赤い太陽が昇り、長い夜を乗り越えた世界を優しく染め上げていた。
イヒョンが薬の精製を終えた、ちょうどその頃。 マリエンはスカートの裾を握りしめ、明け方の青い空気に包まれた通りを疾走していた。
朝の光がコランの狭い路地裏へ差し込み、道端の草葉に宿った露を宝石のように煌めかせている。 早い時間ゆえに商店は固く閉ざされ、街は深い静寂に沈んでいた。
だが、セベールの工房**『銀の妖精』**の窓の隙間からは、微かな明かりが漏れ出していた。
「はぁ、はぁ……!」
息が顎まで上がったマリエンが、ドアノブを引いた。
カラン――。
澄んだ鐘の音と共に扉が開くと、奥から徹夜明けでやつれ果てたセベールが顔を上げた。
彼は額の拡大鏡を跳ね上げ、飛び込んできたマリエンに向けて、嗄れた声でぶっきらぼうに言い放った。
「ふん、時間ぴったりだな」
セベールは顎で陳列台の上をしゃくった。
「あそこだ。頼まれたブツは」
陳列台の上には、赤い桜の木を削り出した高級な木箱が置かれていた。 マリエンは震える手で、箱を慎重に持ち上げた。掌を通じて伝わるずしりとした重みに、心臓が早鐘を打ち始める。
マリエンはごくりと唾を飲み込み、蓋を開けた。
「あ……!」
箱の中、赤いベルベットの上には、奇跡のような品が鎮座していた。
細く鋭利な、五本の銀の針。 一見すればただの針に見えるが、よく見ればその微細な厚みの中に、肉眼では確認し難いほど精巧な穴が貫通している。 それは朝日を浴びて冷ややかに輝き、まるで彼女の切実な願いを宿しているかのようだった。
セベールは腕を組んだまま、感極まったマリエンをじっと見つめた。
「一体これを何に使うつもりだ? あの奇怪な設計図といい、中空の針といい……わしの長い職人人生でも、こんなモンを作ったのは初めてだ」
マリエンは木箱を胸に大切に抱き、口を開いた。
「夫が……狩りの最中に大怪我をしたんです。足が折れ、肉が裂けて血を流しすぎて……神殿でも治療を待つことができませんでした」
セベールの眉がぴくりと動いた。 治癒の儀式を待ちわびて虚しく命を落とすことは、この都市では珍しくない悲劇だった。彼は黙って彼女の続きを待った。
「ですが、ある異邦人の方が現れて、夫を助けると言ってくれました。薬が必要なんですが……その薬を、夫の血管に直接入れなければならないそうです。だから、この針がどうしても必要だと」
「血管に……薬を入れるだと?」
セベールは呆れたように鼻を鳴らし、首を横に振った。
「はぁ、まったく……近頃の若いもんは妙なことを信じるもんだ。人の体に穴を開けて薬を入れるなんぞ、昔なら異端者として火炙りにされた話だぞ」
彼は非難するように言ったが、マリエンを見る眼差しには、非難よりも哀れみが濃く滲んでいた。
「だがまあ……お前の目が、そいつを鉄の如く信じているようだから、わしがとやかく言うことじゃなかろう」
セベールの声には特有の愛想のなさが漂っていたが、その底にはどこか温かい気が流れていた。
「あの奇怪な図面通りに再現するのは、並大抵の腕じゃ無理だ。老いぼれの寿命を削って、一晩中削り出したんだ。不良品はないから持っていけ」
マリエンは深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。本当に……ありがとうございます、セベール様」
「礼はいい。約束は覚えているな?」
彼は陳列台の引き出しを開け、マリエンが預けた古びた宝石箱を取り出して見せた。その中には、彼女の母の形見であるネックレスが入っていた。
「代金は5デントだ。わしの手間賃に比べれば破格の安さにしてやったんだから、文句は言わせんぞ」
「はい、肝に銘じます」
「冬が来る前に5デントを持ってくれば、このネックレスは返してやる。だが約束を破れば……まあ、その時はわしのモンになるだけだ」
セベールはわざと厳しい顔をして箱を閉じ、再び引き出しの奥へと仕舞い込んだ。 マリエンはもう一度腰を折って深く感謝を示し、後ろも振り返らずに店を出た。
扉が閉まる寸前、セベールが彼女の遠ざかる背中に向かって、ぽつりと一言投げかけた。
「その妙な異邦人の選択が……間違いでないことを祈るよ」
カラン――。
扉が閉まり、マリエンは木箱を胸に抱いたまま、ドランの家に向けて再び走り出した。 その足取りには、来る時とは違う、確信に満ちた希望が乗っていた。
空っぽの店。 セベールは舌打ちをして、埃の積もった作業台を拭き始めた。
「チッ……世も末だな。体の中に薬を入れるとは……」
彼の手は忙しなく動いていたが、脳裏には先ほど見たマリエンの切実な瞳が、焼き付いて離れなかった。
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太陽がコランの高い城壁から完全に顔を出し、朝の訪れを告げる頃。 マリエンは小さな木箱を胸に強く抱きしめ、ドランの家へと飛び込んだ。
家の中は静まり返っていたが、張り詰めた緊張感が空気を重く押し潰していた。 誰もが、イヒョンの薬の完成を焦燥と共に待っていたのだ。セイラは作業場の片隅で、整頓された注射器とフラスコを点検し、ゴクリと喉を鳴らした。
「イヒョンさん」
マリエンが震える手で、木箱をイヒョンに差し出した。
イヒョンは無言で受け取り、蓋を開けた。 中には精巧に研磨された、中空の銀針が五本、整然と並んでいた。
「幸い、時間に間に合いましたね」
彼は淡々と呟き、アルコールで針を念入りに消毒した。続いてランプの火を強め、その炎の上を素早く通過させる。万が一の雑菌を焼き払うためだ。
イヒョンはドランが作った豚の膀胱チューブを手に取った。 チューブの一端にアンジェロ製の微細なガラス管を嵌め込み、その先にセベールの銀針をしっかりと接続して密封する。そして反対側は、昨夜準備しておいた生理食塩水とペニシリン希釈液が入ったガラス瓶に繋いだ。
イヒョンはクランプ(調節器)を開き、薬液を少し流した。チューブ内の気泡が完全に抜けるのを確認して初めて、彼は頷いた。
全員が息を殺して彼の手先を見守る。 作業場は、イヒョンの沈着な所作と、人々の切実な願いが入り混じった沈黙で満たされていた。
セイラは邪魔にならぬよう息さえ潜め、瞬き一つせずイヒョンの手捌きを目で追った。
イヒョンはカレンのそばに静かに座り、彼の腕を優しく広げた。上腕を革紐できつく縛ると、蒼白な皮膚の下に、微かだが青い血管が浮き上がった。
イヒョンは指先で血管を慎重に探り当てた。 迷いはない。彼は銀針をゆっくりと、しかし熟練した角度で血管へと滑り込ませた。
指先に、血管壁を突き抜ける微細な感触が伝わる。チューブの先端に、赤い血が少し逆流して見えた。 成功だ。
イヒョンは消毒された布と紐で針が動かないよう腕に固定した後、薬液の瓶をベッド脇の高い位置に吊るした。
ポタ、ポタ、ポタ。
ガラス瓶の中のペニシリン混合液が一定の速度で滴り落ち、透明なチューブを伝って流れていく。 奇跡の薬が、カレンの血管の中へと染み込み始めたのだ。
イヒョンはカレンの脈拍と呼吸をしばらく綿密に観察して息を整えると、ようやく緊張の解けた顔で額の汗を拭った。
「あとは……待つだけです。私にできる処置はすべて終わりました」
だが彼の安堵した表情とは裏腹に、部屋は依然として重苦しい静寂に包まれていた。誰もが息を詰め、カレンの小さな動き一つも見逃すまいとしていた。
その時、アンジェロの荒々しい声が静寂を切り裂いた。
「カレン! おい、大馬鹿野郎! 俺が来たぞ、アンジェロだ! さっさと目を開けろ!」
アンジェロの声は割れていたが、その中には友への深い愛情と、焦げるような焦燥感が込められていた。部屋の全員が彼の叫びに驚き、カレンの顔を見た。
アンジェロは慌てて枕元に寄り、カレンの肩を揺さぶろうとして、ふと手を止めた。彼は震える手でカレンの頬を包み込み、名を連呼した。
「カレン! おい、しっかりしろ!」
しかしカレンは相変わらず、苦しげにヒューヒューと息をするだけで、ピクリとも動かずに横たわっているだけだった。
アンジェロの瞳が激しく揺れた。 彼はベッド脇に座ってカレンを見つめていたが、突如として跳ね起き、イヒョンを鋭く睨みつけた。
「なぜカレンは起きないんだ? なぜこうも微動だにしない? なぜ何の変化もないんだよ!」
イヒョンが口を開く間もなく、アンジェロが大股で詰め寄り、彼の胸倉を荒々しく掴み上げた。
ガシッ!
「一体何をしやがった、テメェ! あれだけ自信満々にほざいておいて、これは何だ! 薬を入れたんだろうが!」
イヒョンは息が詰まるアンジェロの腕力にも屈せず、彼を真っ直ぐに見上げた。
「落ち着いてください。薬を注射したからといって、すぐに目が覚めるわけではありません。これは治癒の儀式やコルディウムのような、即効性のある奇跡とは違うのです」
イヒョンは苦しげに、しかしはっきりと続けた。
「これは……科学であり、薬です。薬が血管を巡り、体内に広まって病原菌と戦うには、時間が必要です」
「ふざけんな! 寝言は寝て言え!」
アンジェロが歯を食いしばって怒鳴った。
「もっともらしい能書きを垂れて、時間を稼いで逃げる気満々の詐欺師どもを、俺が何度見てきたと思ってる?」
彼は拳を握りしめ、イヒョンを握り潰さんばかりに睨みつけた。
「マリエン! ドラン! よく見ろ。こいつはペテン師だ! 俺は警告したはずだぞ、俺のダチに手を出したらタダじゃおかねえとな!」
部屋の空気は、彼の煮えたぎる怒りで重く沈んだ。
マリエンとドランは狼狽した目で互いを見合わせた。 彼らもまた内心では、イヒョンの薬がカレンの体に入った瞬間、奇跡のように彼が目覚めることを期待していたのだ。だがカレンは依然として死体のように動かず、その冷たい現実は二人に衝撃と混乱をもたらした。 イヒョンの過度に沈着な態度は、むしろ彼らの期待を裏切る厚顔無恥さに思えて、心を一層かき乱した。
「俺が直々に引導を渡してやる!」
その瞬間、アンジェロの拳がイヒョンの顔面を強打した。
ドゴッ!
鈍い打撃音と共にイヒョンがよろめき、床に無様に転がった。口元から赤い血が弾け飛ぶ。
「駄目です! やめてください!」
悲鳴と共にセイラが前へ飛び出した。
「お願い……お願いだから止まって! この方の話を聞いてください!」
だが理性を失ったアンジェロは、セイラの切実な叫びに目もくれない。彼は倒れたイヒョンに向かい、再び大股で迫った。
「タダじゃおかねえと言っただろうが、このクソ野郎!」
「駄目ぇッ!!!」
セイラはアンジェロの前に立ちはだかり、渾身の力で両手を広げた。 巨大な熊のようなアンジェロの前で、彼女の小柄な体は限りなく危うく見えたが、彼女は目に毒気を宿し、歯を食いしばって耐えた。
「どけと言った」
「どきません! この方は……絶対に嘘をつきません! セルノ村でも、死にかけていた人々を救いました! あの時も最初は誰も信じなかったけど……結局、結果がすべてを証明したんです!」
セイラの目から、ついに涙が決壊した。彼女は震える声で、叫ぶように訴えた。
「少しだけ、お願いだからもう少しだけ待ってください! 今この方を傷つけたら……カレン様を救う最後のチャンスさえ消えてしまうんです!」
アンジェロの拳が虚空でわなないた。彼の眼差しは依然として怒りに燃えていたが、セイラの悲痛な叫びに足が止まる。
セイラの全身は、ポプラの葉のようにガタガタと震えていた。アンジェロが彼女を乱暴に押しのけようとした。
「どけ! 今すぐ! お前もグルか!?」
だが、セイラは一歩も引かなかった。 荒い息を吐いていた彼女は唇を噛み締めると、突如身を翻し、台所の方へ疾走した。
「……?」
皆が怪訝な目で彼女の後ろ姿を追う間もなかった。 ガシャーン、という派手な音と共にセイラが再び飛び込んできた。
彼女の手には、抜き身の包丁が握られていた。
「近づかないで!」
彼女の目には涙が溢れていたが、眼光だけはぞっとするほど決然としていた。 セイラは震える手で、刃先を自らの頸動脈にぴたりと当てた。
「……!」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。赤い鮮血が吹き出しそうな危うい光景に、誰もが息を呑む。 セイラの涙声が、静寂を鋭く切り裂いた。
「この方を……信じてください。私の命を懸けて言います」
彼女が包丁を握る手に力を込めると、鋭い刃が白い肌に食い込み、赤い血が滲んだ。
「私の話……聞いてくださらなければ……私、今ここで死んで見せます。本気です!」
アンジェロはその狂気じみた気迫に怯み、後ずさった。ドランとマリエンもまた、魂が抜けたように口を覆い、悲鳴さえ上げられなかった。
その時、エレンを抱きしめて目を塞いでいたリセラが、静かに進み出て沈黙を破った。
「アンジェロさん、おやめなさい」
リセラの声は穏やかだが、断固としていた。
「もしイヒョンさんが嘘をついたり、詐欺師だったりしたなら、私が真っ先に気づいたはずです。私は他人の感情と真心を読み取る『共感のコルディウム』を持っていますから」
彼女はアンジェロを真っ直ぐに見据え、力を込めて言った。
「イヒョンさんからは、ただの一瞬も嘘や悪意を感じませんでした。彼は心から、カレンさんを救おうとしています」
リセラは顔を向け、依然として包丁を首に当てたまま震えているセイラを、痛ましげに見つめた。
「ですから……お願いします。どうか、彼の治療を最後まで見届けてください」
セイラの白く華奢な首元で、包丁の刃が冷たく光った。 その冷徹な輝きは、彼女の決然とした瞳と奇妙に調和し、部屋の中の荒くれ者たちを圧倒していた。
アンジェロは未だに歯ぎしりしていたが、固く握りしめた拳からは、徐々に力が抜けつつあった。 まさか目の前で人を、それも自分を止めようとして命を懸けた女を、死なせるわけにはいかなかったからだ。
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