表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/63

26. 失敗

セイラは両手で包丁を握り、震える指先で自分の首を狙ったまま、涙に濡れた顔で皆を見つめていた。刃は首を少し下げれば触れるほど危険な近さにあり、彼女の首筋には緊張と恐怖で滲んだ汗がゆっくりと流れ落ちていた。


一触即発の瞬間、ドラン、マリエン、アンジェロ、誰もが身動き一つ取れなかった。


セイラの震える手、切実さと絶望が交錯する眼差しは、まるで空気さえも凍りつかせるようだった。彼女の呼吸一つ一つが空間を重く押し潰していた。


「やめなさい!」


その張り詰めた沈黙を破ったのは、他でもないイヒョンの声だった。


「セイラ。」


イヒョンは手の甲で口元に付いた血痕を乱暴に拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。彼の頬は赤く腫れ上がり、裂けた唇からは細い血の筋が流れ落ちていた。だが、彼の眼差しは驚くほど澄んで穏やかだった。まるで嵐の中でも揺らがない静かな湖のようだった。


「君は…今、何をしようとしているんだ。」


イヒョンは一歩、また一歩、セイラに向かってゆっくりと近づいた。彼の足取りは慎重で、その目に宿る真心は凍りついた空気を少しずつ溶かしているようだった。


「命はそんな軽いものじゃない。自分の命さえ大切にしない人間が、どうやって他人の命を尊く思えるんだ?」


イヒョンの声は低く、重く響いた。一言一言が鋭い矢のように空気を切り裂き、部屋にいる全ての者の胸に深く突き刺さった。彼の言葉は単なる音ではなく、セイラの混乱した心を貫く鋭い光のようだった。


イヒョンはセイラをまっすぐに見つめた。彼の眼差しは揺らぐことなく深く、まるで彼女の魂まで見透かすようだった。


「その包丁を自分に突きつける勇気があるなら、その勇気で他人を救いなさい。死のためじゃなく、命のためにその刃を掲げなさい。」


セイラの全身がガタガタと震えた。涙は止まることなく頬を流れ落ち、彼女の呼吸はますます荒々しくなった。包丁を握る手はすでに力を失ったように微かに揺れ、イヒョンがもう一歩近づくと、彼女はもう耐えきれず、彼の胸に力なく倒れ込むように抱きついた。


イヒョンは慎重に、彼女の手から包丁を取り上げた。彼の手つきは優しかったが、決してためらうことはなかった。


彼は顔を上げ、ドランを見つめながら包丁を差し出した。


「これ…」


ドランは無言で頷き、包丁を受け取った。彼の目には安堵とともに、イヒョンへの新たな尊敬の念が宿っていた。固くこわばっていた彼の表情は、ほっと緩んでいた。


一方、その光景を黙って見つめていたアンジェロは、深いため息をつきながら一歩後ろに下がった。彼の額には緊張で滲んだ汗がきらめき、固く握りしめていた拳はゆっくりと開かれた。彼の眼差しには複雑な感情が絡み合っていた。安堵、そしておそらく自分でも気づかない何かの気づきが、刹那、通り過ぎたようだった。


「…イヒョン。」


アンジェロは声を整え、重々しく口を開いた。彼の眼差しは鋭かったが、その奥にはカレンへの深い心配と答えを求める切実な思いが宿っていた。


「一体、カレンはどうしてこんなことになったんだ? そして、君が作ったその薬が本当に効果があるなら、どれくらい待てばいいんだ?」


イヒョンは足に力が入らずよろめくセイラを慎重にリセラに支えを任せ、ゆっくりとアンジェロの方へ体を向けた。彼の頬には赤い痣の痕がくっきりと残っていたが、その顔には怒りも恨みもなかった。ただ静かな確信と責任感だけが彼の目に宿っていた。


「カレンの状態は、最初に足を骨折したことから始まりました。」


イヒョンは落ち着いて言葉を続けた。


「足の皮膚と筋肉がひどく損傷し、過度な出血がありました。だから、まず骨を合わせて傷を縫合し、出血を止めました。でも、それで終わりじゃない。傷が腐り、化膿する原因があります。それは…説明するのは複雑ですが、僕たちはそれを細菌と呼んでいます。その細菌が傷口から体内に侵入し、血に乗って全身を巡ると、その状態を敗血症と呼びます。今、カレンはまさにその敗血症の状態です。」


アンジェロは黙って彼の言葉に耳を傾けた。彼の表情は固まっていたが、イヒョンの説明を一言も聞き逃すまいと集中しているようだった。


「僕が投与した薬はペニシリンです。」イヒョンは話を続けた。「メロンの皮に生える青いカビから抽出した薬です。この薬は体内に入り、細菌を殺す役割を果たします。でも、癒しの儀式のようには即効性はありません。少なくとも一日から二日ほどの時間が必要です。その間、カレンが耐えられるよう、最善を尽くすのが僕の務めです。」


イヒョンの言葉は確信に満ち、温かかった。まるでカレンの命を守るという固い決意が、彼の声と表情に溶け込んでいるようだった。アンジェロの眼差しは依然として複雑だったが、イヒョンの言葉に込められた確信に、わずかに揺らぐ気配が過ぎった。


アンジェロはしばらくの間、黙ってイヒョンを見つめた。彼の目には複雑な感情が絡み合い、何か言おうとして飲み込んだように、唇を固く閉じて首を下げた。


彼は大きな手で顔を乱暴にこすり、低い声で口を開いた。


「…うむ…君の言うことが全部理解できるわけじゃないが…カレンに対する君の真心は分かったよ。」


彼の視線は、力なくベッドに横たわるカレンに向けられた。依然として微動だにしない友の姿は、アンジェロの胸をえぐるようだった。その光景に彼の目元が震えたが、彼は歯を食いしばって感情を飲み込んだ。


だが、今は誰かを責めたり疑ったりする時ではなかった。イヒョンを信じることが唯一の道だと、彼は本能的に感じていた。


「俺は…夕方にまた来るよ。」


アンジェロは重々しく言葉を続けた。


「店も開けなきゃいけないし、心が少し落ち着いたら…」


アンジェロは服の襟を整え、イヒョンに向かって顔を上げた。彼の眼差しにはまだ葛藤の色が残っていたが、ほんのりと和らいだ気配が過ぎった。彼はゆっくりと頭を下げた。


「俺、ちょっとやりすぎた。すまなかった。」


アンジェロの謝罪は短かったが、深い真心が込められていた。彼の肩は重く沈んでいたが、その中にはカレンへの変わらぬ友情と、イヒョンへの新たに芽生えた信頼が息づいていた。


「理解しています。」


イヒョンは淡々と、しかし温かい声で短く答えた。彼の目には、アンジェロの心を受け止めた穏やかな光が一瞬だけ過ぎった。


アンジェロがドアを出ると、彼の広い背中に朝の陽光が長い影を落とした。ドアが静かに閉まり、部屋の中は再び静寂に染まった。


長い一日が流れていた。


前日から徹夜でカレンの側を守り続けたイヒョンは、目に見えて疲れ果てていた。彼の目の下には濃い影が落ち、顔は青白かったが、その手は一瞬たりとも止まることはなかった。彼はカレンの状態を細かく観察し、腕に繋がれた銀色の針とチューブを丁寧に点検した。ペニシリンを混ぜた生理食塩水は一定の間隔で交換され、彼の手つきは疲労の中でも揺らぐことなく正確だった。


時間は無情に流れていった。イヒョンの疲れた体とは裏腹に、彼の意志はカレンを救うというただ一つの目標のために、決して揺らぐことはなかった。


イヒョンはセイラに、革製の胃管を通じてカレンに与える薬を用意するよう指示した。いつの間にか元気を取り戻したセイラは、普段通りの素早い手つきで薬を調合した。


カレンのバイタルサインはまだ安心できる状態ではなかったが、昨夜の危険な状況に比べると、目に見えて安定していた。


彼の血圧はさらに安定し、高熱はまだ残っていたが、徐々に落ち着く兆しを見せていた。イヒョンはその微妙な変化を見逃さず、細やかに観察した。


家の裏手では、ドランが猟師たちが持ち帰った獣を黙々と解体していた。彼は皮を剥ぎ、肉をさばきながら、日常の重みを静かに背負っていた。


誰かの痛みの中でも、人生は止まることなく流れ続けなければならなかった。


早朝の騒動を過ぎ、イヒョンの行動と言葉から希望を得たマリエンは、リセラとともに台所で食事の準備をし、洗濯物を片付けていた。台所からは香ばしい料理の匂いと、カレンのための薬のほのかな香りが混ざり合い、広がっていた。その香りは家の中を温かく満たし、皆の心に小さな慰めを届けていた。


エレンは鹿の角を手に握り、部屋と台所を行き来しながら忙しく駆け回っていた。彼女はカレンを守る騎士ごっこにすっかり夢中だった。


「今日もエレン騎士の巡回完了!カレンおじさん、異常なし!」


エレンは家の中を休むことなく走り回り、澄んだ声でカレンの無事を告げた。彼女の天真爛漫な笑い声は、長い夜の疲れに疲弊した人々に、妖精の魔法のように一瞬でも息をつかせる温かい風のようだった。


陽が傾き、夕暮れの柔らかな光が家の中をそっと包み込んだ。


夕方近く、アンジェロは重い足取りでドランの庭に足を踏み入れた。一晩中起き続け、終日店の仕事に追われた彼の顔には、濃い疲労の影が落ちていた。それでも、彼の眼差しにはカレンへの心配と希望が依然として絡み合っていた。


彼は静かに家の中に入り、カレンのそばに近づいた。カレンはまだ意識を取り戻せずに横たわっていたが、アンジェロの目にも、彼の呼吸は一層穏やかで安定しているように見えた。イヒョンが一瞬も目を離さずカレンを看病する姿を見て、アンジェロはそれ以上口を開かなかった。彼の心の不安はまだ消えていなかったが、イヒョンの献身的な手つきがその不安を少しずつ和らげていた。


しばらくして、アンジェロはドランと低い声で話を交わした。二人の会話は短かったが、互いの重い心を分かち合うようだった。すると、アンジェロがふと思いついたように口を開いた。


「みんな、家の中に閉じこもりすぎだ。少しでも外で風に当たろうぜ。」


彼はイヒョンを見つけ、ちょうどイヒョンはカレンの点滴を新しく取り付け、滴下量を細かく調整しているところだった。手を洗おうとしたその時、アンジェロの提案を耳にした彼は頷いた。


「少しなら大丈夫です。」


イヒョンはタオルで手を拭きながら、淡々と答えた。彼の顔は疲労で青白かったが、目だけは依然として彼の意志を示すように輝いていた。彼はドランとアンジェロに続き、庭に出た。夕方の涼しい風が彼らの頬をかすめ、長い一日の重みを一瞬でも軽くしてくれるようだった。


庭はすでに闇に沈み、空は薄い紫色にゆっくりと染まりつつあった。猟師たちのために焚かれた焚き火は、かすかな煙を吐きながら徐々に冷めていった。その火の光は庭に長い影を落とし、静かな夕暮れに重厚な雰囲気を添えていた。


アンジェロは腰に下げた小さな革袋からタバコのパイプを取り出した。彼はコルディウムを使って手に小さな炎を起こし、パイプに火をつけると、イヒョンを見つめながら低く重い声で口を開いた。


「イヒョン、マリエンがいる前ではとても聞けなかったんだ。」


彼はパイプを深く吸い込み、唇の間から濃い煙をゆっくりと吐き出した。煙は空中に柔らかく広がり、彼の焦る心を代わりに表しているようだった。アンジェロの広い背中は重く沈み、その背後には彼の不安が影のように漂っていた。


「カレン…本当に助かるのか?」


イヒョンはアンジェロの目をまっすぐに見つめた。彼の瞳には焦りと恐怖が絡み合っていた。その深い不安は、言葉よりも強くイヒョンの胸を響かせた。


その時、ドランが静かに口を開いた。


「俺は最初、カレンがイノシシにやられてここに運ばれてきた時、もう希望はないと思ったんだ。」


彼の声は淡々としていたが、その中には深い悩みが込められていた。


「正直、ここまで持ちこたえただけでも奇跡みたいだ。イヒョン、お前が全力を尽くしているのはよく分かってる。でも…やっぱり怖いんだ。もし希望がないなら、マリエンに無駄な期待を持たせたくない。期待が大きければ、失望も大きくなる。だから…どうか本当のことを教えてくれ。」


イヒョンは静かに息を吐いた。彼の顔には疲労の色が滲んでいたが、瞳だけは決して揺らぐことなく輝いていた。言葉を選ぶように一瞬立ち止まり、二人からの切実な視線を受け止めた。その瞬間、庭を吹き抜ける冷たい風が彼の頬を撫で、重い沈黙を満たした。


イヒョンはもう一度、静かに息を吐いた。かつて病院で外科医として働いていた頃、患者の家族から何度も投げかけられた質問が脳裏に浮かんだ。生死の境に立つ患者を前に、必死に真実を求めるあの声。今、ドランとアンジェロの眼差しは、その時と何一つ変わらないものだった。


彼はそっと顔を上げ、空を見上げた。太陽はすでにコラン城の城壁の向こうに沈み、青みがかった灰色の空には、ぽつりぽつりと星が瞬き始めていた。その静かな光は、まるでイヒョンの心に小さな慰めを与えるかのようだった。


「カレンの状態は、今、非常に危うい境界線にあります。」


イヒョンは落ち着いた声で話し始めた。その声には確信が宿っていた。


「敗血症のせいで、体のいくつかの臓器が損傷しています。でも…まだ希望はあります。私が学んだ医学、私が信じる知識が間違っていなければ、カレンの体は今も懸命に闘っています。そして、私たちにもまだ彼を救う手段が残っています。」


ドランとアンジェロは黙って彼の言葉に耳を傾けた。二人の瞳には、不安と期待が複雑に絡み合っていた。


アンジェロは少し躊躇した後、口を開いた。


「今さら聞くのも少し滑稽だけど…イヒョン、君はいったい何者なんだ?」


その声には好奇心と共に、イヒョンへの信頼が滲んでいた。イヒョンは一瞬目を閉じ、星空の下で静かに答えた。


「私は…人を救う仕事をしている者です。」


イヒョンの言葉は簡潔だったが、深い響きを帯びていた。まるで彼の人生すべてがその一言に溶け込んでいるかのようだった。


「私はただ遠くから来た異邦人ではありません。」


イヒョンは星空の下で落ち着いた声で言葉を続けた。


「私は地球という場所から来ました。どうやってこの世界に来たのか、私自身にもわかりません。でも、そこで私は人を手術し、薬を作って治療する仕事をしていました。神殿ではなく、病院という場所で、人の命を扱う仕事をしてきたんです。腹を開いて臓器を切り、縫い合わせ、血管を縫合して血を止める…そうやって人を救いました。それが私の職業でした。」


ドランとアンジェロは彼の話を聞く間、息を潜めていた。彼らの常識では到底理解できない話だった。癒しの神官でもない、ただ一人の人間の手と知識で命を救うこと――それが本当に可能なことなのか、彼らの頭の中は混乱でいっぱいだった。


アンジェロはしばらくしてようやく口を開いた。彼は少しぎこちなく笑いながら、首を軽く振った。


「結局、君はそこで…神や神官がするようなことをしていたってことだろ?」


イヒョンはきっぱり首を振った。


「神の仕事ではありません。教育と訓練、そして絶え間ない努力で可能なことなのです。」


「そして今…私はここでその仕事を再びやっているのです。」


イヒョンの言葉は簡潔だったが、深い響きを残した。庭に流れる冷たい風の中で、確信に満ちたイヒョンの声は、ドランとアンジェロの胸に静かに染み込んでいった。彼らはその言葉を完全に理解できたわけではなかったが、イヒョンの瞳から溢れる真心だけは疑う余地がなかった。


アンジェロはイヒョンをじっと見つめた後、短く息を吐いた。彼の瞳にはまだ微かな不安が残っていたが、イヒョンの言葉に少しずつ心を落ち着かせる様子が窺えた。


「…わかったよ。」


彼は低く呟いた。


「君の話はまだ頭の中で整理しきれていないけど…とにかく希望があるってことだろ? それでいい。もう何も言わないよ。」


彼は再びタバコのパイプを深く吸い込んだ。唇の間から吐き出された煙が、冷たい夕方の空気の中でゆっくりと広がっていった。


アンジェロは一瞬言葉を止め、イヒョンをちらりと見て話を続けた。


「明日も…カレンが息をしているなら、その時は俺が君に酒を奢るよ。」


隣でドランが小さく笑い声を上げた。「じゃあ、俺は最高級のステーキを焼いてやるよ。」


イヒョンは黙って頷き、静かに微笑んだ。彼の顔には疲労の色が滲んでいたが、その微笑みは温かく輝いていた。


庭の焚き火が微かに揺らめく中、三人の静かな会話は夕方の風に柔らかく溶け込んでいった。


________________________________________


コランの夕暮れは、昼間よりも一層活気に満ちていた。


広場周辺の店々は次々と灯りをともし、客で賑わっていた。商人たちの呼び込みの声が通りを活気づけ、店の前の提灯が夜の入り口を温かく照らしていた。街の中心部は、店々の明かりによって、依然として穏やかな光に染まっていた。


だが、ドランの家がある郊外の区域は違った。人通りが少なく、静けさが漂い、闇はまるで幕のように静かに降りていた。その影の中、ひとりの人影が息を潜めていた。


セルカイン。黒いマントで身を包んだ彼は、低い塀の向こうの動きを鋭い目で観察していた。その背には一本のクロスボウが吊るされていた。


ネルヴァ(Nerva)。


それは平凡なクロスボウとは全く異なる気配を放っていた。長さは肘から指先までよりやや長く、滑らかで鋭いシルエットは、まるで生きている獣のように鋭い脅威を秘めていた。


セルカインの呼吸音は、闇の中ではほとんど聞こえないほど浅かった。彼の眼差しは冷たく鋭く、塀の向こう、ドランの家から漏れる微かな明かりを見つめ、何かを待っているようだった。


ネルヴァの柄から先端まで続くボディは、機能的でありながら息をのむほど美しかった。弓臂の流麗な曲線は、まるで生き物のようにしなやかで、黒い鉄と銀が混ざり合ったような金属でできたボディは、見る角度によって微妙に色が変化した。その神秘的な光沢は、見る者の視線を奪い、単なる武器ではないことを一瞬で悟らせた。


ネルヴァは、セルカインが大切にしているクロスボウだった。しかし、それはただ美しい武器ではなかった。憎しみ、怒り、貪欲のコルディウムが宿る【アルマ・コルディア】だった。


強力なコルディウムを持つ者は、自分の感情や意志を物に投影し、特別な力を与えることができた。このクロスボウは、インテルヌムのベルダックがノークリルに特別にコルディウムを注ぎ込んだアルマの一つだった。その力は、まるで闇の中で息をする獣のように鋭く、脅威的だった。


今、セルカインは闇に身を潜め、気配を殺していた。彼の目は、ドランの家から漏れる微かな明かりを鋭く見つめ、適切な瞬間を待っていた。


彼はアズレムから、拉致が不可能な場合は静かに排除せよとの命令を受けていた。


ここ数日、目標を綿密に観察したセルカインは、拉致は不可能だと結論づけた。殺すことだけが唯一の選択肢だった。


コランは商業で繁栄する裕福な都市だった。その富を基盤に訓練された防衛兵力は侮れないレベルであり、セルカインは彼らの目を避けて動かなければならなかった。


彼の手はネルヴァの柄をしっかりと握り、冷たい金属の感触が彼の決意をさらに固めた。


どんなにインテルヌムの精鋭騎士ノークリルであっても、セルカインは優れた能力を持つ者にすぎず、無敵や不死の存在ではなかった。


コランに駐留する数多くの訓練された兵力と戦えば、どんなに彼でも不利なのは明らかだった。セルカインは慎重でなければならなかった。彼の計画は、一度きりの機会で終わらせることだった。


彼は闇の中で息を潜め、イヒョンが家から出てくるのを待った。彼の目は影のように静かだったが、その奥には鋭い決意が閃いていた。


家の中から微かな気配が聞こえた。ドアがキィと音を立てて開き、イヒョンがドランとアンジェロと共に庭へ足を踏み出した。夕方の風が彼らの服の裾を軽く揺らした。


闇の中で、セルカインの目が冷たく光った。彼はゆっくりと膝をつき、背に吊るされていたネルヴァを手に握った。金属の冷たい感触が彼の手のひらにしっかりと伝わった。セルカインは低く、陰鬱な声で囁いた。


「フラグメンタム・ネガーレ。」


【否定の欠片】


彼の指先から暗く鋭い気配が凝縮し始めた。空気中に微かな震えが生じ、疑念と不信、憎しみが絡み合った気配が、鋭い先端を持つボルトとして形を成した。そのボルトは、まるで生きている悪意のように微かな黒い光を放ち、ネルヴァに装填された。


標的に向けて静かに視線を固定し、一度きりの機会を狙った。


その矢じりには、怒りと貪欲、憎しみと偏見が絡み合った呪いが宿っていた。そのボルトに撃たれた者は、自分の感情を抑えきれず、結局自分自身と周囲を破壊し、自滅の道へと突き進むだろう。


「これで終わりだ。」


セルカインは冷たく囁き、ネルヴァの引き金を引いた。


―シュッ―


小さな音と共に、ボルトは暗闇の通りを切り裂いて飛んでいった。闇を突き抜けるその軌跡は完璧で、角度は標的を正確に捉えていた。


だがその瞬間、ドランの家のドアがバンと開き、エレンの明るい声が庭に響き渡った。


「おじさーん! おじさーん! 悪魔が来るかもしれないから、早く城に入って一緒に夕飯食べようよ!」


エレンは鹿の角のナイフを振って、無邪気な笑顔を浮かべながらイヒョンに向かって駆けてきた。彼女の足取りは軽やかで、その笑い声は闇の中でも温かな光のように広がっていった。


その瞬間、標的に向かって飛んでいたボルトの軌跡が微かに揺れた。完璧だった直線がわずかにずれて、ボルトは意図しない方向へと逸れた。


『そんな…!』


セルカインの瞳が一瞬揺らいだ。


ボルトは空中で奇妙な曲線を描き、まるで意図しない方向へと逸れて飛んでいった。


―ガシャン!―


鋭い音と共に、ボルトはドランの庭の隅に積まれた古い板の山に突き刺さった。古い木材が砕け、破片が四方に飛び散り、セルカインのコルディウムで作られたその黒いボルトは、まるで最初から存在しなかったかのように跡形もなく溶けて消えた。


エレンは目を丸くして、「わあ!」と歓声を上げた。彼女の澄んだ笑い声が、暗い庭をぱっと明るくした。


「今! あそこ、見た!? 何か飛んでったよ! 鳥みたいだったけど…おじさん、見た!?」


イヒョンは首を振ってエレンが指さした方向を見やった。しかし、砕けた木の板が散らばっている以外、何の気配も感じられなかった。ドランとアンジェロも、木の山から響いた破裂音に気づいたが、ただ風が擦れた雑音だと思い、首を振った。


イヒョンはエレンに向かって優しく微笑んだ。彼の顔にはまだ疲労の色が滲んでいたが、その微笑みは温かく、穏やかだった。


「そうだね、行こう。城の中はもっと暖かいよ。」


エレンはぴょんぴょん跳ねながら笑った。


「うふふ~ 今夜は何を食べるかな?」


彼女の無邪気な声が庭を軽やかに満たし、イヒョンとドラン、アンジェロはその明るい雰囲気に引かれるように家の中へと足を踏み入れた。闇に潜んでいたセルカインは歯を食いしばり、影の中にさらに深く身を隠した。


エレンがぴょんぴょん跳ねながら楽しげに駆けていくと、イヒョンとドラン、アンジェロは思わず微笑んで、その小さな少女に続いて家の中に入っていった。エレンの澄んだ笑い声は、暗い庭に温かな余韻を残した。


だが、影に身を潜めていたセルカインは、なおもその場に留まっていた。彼の顔には信じられないという表情が一瞬よぎった。


「ありえない…」


彼は低く呟いた。その声は闇の中で響き、重い挫折感を露わにした。


「私の…否定の欠片が…逸れただと?」


否定の欠片は単なる武器ではなかった。憎しみと不信、貪欲が凝縮されたコルディウムで作られたボルトだった。その呪われた矢じりに撃たれた者は、内なる負の感情が爆発するように増幅され、他人を攻撃するか、自らを破壊する。しかも、セルカインの狙撃の腕前はインテルヌムでも指折りのレベルだった。近距離で標的を外すはずのない彼が、こうも呆気なく失敗したという事実は、到底受け入れられるものではなかった。


なのに、さっき、ボルトが飛んでいたその瞬間、まるで見えない力に押されるように軌跡がずれたのだ。


セルカインの脳裏に一つの場面がよぎった。エレンが鹿の角のナイフを振って明るく笑っていた姿、そして彼女がイヒョンに向かって駆けていったまさにその瞬間、ボルトが方向を曲げたという事実が。


「…あの娘が原因なのか?」


彼は独り言のように呟いた。彼の眼差しは鋭く光っていたが、その中には混乱と疑問が絡み合っていた。


「あの娘はいったい…」


セルカインはさらに深い闇に溶け込むように身を隠した。彼の影は、まるで最初から存在しなかったかのように、庭から完全に消え去った。



読んでくれてありがとうございます。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ